あの日の海で待ってる

冬野瞠

メアとエリカ

 海を夢見る女の子の命綱に選ばれた。何の取りもない、この私が。



 睡眠時精神没入過剰症すいみんじせいしんぼつにゅうかじょうしょう、という疾患がある。

 病というよりも体質と呼ぶべきかもしれない。患者は文字通り、睡眠時に自己の精神世界に過剰に没入してしまうのだ。

 人間は誰しも夢を見るもので、睡眠時にもうひとつの人生を生きているとも言えるけれど、その疾患を持つ人にとっては比喩表現ではない。彼らの内なる世界は、現実と同じかそれ以上のディテールを持っている。

 精神世界は人によってどこまでも続く空であったり、光の届かない深い森であったり、波が打ち寄せ続ける海であったりするという。いずれも、人類が完全に地下世界の住人となってからは見ることの叶わなくなった景色ばかりだ。地表が汚染され人間の視覚から消えてしまった情景を、無意識のうちに脳は希求して人に夢を見させる。そうして睡眠時精神没入過剰症が生じたのだ、そんな説明をおこなう医者もいた。

 疾患を持つ人は夜毎に精神世界で一夜を過ごす。それは単なる夢ではなく、五感の感覚を伴う実体験に等しい。精神世界で深い怪我を負えば臓器を痛めるし、最悪の場合、昏睡して現実に戻れなくなったり、解像度の高い世界に耐えきれず自己認識が崩壊し名前や年齢や記憶をなくしてしまったりする。過去も未来も曖昧に溶け合って渾然一体となる精神世界は、疾患者の意識を執拗に揺さぶり続けるのだという。

 精神没入過剰症に治療法はない。多くは6、7歳の頃に発症し、年を経るごとに悪化し続けていく。

 唯一の対症療法は、精神的に相性のいい人間と触れ合いながら眠ることだ。それにより、精神世界に没入しても自己認識を正常に保てる。

 そのようなパートナーたちは、疾患者とともに毎夜精神世界へと潜り、現実世界と患者を繋ぎとめる命綱となる。際限なく落ち続ける空にあっては自由に飛ぶための大きな翼、ジャングルにあっては闇夜を照らし身を守る松明たいまつ、大海にあっては進む先を導き示す灯台、といったように。



「あなたはこの子の命綱になれる可能性があります」


 抑制的な声でわたしに告げたのは、地下政府所属のアンドロイドだった。

 思いもよらぬ言葉にわたしはぽかんとする。国家第三区統括庁からの「一人で来て下さい」との召集メッセージに応じ、政府に呼び出されるほどの何かを自分がやらかしたのか、とびくびくしながら馳せ参じればこれだ。わたしが精神没入過剰症患者の命綱だって? 一体何が起こっているのか?

 自分はいま、特別な国営施設のだだっ広い一室で、ソファに座った二人――少女と女性――と向かい合っている。部屋は壁も床も調度品も白で統一され、病室に近い印象をわたしに与えた。

 わたしの住むアパートの総床面積よりよほど広い部屋には、人間が三人とアンドロイドが一体きり。私の前に座る女の子は、青みがかった目をきらきら輝かせてこちらをじっと見つめている。


「ほら、自分でご挨拶して」

「あっ、うん。あの、私、睡眠時精神没入過剰症患者の、メア・シグマです。よろしくね、エリカ」

「え……」


 名乗る前に名を呼ばれて困惑する。思わずメアと名乗った少女をまじまじと見つめてしまう。

 おそらく母親であろう女性に付き添われた彼女は、自分もかつて着ていた中等部のセーラー服を身にまとっている。赤いスカーフだけは高等部でも同じものを使うから、ちょうど三学年違うことが分かる。地毛であろう珍しい銀髪は長く伸ばされ、ミステリアスな雰囲気を漂わせているが、溌剌とした表情はミスマッチでもあり、不思議な魅力を醸し出してもいた。

 メアの笑みに若干の不安が混じる。


「違った? エリカじゃ、ない?」

「いいえ……わたしはエリカ・クレイ。名前は合ってます」

「良かった! エリカ、やっと会えた」


 少女は満面に眩しいほどの笑みを浮かべた。

 わたしは状況にまったくついていけない。やっと、とはどういうことだ。この少女に会ったことがあっただろうか? いや、こんな印象的な銀色の髪はそう簡単に忘れられるものではない。確実にわたしたちは初対面だ。


