第26話 時空の先

 ◆


 灼熱の炎の中で彼女は無意識にお腹を掴み、手を伸ばした。


「あつい、あつい……助けて……子どもだけでもどうか……」


 忘れられない日。あの火事のあと、気がついたときには真っ白な部屋で横たわって、まぶしいライトを見た。自分の周囲には青い手袋をした手が忙しそうに動き回っていた。


 ――どうか、妻を、妻を助けてください。


 夫の泣き叫ぶ声が聞こえる。


「ダメ……を……ゆう…せん…」


 彼女の意識はそこで途切れた。


 ◆


「うう、空間が……世界が…」


 武彦が体を起こすと、その場所は魔王の国ではなかった。


「ここは……」


 見慣れた川と道路、反対側には知っている街並みだった。ここは元の世界? 今までは夢だったのか? 武彦は上半身を起こしたまま呆然としていると、道路の奥から自転車が向かってきた。轢かれる! 慌てて移動しようとしたが間に合わなかった。


「え?」


 自転車はそのまま走っていった。武彦の体をすり抜けたのだ。武彦は信じられないと思った。自分は幽霊になってしまったのだろうか? 近くにあった石を触ろうとしたが、空を切る感覚しかなかった。

 武彦は起き上がると川に沿った道路を走りだした。家に帰りたい。家族はどうなったのか。そして自分は本当に死んだのかを確かめに走った。


 家の前の玄関の前で武彦は立ち止まった。母の趣味の花畑はぼうぼうと雑草が生えていた。あんなに熱心にお世話していたのに。武彦は不安な気持ちのまま家の中へと入った。


 部屋の中は薄暗く、台所からカチャカチャと物音が聞こえた。


「母さん?」


 ゆっくりと武彦は近づいた。台所に立つ母の後ろ姿が見えた。パチパチと油で揚げる音がした。母親は出来上がったものをお皿に乗せると、武彦がいつも座っていたテーブルに置いた。

 廊下から人が現れる。父だ。丸かった顔が今は頬がこけている。そして静かに母に話しかけた。


「トンカツか?」

「ええ、武彦が楽しみにしていたもの。いつ帰ってきてもいいように作ったの」


 母は答えた、父は悲しそうな顔をして、母を抱きしめた。


「母さん、父さん」


 彼らに声をかけた。触れた。しかし体はすり抜け、気づいてもらうことも、ぬくもりを感じることもできなかった。

 家のチャイムが鳴った。母親が玄関へ急いだ。


「こんな時間にすみません。」


 玄関から一人の男性が現れた。


「いいえ、来てくれてうれしいです。どうぞ、上がってください」


 母に招かれ男性が玄関に入ると、それに続くように女性とそれにぴったりとくっついている少年の姿が見えた。男性の顔に見覚えがあった。華純の旦那に少し似ているような気がした。


 母親が来た人をリビングにもてなした。


「息子は来年から小学生3年になります」


 男性が少年の頭を撫でながら言った。


「武彦さんが助けてくれたおかげです。本当に感謝しています」


 女性は涙を浮かべながら頭を深く下げた。


「僕ね。お兄ちゃんみたいなヒーローになるんだ」


 男の子が言った。この少年は川で助けた少年だ。よかった子供は助かっていた。武彦はずっと少年の生死が気になっており、ほっとした。


「私たちも息子さんが見つかるまで、最後まで手伝いをさせてください。その……少ないと思いますがこれを捜索の費用に……」


 男性がカバンから紙の封筒を取り出し、渡そうとした。しかし、それを母は手で止めた。


「そのお気持ちだけで十分です。息子はきっとどこかで生きていると思うのです。武彦はたくましい子ですから」


 玄関の外で少年の家族を見送った。すると玄関の外から見ているものがいた。華純だ。ふらふらと少年の父親のほうに近づいた。武彦は何をする気だと一瞬警戒した。しかし華純の異変に気付き、その様子を静かに見ることにした。


「あの人にそっくり……ああ…うそ……助かったの? 生きていたの?」


 華純はその場でしゃがみ込み激しく泣いた。武彦は華純に近づき、しゃがんで肩をさすった。恐ろしかった存在は、いまはもうただの哀れな存在だった。


「帰りましょう、華純さん」


 華純の顔の前に手を差し出した。華純はその手に見向きもしなかった。ただ少年とその両親たちの帰っていた方向へ手を伸ばし「待って、行かないで」と泣き叫んでいた。


「華純さん!」


 武彦は華純の顔を両手でつかむと自分の顔のほうへ向けさせた。


「私たちはこの世界では死んだんです。家族もそのことを受け入れて、前に進んでいます。だから…」

「私はここにいたい」

「だめです。愛するものと会えないつらさをあなたはよく知っている。でもあなたは罪を犯した。だから連れて帰ります。」


 武彦は華純の手を強く握った。華純は武彦を犠牲に元の世界に戻ろうとした。武彦を殺そうとした。華純は武彦に恨まれても仕方ないと思っていたが、武彦は華純を責めなかった。華純は武彦の純粋な思いに罪悪感と感謝を抱いた。


「そうね。孫の命の恩人のあなたのお願いを聞かないとね」


 華純は覇気のない弱弱しいこえで答えた。戻るわと華純が手を握り返し、光に包まれた。


「さようなら」


 武彦は自宅の窓から見える両親に別れを告げた。



 ◇



 リナシーはゆがんだ空間に飛び込んだ。それを見ていたレドモンドは慌ててリナシーの後を追った。リナシーは正気じゃない。レドモンドはリナシーに戦えと言った責任感を感じていた。


 穴の中は暗闇で、時空の歪みが感じられた。レドモンドはリナシーの側に行くと、出口を探した。すると突然光が差し込んで来た。穴が開いている。出口だと思って近づいたら、信じられないことに気づいた。穴の先は別の世界だった。お祭り会場になっている街だ。魔族に荒らされた街は綺麗に飾り付けられている。この穴の先は魔族に襲撃される前の時間軸だ。そう思ったとき、リナシーが穴に近づいた。穴の先の赤い髪の人物を見つめている。


「モイラさん!」


 そう言うとリナシーは穴に入ろうとした。リナシーが腕を入れた瞬間、彼女の体は激痛に襲われた、リナシーの体が崩壊し始める。体がじわじわとモザイクのように変化していく。


「やめろ!」


 レドモンドはリナシーの体を引っ張った。しかし、リナシーは進むのをやめない。


「モイラさんを助けるの! モイラさん!」


 彼女は上半身は穴の向こう側に行った。レドモンドは必死にリナシーを連れ戻そうと自分の手が穴に浸食されてもかまわずに引っ張る。リナシーは穴の向こうでモイラを見た。手を伸ばす。お祭り会場で再会したときのモイラだ。その時に見た空間の裂け目から現れたモザイクの人物。それは今の自分だとリナシーは悟った。


「大丈夫よ、リナシー」


 穴の向こうモイラが優しく微笑むと、リナシーに火の結晶を手渡した。そしてそのままリナシーをやさしく押した。

 レドモンドは急にすんなりと戻ってきたリナシーに驚いた。目の前の穴は塞がり、背後から魔方陣が現れ、その中央に穴があく。穴の先は崩壊した魔族の国。レドモンドは呆然としながらモイラと別れたリナシーを抱えて穴に向かった。                        



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