第6話 【簪】

孤蝶は先ほどの目が頭に焼き付いていた。いったい何だったのか......

しかし、そんなことを考えている場合ではない。さきほど乱入してきた男は一部の過激な 政治の一派と粘着の関係にある商家を、取り仕切っているらしい。たしか、政府から殺せと 依頼が入っていたはずだ。

「宵香。さきほどの男まだ店にいる?」

「はい。まだいます。酔香さんが接客中かと」 「そう、それじゃあ、その男......花魁からのお詫びだと言ってこっちに連れてきて」

「はい」

「ふん、詫びなんて何をすれば詫びになるかわかっているんだろうな。人の前でお前の客に 恥をかかされたんだぞ?」

男は蓮がいさめたときとは全く違う傲慢な態度で言った。

「あまり乱暴にはなさらないでくださいね」

と孤蝶は慣れた仕草で着物をはだけさせる。

「わかればいいんだよ」

男はむさぼるように口づけをしようとする。

「ええ、旦那様」

孤蝶はゆっくりと簪を一本外した。その簪は蝋燭の光を鋭く反射していた。

「おやすみなさい」

孤蝶は首筋にその簪を刺す。血が勢いよく吹き出た。その血が顔にかかる。服を脱いでお いてよかった。洗濯する費用もばかにはならないのだ。

男は口の端から血を流しながら何か言おうとしていた。

「楽しい夢を御覧くださいね」

孤蝶は言葉とは裏腹に冷たい顔で言った。目の前で起こったことが何という事でもない というように。

「宵香。掃除を頼んでおいて」

宵香も何ということもないというように頷き、孤蝶が立ち上がるのを支えた。

「はい。わかりました」


目標人物、誘惑に成功。


「孤蝶花魁、蓮の旦那様から素敵な簪が届いています」

宵香は桐で出来た箱を持ってきた。

「見せて」

宵香は少し驚いたような顔で、簪を手渡す。

「藤の花のような飾りがとても優美ね」

孤蝶はそう言って、その簪を手に取った。ゆっくりと飾りを指で遊ぶ。 しゃらりしゃらりと涼やかな音が鳴った。

「はい。でも、花魁が客からの贈り物に興味を示すなんて、珍しいですね」

宵香の言葉に孤蝶は少しだけ微笑む。

「そうかしら」

そして桐の箱に簪を直した。

「これは化粧台の上に置いていて。あの人が来た時につけるから」

「はい」

宵香もそれ以上は言わずに黙って、化粧台の上に置いた。



「この簪、どこでもらったんだい?」

なじみの旦那と部屋で話していると、その旦那が目ざとく化粧台の上の簪を指差した。

「ああ、これですか? 他の客にもらったんです」

そう単調に説明するが旦那はまだジッと簪を見つめている。

「こりゃ、大層な品だ。この金細工はかなり高価なものだし、この水晶はここらでは金貨何 万両で取引されるようなものだ。これを送ったのはお前さんにぞっこんな東の旦那か? それともお宮衆の老いぼれか?」

東の旦那も豪商で、お宮衆とは皇家の傍系のことで、その老いぼれと呼ばれたのはそこの七十にもなる好色な年よりの事だった。

やたら高価な品を互いに競うように持ってきては弧蝶の機嫌を取ろうとする。


それらは大概は禿たちの褒美になっているのだが。

「そいで、孤蝶。この簪だけは気に入ってるようだが?」

そう旦那がからかうように言う。この客は金が有り余っているらしく、ただの暇つぶしの ように孤蝶と共に酒を嗜んでいく。

「綺麗でしたから」

そう孤蝶が呟くように言うと、旦那はふっと笑う。

「花魁にも春が来たのか。いいや、ここは万年春だがな」

孤蝶の目をじっと見つめる旦那はあまりにも冷めた目をしていた。見透かすような老獪な目だ。

「お戯れを」

視線を外した孤蝶を面白がるように覗き込む。

「図星か? まあいいさ。また来る」

孤蝶は何故か冷や汗が出ていた。化粧が崩れていく。

旦那はいつもどおりさっさと帰って行った。

「花魁、化粧が崩れいていますよ」

宵香がやってきておしろいを差し出す。

「ええ」

鏡に向き直り、おしろいを塗り直す。鏡に映った自分を見つめる。真っ白なおしろいが隠 しきれないほど頬が赤くなっている。

「花魁?」

その様子を不審がったのか宵香が声をかける。

「何もないわ。下がっていてくれる?」

「はい」

宵香が完全にいなくなったのを見て、孤蝶は自分の首筋に触れる。熱い。あの蓮の視線の ように熱く、蠱惑的だ。

何を考えているのだろうか。花街の花魁が、しかも諜報員である自分が、異性に心を動か されるわけがない。

冷たく、淡々と、仕事を片付ける。それが自分、揚羽屋の花魁、孤蝶である。

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