「あの、なぜ私の名前を知っているの?」

「それはだって、あなたが言ってくれたから。『わたしがメアの光になるから、絶対見つけて。わたしはあなたの命綱だから。大丈夫、あなたは見つけられる』って。その言葉通りに探して見つけたんだよ。私は第一区生まれだから時間がかかっちゃったけど」

「はあ……? 意味が分からないんだけど」


 同じ場に少女の母親もいるというのに、声が刺々しくなってしまう。

 何かの詐欺を疑いたくなるが、わたしみたいな平凡な高校生を政府が直々に騙す道理もない。


「わたし、そんなこと言った覚えないし。あなたと会うのだって初めてなのに。人違いじゃないの?」

「でも、本当なんだよ……嘘じゃないの」


 一転してメアは泣き出しそうな表情をつくる。話が全然見えないが、見かねたアンドロイドが端的に説明してくれたところによると、こうだ。

 メア・シグマはわたし――エリカ・クレイに命綱になってほしいと願っている。つまり、精神没入過剰症の症状を緩和するために、夜一緒に眠ってほしいというわけだ。

 その理由は、わたし自身がメアに約束したから。

 最後の理屈は理解不能だったが、二人がかりで説得され、近々共寝のトライアルをすることになってしまった。この建物に誂えられたベッドで、メアと一緒に眠ることになるらしい。初対面なのにエリカ、エリカとまとわりついてくる少女相手になぜ了承したかといえば、国から謝礼金が貰えるからにほかならなかった。

 地中の天蓋に貼り付けられた、人工天空の傾いた日差しを浴びながら、今日のところは帰宅する。頼まれ事を両親に説明すると、二人は揃って目をまん丸にして驚いていた。精神没入過剰症については、わたしも少しは知識があったが親ほどではない。なんでも、患者のパートナーは血縁関係がある親きょうだいや子、いとこである場合がほとんどで、赤の他人が選ばれる例など聞いた覚えがないのだそうだ。

 ますます不可解な状況であることが浮き彫りになってきた。わたしなんか、平凡な環境で生活している平凡な成績の平凡な高校生でしかないのに。

 メアはなぜ、どうやって、わたしを見つけて指名したのだろう。



 共寝のトライアルはそれから三日後におこなわれた。

 午後早い時間から会場入りし、脳波測定や心電図をとったあと、いよいよメアと同じ空間に入る。そこはホテルのようにいくつかの部屋で構成されており、不測の事態に備えて医療アンドロイドが常駐しているけれど、寝室までは入ってこないそうだ。

 一度会ったきりの相手と、二人きり。しかも、今夜は手を繋いだ状態で、腕をバンドで留めて眠るのだ。ほとんど何も知らない会ったばかりの子と手を触れ合わせ、隣で横になるなんて異常すぎるのに、メアは終始はしゃいでいた。わたしがそばにいることが心底嬉しいとでも言うように。

 メアの精神世界は見はるかす海洋だという。人類が地下世界の住人となって久しい。地中生まれのわたしは当然海を実際に見たことはないけれど、知識としては無論知っている。

 海とはつまり、塩水がひとところに留まったとても大きい水たまりだ。一晩そこで過ごすなんてどうってことないじゃないか、と思ってしまう。そんなの、別に一人で対処すればいい。ぱしゃぱしゃ遊んでいるうちに、朝なんてすぐに来るはずだ。

 ふかふかのベッドに潜りこむとすぐ、パジャマ姿のメアは寝息をたて始めた。彼女の左手とわたしの右手はしっかり繋がれている。暢気のんきな子だ、と思いつつわたしも瞼を閉じる。

 肌触りのいい洗いたての布団の香りの効果か、自分もすぐにとろとろしたまどろみの中に落ちていった。

 と思えば、すぼまった意識が無理やり押し広げられるように、急にはっきりと輪郭を取る。

 気づけばわたしは満天の星をぼうっと見上げていた。夜の空は吸い込まれそうなほどに深く見える。体がとぷん、とぷん、と規則的に揺らされていた。水面みなもに仰向けになっているのだ。

