宙を舞う景色は

高村 芳

宙を舞う景色は

 彼の死を知ったのは、スマートフォンの画面だった。夏休みに入って間もない日の朝、カーテンの隙間から漏れ入った光のせいで起きた僕は、ベッドに寝転びながらいつものようにSNSのアイコンをタップした。文字ばかりの画像が表示される。


『Sの姉です。突然のご連絡ですが、昨日の夜、Sは他界しました。』


 え、と掠れた声が漏れた。あわててからだを起こした僕はそのまま動けなくなった。一階から母さんの「早く起きなさい」という声が聞こえる。ちょっと待って、ととりあえず返事をして、腫れぼったい目をこすってから画面の文字の続きを目で追った。


『車と衝突する事故でのことでした。突然で、家族一同まだ実感が湧いていません。』


 交通事故で? 彼が死んだ? なんかマンガみたいな話だと、働かない頭で思った。


『弟がパルクールを始めて以来、SNSでみなさんと交流することをとても楽しんでいるようでした。こんなご連絡となり、残念な気持ちでいっぱいです。』


 スクロールすると、タイムラインにはおとといの日付の動画がアップされている。いつも彼が練習しているらしい公園で、新しい技を試している彼の姿がそこにあった。動画には「マジでムズい!」とだけ本人のコメントが残されている。僕は彼の姉の投稿に視線を戻す。


『このアカウントは残したままにしようと思います。みなさん、どうか弟がいたことを覚えていてやってください。弟に代わり、今までありがとうございました。』


 画像に書かれた文章はそれで終わっていた。コメント欄をタップすると、ずらりと返信がついている。


『突然のことで驚いています』

『ウソだろ。早すぎるよ』

『ご冥福をお祈りします』

『Sさんの技がもう見れないの残念です』

『ご家族の皆様もご無理ないように』


 コメントの入力欄をタップして、僕の指が止まる。何を書けばいいのか、よくわからなかった。しばらくそうしていると、いっそう大きくなった母さんの声が二階まで飛んできた。何も入力せずにスマートフォンをポケットにつっこんで、急いで一階へと降りる。


「もう、早く朝ごはん食べちゃいなさい。自分でお皿、洗わないんだから」


 一階はエアコンが効いてて涼しかった。ダイニングテーブルの上には、食パンと目玉焼きと油が冷えて固まったベーコンが置かれていた。僕は冷蔵庫のドアポケットにあるアイスコーヒーをマグカップに注ぎ、席につく。マーガリンを塗った食パンをおもむろにかじった。それはすっかり冷めていて、もっさりとした食感が口の中の水分をうばっていった。なんとかアイスコーヒーで流し込む。味はよくわからない。


「あんた、今日も海行くの?」


 うん、と応えると、「気をつけなさいよ。骨折って夏休みが台無しになっても知らないからね」と母は皿を洗って言った。うん、と僕はもういちど頷いて、残りの食パンを口につめこんだ。


 シャツとハーフパンツに着替え、タオルとスマートフォン、財布だけ持って家を出た。朝なのに、日差しが強い。蝉がもう鳴いている。電車に乗り、三駅先で降りる。自動販売機で水を買い、五分も歩けば砂浜にたどり着いた。目の前には、海が広がっている。

 今日は風が凪いでいた。海水浴場になっているスペースでは、家族づれや大学生たちのはしゃぐ声が飛び交っている。それらを横目に、アスファルトの堤防に沿って歩いていく。泳ぐ人たちの邪魔にならないよう、海水浴場の端まで歩く。

 海の家やトイレから遠く離れているからか、堤防の端のあたりには誰もいなかった。あるのは熱をこれでもかと蓄えた砂浜と、砂浜から二メートルほどの高さのアスファルトの堤防だけ。ここが、僕のいつもの練習場所だった。

 入念にストレッチをして、アスファルトから飛び降りては階段を上り、また飛び降りる。パルクールの基本技であるランディングをふまえた準備運動だ。準備運動をはじめてすぐ、もう汗があごから流れはじめた。何度も何度も、僕は堤防から飛び降りる。


 彼の動画を観たのは偶然おすすめ欄に表示されたからだった。彼の動画を何本か観たあと、僕はパルクールのことを調べていた。高校に入学したのに部活動に入らなかったから、体力を持て余していたこともあったからだと思う。自分の身ひとつで、街中や公園なんかの障害物を飛び越えていく、見たことのない新しいスポーツ。気づけば近くの公園に行って、基本技から真似をしはじめた。小さい頃に体操教室に通っていたから簡単だろう、とみくびっていたあの頃の自分は馬鹿だったなと思う。最初は全然うまくできなくて、しょっちゅう膝や手のひらを擦りむいたり、足首を捻挫したりした。悔しくて休みのたびに練習した。動画を穴が開くほど観るせいで、通信制限にかかることはしょっちゅうだった。ああ、足はこうやってさばくんだなとか、この繋ぎカッコいいなとか、とにかく彼の新しい技を見るたびに真似をした。


 今日はどの技を練習しようか。慣れた手つきで彼の動画チャンネルを開く。そこにはいろんな技に挑戦している彼がいる。適当にサムネイルをタップする。何度も見た、回転しながらランディングする動画だった。

