二の十 エメリヒ 七月十二日
――あなた、日本に行くべきだわ。
日曜日、サイクリングの終わりに寄ったカフェで、アイスカフェオレを飲みながら、グレートヒェンが言った言葉が耳にこびりついて離れないのだった。
エメリヒはその言葉を、この四日ばかり、なんども反芻していた。
グレートヒェンは続けて言った。
――ねえ、エメリヒ、あなたのルーツは日本にあるのでしょう。だったら、日本に行って、お父さんやお祖父さんの歩いた人生をたどりなおしてみるべきよ。
なぜ、突然そんなことを言いだすのか。
確かにエメリヒの父はドイツ人で母が日本人だった。祖父の代から家族は日本に住んでいたが、エメリヒが生まれた頃に東西ドイツが統一され、その混乱がある程度おさまったころに、家族はドイツへと戻ったのだった。
怪訝な気持ちをかかえながら話の先をうながしてみると、グレートヒェンは、
――どうも、あなたの心の中には、ぽっかりとした穴があるような気がするの。なにか大切なものが抜け落ちているような。それで私なりに色色と考察してみたのだけれど、その抜け落ちているのは、あなた自身なの。あなたは、自分が何者で何をするべきなのかわかっていないのだわ。
溜め息をついてカフェの窓の外を眺めるエメリヒに、
――だから、日本に行きましょう。もちろん私もついていくわ。
――なんだ、日本に行きたかっただけなんじゃないのか。
――うふふ、それもあるわ。あら、まだ乗り気じゃないようね。だったら、これで決めてみない。
グレートヒェンは、財布からコインを一枚取り出して、にっと笑うと、指で宙に弾きあげ、それを手のひらですくって、もう一方の手の甲に乗せるのだった。
――裏。
としぶしぶ答えたエメリヒを見つめながら手を開いて、
――表。日本旅行決定ね。
グレートヒェンはおかしくてたまらないというふうに、けらけらと笑ったのだった。
エメリヒはそうして、この数日は貯金通帳とにらめっこする羽目に陥ったわけであった。グレートヒェンと泊まりがけの旅行に行ったっていい時分ではあろう。彼女は自分の旅費は自分で工面すると言うが、ある程度はエメリヒが出さざるを得ないだろうし、わずかな貯金では自分の旅費を捻出するのさえ、心もとない。
夕食後のひと時、モーツァルトのピアノ協奏曲を聞きながらベッドに寝そべり、そんなことを考えていると、スマートフォンが唐突に不協和音を奏ではじめた。
グレートヒェンからの電話である。
「エメリヒ?」
電話の声に聞き覚えはなく、そのどこか怯えたような息づかいにエメリヒの鼓動が高鳴った。その声は、女であったが、どこか幼い喋り様であった。
「おばあちゃんは電話に出ないし、どうしていいかわからなくって、私」
そこまで聞いて、エメリヒの脳裏に相手の名前が思い当たった。
「アーデルハイトだね。落ち着きなさい、いったいなにがあったんだ」
「お母さんが連れていかれた」
「誰に?」
「警察」
「警察?その警察の人は連れていく時に何か理由を言わなかったかい」
「お父さんが行方不明だとか殺されたとか」
「お父さん……、ローラント・ミュラーのことか?」
「うん」
これ以上事情を問うのは酷とみて、エメリヒは、
「落ち着きなさい、アーデルハイト。いまから私がそちらに行くから。おばあちゃんには電話をかけ続けなさい」
そうして電話を切ると、エメリヒは家を飛び出し、車に乗って、五キロばかり北の、R市の反対側にあるグレートヒェンの家へと急いだ。
畑の脇の住宅街の、二階建てのメゾネットタイプのマンションの一室を探しあてた。まわりに近所の人達が(野次馬見物人だろう)家を取り囲むように人垣を作っていて、エメリヒは車を路地にとめると、乱暴に人人をかき分けながら玄関まで走って呼び鈴をならした。
すぐに、小柄な十二歳の少女が顔を出し、怯えた目でエメリヒを見つめるのだった。
「エメリヒだ。もう大丈夫だよ」
そう言うと、緊張の糸が切れたように、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣きはじめるのだった。
泣きじゃくる彼女をそっと誘って、リビングまで連れて行って椅子に座らせて、エメリヒは片膝ついて彼女の手を優しく握って、
「おばあさんには連絡は取れたのかい」
「うん」ひくひくとしゃくりあげながら、アーデルハイトは答えた。「いまこっちに向かってる」
「捕まった時、警察の人は確かにお母さんがローラントを殺したと言ったのかい」
「よくわからないけど、容疑がかかってるとか、任意同行とか、言ってた」
「容疑……、任意同行……、ということは、まだお母さんが犯人と決まったわけではないということだね」
「本当?」
「ああ、ただの間違いだよ」
「お母さんもそう言ってた」
「うん、そうだね」
警察がスマートフォンを押収していかなかったことから考えても、逮捕ではなくて事情聴取が目的なのだろう。
「他にお母さんは何か言っていなかったかい」
「おばあちゃんとエメリヒに連絡しなさい、って」
そうしてアーデルハイトを
見知らぬ男が娘の家にいることに不審そうな顔をする老女に、エメリヒは自己紹介だけして、家を出た。アーデルハイトは名残惜しそうな顔をしていたし、エメリヒもついていてやりたい思いはあったが、この先は肉親の問題だという気がした。
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