 混乱しつつ、焦らないように注意しながら足を使って水底を探る。体は胸あたりまで水に浸かったが、砂地っぽい地面にしっかり立つことができた。

 そこでようやく辺りを見渡して、絶句した。


「なに、ここ……」


 空には先ほど見た通り、誰かがばらまいたような星々がきらめいている。鼻を突くのは生臭いような初めて嗅ぐ匂い。ざざあ、ざざあ、とどこからか絶え間なく打ち寄せる波の音が鼓膜に響く。

 ばしゃりと跳ねた海水が口まで飛んで、途端にそのあまりの塩辛さにびっくりする。ゆっくりとのたうつ波は月明かりの下でどこまでも続いていって、遥か彼方で紺青色の空と溶け合っていた。見たこともない、広大な景色。

 これが、海。

 わたしは圧倒されていた。自分は海のことをこれっぽっちも知らなかった。こんな果てのない、そら恐ろしいほど暗く大いなるものに、わたしは初めて身を浸した。

 あの子は――メアは、こんなところでいつも一人夜を過ごしているのか。

 わたしだったら、きっと寂しい。泣き出してしまいそうなほどに。

 そのとき、ばしゃばしゃと激しく水面を叩く音が耳に届いた。はっとしてそちらを見ると、暗い水中で何かが激しく暴れている。人の頭がちらりと波間に覗いて、それが溺れかけているメアだと分かった。

 ぞっとして血の気が引く。精神世界で死を迎えた者は、覚醒が絶望的な昏睡状態に陥るという。そのとき、共にこの世界にいる命綱のわたしは、一体どうなるのだろうか。

 こんな時でもわたしは、自分のことを第一に考えている。

 醜いわたし自身を振り切るように、水を掻き分けてメアのところへ近づく。スカーフの赤がちらついて、彼女は制服姿なのだと分かった。あの格好では、水を含んだ布に水底へ体を引きずりこまれるように感じるだろう。

「メア!」とわたしは絶叫した。生まれてこの方、初めて出す声量で。


「落ち着いて! ここはそんなに深くない、足を伸ばせば立てるから!」


 メアの胴に取り縋り、なんとかめちゃくちゃな動作をやめさせる。彼女の細い首に何かが絡まっているのに気づいてぞっとした。無我夢中でそれをぶちぶちと引き裂く。ようやく底に足がつくと気づいたメアが、荒い息のままわたしの方を見た。その瞳を染めているのは、強く冷たい恐怖。


「大丈夫!?」

「エリカ……、エリカぁ……」


 メアが目の縁から海水ではない滴を流しながら、こちらのにひしと抱きついてくる。わたしたちは二人とも頭までずぶ濡れだった。彼女が危機的状況に陥っても、自分の身の安全をまず考えるような浅ましいわたしを、メアは一心に求めてくる。

 ふと自分の手を見ると、朝顔に似た植物が指にまとわりついていた。さっきメアの首を戒めていた、忌々しいもの。それを振り払い、ぎこちない手つきで彼女の濡れた髪を撫でてみる。そうしているうちに、少しずつ落ち着いてきたようだ。

 それからどれくらい経ったのだろう。数分か、数時間か。やがて海と接する空の一部が白み、眩しい朝日が空と海を祝福するように昇ってきた。曙光が闇を徐々に払い除け、知識だけで知っていた水平線というものを浮かび上がらせる。初めて見るそれは圧倒的な景色だった。

 あまりの美しさに、私の両目から知らず知らずのうちに涙があふれていた。先ほどまで抱いていた罪悪感を押し流していくような、温かい涙だった。

 メアの世界の中で、生まれたばかりの陽の光に照らされながら、わたしは彼女の華奢な手をぎゅっと握った。


「……」


 現実世界で目覚めたわたしの目からも涙があふれていた。ほぼ同じタイミングで覚醒したらしいメアが、心配そうにこちらを見てくる。わたしは目を逸らしてこっそり目元を拭った。何気なく、ただの世間話をするように切り出す。