 スマートフォンの小さな画面の中で、彼が宙を舞う。たまにカメラに向かって動作の解説やコツを話す。すこし失敗して、照れくさそうに笑う。


 パルクールを始めて一年経ったころ、隣県で開催されるパルクールの大会に出場するのだと彼がSNSに投稿していた。僕はもしかしたら彼に会えるかもしれないと、電車を乗り継ぎ、ひとりで大会を観に行ったことがある。観客席は関係者っぽい人たちばかりで、僕は何かから隠れるように隅のほうに座っていた。

 彼の順番になり、開始のホーンが鳴ると同時に、それほど大きくないからだが軽い足どりで飛び出した。フィールドに広がる障害物を、流れる水のように澱みなく飛び越えていく。からだをひねり、ポールをまわりこんで高さのある障害物を渡っていく。彼にとって、障害物は障害でもなんでもないように見えた。まるで手をとって一緒に踊っているようだと思った。彼の競技が終わったとき、自然と拍手をしていた。

 大会からの帰り、電車のなかでSNSを見ると、メダルを掲げる笑顔の彼の写真が投稿されていた。僕ははじめて、彼の投稿にコメントを残した。入賞を祝う言葉と、自分もパルクールを始めたこと、大会を観に行っていたことも簡単に添える。

 その夜、布団に入る直前にスマートフォンの通知音が鳴った。SNSを開くと、そこには彼からの返信があった。


『はじめまして、ありがとうございます! これからも頑張ります!』


 それは初対面(対面はしてないけれど)の人間にたいしてあたりさわりのない、言うなればフツーの返事だった。「これから仲良くしてください」などと距離を縮めるような雰囲気もない。それなのに、スマートフォンを持つ手と、目尻のまわりがジュワッと熱くなる感覚があった。もう寝ようと布団をかぶったけれど、しばらく寝つけなくて翌日の学校に遅刻したことを覚えている。


 堤防の上に立ちあがる。二メートル下の砂浜には、僕の足跡がいくつもついている。深呼吸して、振り子のように片足を大きくふりあげてから、僕は堤防を思いきり蹴りつけて飛んだ。

 自分の胴体をひねると同時に、景色がぐるんと回転する。着地する瞬間、上半身がぐらりと傾く。あ、と思った瞬間、尻餅をついていた。砂の熱がハーフパンツ越しに伝わってきて、あわてて立ち上がる。失敗した。肘やふくらはぎについた砂をはらって、また堤防の階段をあがる。

 どのくらいそうしていただろう。飛んでは失敗する。同じことの繰り返しだった。違いがあるとすれば、着地を失敗したあとの転びかたくらいだ。買っていた水は瞬く間になくなり、自動販売機へ買い足しに行った。水を飲んで、彼の動画を見返した。


 公園にあるオブジェの段差から飛んで宙を舞った彼は、なんとか着地を決めたあと、「できた」と叫び、驚いたような顔をして笑う。カメラを撮っていたパルクール仲間とハイタッチしてから、カメラに向かって親指を立てた。動画を最初のほうまで戻して彼の体さばきをもういちど確認する。頭のなかで動きをイメージしてから、僕はまたスマートフォンを置いて堤防の縁に立つ。太陽の光が真上から差していて、砂浜に僕の影がくっきりと落ちている。


 技を決めたとき、彼はどんな景色を見たのだろう。宙を舞うコンマ数秒の同じ景色を、僕も見てみたい。飛び技なんて、僕にはまだ早い。そんなことはわかっていた。大きく息を吐き、堤防から大きく飛んだ。

 景色は一回転した。着地した足が砂に埋まり、バランスを崩して背中から落ちる。息が止まりむせこんだ。全身に痛みを感じたまま、目を開ける。青すぎる空が広がっていた。日焼けしているのだろうか、目の周りや頬がヒリヒリと痛んだ。入道雲がじんわりと空に滲んでいく。砂の熱で背中を火傷しそうになる。今朝の画像の無機質な文字が思い出される。


『車と衝突する事故でのことでした。』


 なんで、あんな才能がある若い彼が死ななければならないんだろう。どんな事故だったのかな。彼が道を歩いていたら、車がつっこんできたんだろうか。彼くらい動ける人でも、逃げられなかったのかな。車にはねられて宙を舞う最中、彼が最期に見たのは、どんな景色だったのだろうか。アクロバット技を決めてるみたいだと思ったかな、もっとパルクールがやりたかった、とか思っていたのかな。そんなとりとめのない考えが熱さとともにこみあげてくる。砂浜に仰向けになったまま、僕は自分が涙を流していることに気づいた。


 休憩や昼食を挟みながら、結局夕方まで練習していた。夕飯に遅れるとまた母さんがうるさい。練習を切り上げ、汗や砂を海の家のシャワーで洗い流し、タオルで拭いて家路についた。

 帰りの電車、からだに心地よい気だるさを感じながら、SNSを開く。彼の姉の投稿には、今朝見たときよりも返信の数が増えていた。僕は車窓から差し込む夕陽に目を細めつつ、コメントを書きこんで送信ボタンをタップした。




   了

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