「海ってあんなに大きいんだね。初めて知った」

「うん。みんな、私の夢に来ると驚くよ。……怖かったでしょう?」


 怖い。確かに海は恐ろしい場所でもあった。けれど、それ以上に。


「でも、綺麗だった」


 ぽつりと自然に唇から言葉がこぼれる。何も相槌がないことを不安に感じ、ベッドの上のメアへと視線を移すと。

 彼女の美しいアーモンド形の双眸から、透明な涙が流れていた。


「え? ど、どうしたの?」

「綺麗なんて……言われたことなかったから……。お父さんもお母さんも一緒に眠ったことあるけど、怖いとしか言われたこと、なかったから……」


 流れ落ちる滴もそのままに、すい、とメアの目線が動いてこちらとまともにかち合う。


「私の世界を綺麗って言ってくれた人、エリカが初めて」

「そんな……」


 確かに海は恐ろしいところだろう。でもきっと、二人でいれば恐怖もやわらぐ。わたしが一緒にいれば、きっとメアはあの世界で溺れない。いや、溺れさせない。広大な閉じた精神世界で、この子を独りぼっちにさせたくないと思った。

 わたしはメアと一緒にいる。一夜にして自分は決心した。



 それから一週間もしないうちに、マンションの隣の部屋にシグマ一家が引っ越してきた。

 わたしたちは両家を行ったり来たりしながら毎日一緒に眠った。それだけでなく、放課後や休日の日中も共に過ごすようになった。メアとは何でも気が合う、というわけではまったくない。運命のように気持ちが通じ合う瞬間もあれば、意見が相違して口喧嘩になる日もあった。

 それは一人一人の人間同士として当然のことである。メアがわたしにもたらす違う視点からの意見は、早朝に海から吹いてくる真新しい風に似ていた。そのような深い思索を与えてくれる友人はこれまでわたしにはいなかった。

 どれだけ意見が対立しようが、わたしは決してメアを嫌いにはならなかった。それはきっと相手も同じだったろうと思う。わたしの自惚うぬぼれでなければ。

 わたしたちは歳の違う無二の友人になった。時々知らない人から姉妹に間違われることもあった。精神没入過剰症の症状は落ち着いていて、このままメアと一緒に海と鮮烈な朝日を眺め続けるのだろう、とわたしは疑っていなかった。

 事件が起きたのは、我々が出会って半年ほど経った頃のことだ。

 始まりは高校での授業中、網膜の薄膜デバイスに割り込んできた親からの緊急通信信号だった。応じると同時に骨伝導で伝わってくる母親の声は、焦りを抑えようとして失敗しており、切迫感がむしろ全面に出ていた。

 エリカ、と名を呼ばれる。


「落ち着いて聞いてね。今日、メアちゃんが倒れたそうなの。もう何時間も意識が戻ってないって。もしかしたらエリカ、あなたしか彼女を助けられないかもしれないんだって。……エリカ、どうする?  もし断っても責任は」

「すぐに行く!」


 言葉尻を待たずわたしは返事をしていた。

 わたしは血縁関係のない精神没入過剰症患者のパートナーとして、学校内どころか全国的に有名人になってしまっていたから、話を通すのに手間はかからなかった。先生もクラスメイトも静かに見送ってくれたのがありがたかった。

 小型の自動運転車に飛び乗って教えられた病院へ急ぐ。倒れたなんて、急にどうして。しかしわたしが考えても答えなど出るはずがない。自分ができること、なすべきことはひとつしかないともう決まっているのだ。

 病院のベッドの上で、メアは何本もの管に繋がれて目を閉じていた。その様子は、植物の蔓に絡みつかれて溺れかけていた彼女を想起させた。頬からは生気が失せ、いつもころころと変わる表情も一切の色を失っている。

 メアの母親はただ深く礼をして、娘を助けてとも危ないから無理しないでとも言わなかった。わたしの選択を尊重してくれているのだろう。医師に説明を受けるわたしの横顔を、じっと見つめているようだった。

 既に何人かメアの精神世界に潜ろうと試したらしいけれど、全員があの海から弾かれてしまったらしい。昏睡状態の患者の精神に同調する危険性をこんこんと説明されても、わたしの意志は一ミリも曲がらなかった。だって、寄る辺ない海でたゆたっているはずのメアがすぐそこにいるのだ。わたしが助けられる可能性があるなら、迷わず行かねばならない。

 睡眠導入剤を処方してもらい、そっとベッドの中に入り、メアの掌を握る。その手はわたしの心臓がひやりと収縮するほどに冷えきっていた。まるでもう生命活動を諦めてしまったみたいに。


 ――待っていて。絶対に助けるから。


 もうひとつの世界、メアの海でわたしは目を覚ます。初めて見る夕景の水平線がオレンジ色に染まっている。海水は肌を刺すようにきんと冷たかった。こんな温度は経験したことがない。

 首まで波に浸かりながら、ぼんやりと空と海の境界線を眺めているメアがいた。彼女の髪は、寄せては返す波に弄ばれるままになっている。


「メア!」


 わたしは大声で呼ばいながら、メアの元へと近寄っていった。こちらをおもむろに振り返る彼女は、どこかあどけない顔をしている。そうだ、それに――わたしが知るメアは美しく長い銀髪をなびかせていた。ショートヘアを見るのは初めてだ。

 どうしてだろう。不安で胸が騒いだ。

 メアはこちらに顔を向けている。不思議そうな色を表情に表して。


「お姉さんは、誰? どうしてここにいるの?」


 無二の友人に小首を傾げられ、瞬間的に足がすくむ。

 メアは、なんと言った? わたしを忘れてしまったのか?

 それは違う、と脳のどこかでもう一人の自分が囁く。メアがわたしを忘れるはずがない。

 突然、脳裏に閃くものがあった。聞いたことがある。精神世界の中では、時間の流れが曖昧になったり逆流したりして、当人の年齢すら前後することがあると。

 つまり、目の前にいるメアは、私と出会う前の少し幼いメアなんだ。

 百回以上共に夜を過ごしてきた相手に、「誰」と言われる衝撃。そのショックが冷めやらぬ中、言葉を交わすのを怖がる怯えが、わたしの心のどこかにある。

 でも。

 わたしは既に知っている。彼女に言うべき言葉を。

 すっと息を吸い、口を開く。


「あなたの名前はメアでしょう? メア・シグマ。志熊シグマ芽愛メア

「私を知ってるの?」


 相手がぱっちりした目をさらに見開いた。


「わたしはエリカ。榑井クレイエリカ。わたしの名前をどうか、覚えていて」


 メアの両手を取る。わたしはこの子の命綱であり、この海の灯台なのだ。この子の未来から、目指す場所を示すための光を投射する灯台。

 言うべきことはもう分かっている。この瞬間、言葉が光になる。


「わたしはあなたを独りにはしない、約束する。わたしがメアの光になるから、絶対見つけて。わたしはあなたの命綱だから。大丈夫、あなたは見つけられる」


 そう、メアが初めて会ったわたしにかけた言葉。あれは本当に自分が彼女に伝えたことだったのだ。

 わたしが知るメアよりさらに華奢な彼女。その体をぎゅっと抱き締めたかったけれど、そうする前に全身が後方に引っ張られる感覚があり、残念ながらハグは叶わない。

 意識が浮上していく。現実世界へと。

 瞼を持ち上げれば、病院のよそよそしい白い天井が視界に入る。心配そうにこちらを覗きこむ面々に、わたしは強く頷いてみせた。看護アンドロイドがぱたぱたと医師を呼びにいく。

 隣ですうすうと規則的な呼吸音をたてているメアはまだ、目を覚ましてはいない。けれど、きゅっと握り合わせた指先には、温かさが戻ってきていた。



 元気を取り戻したメアは、わたしと同じ高校に行きたいと言い出した。


「でも……その頃にはわたしはもう、卒業していなくなってるよ」


 彼女はそれでもいいらしい。高校なんて全部同じ制服だし授業内容も一緒だし、どこを選んでも違いはないと思うのだが、メアの中ではそうではないようだ。


「エリカは、高校を卒業したらどうするの?」

「……わたし、実は医者を目指そうかと思ってて。精神没入過剰症の治療法とか治療薬を見つけたいんだ」


 しばらく前から考えていた、しかしまだ誰にも言っていない夢がほろりと口を突く。

 数ヶ月前から平凡な成績を脱却しようと猛勉強を始めてはいたのだ。でも現役合格ははっきり言って無謀だし、何浪するかも分からないし、そもそも睡眠時精神没入過剰症の治療法は一生かかっても見つからないかもしれない。でも、やらなければすべての可能性はゼロのままだ。メアと関わるようになって、わたしは確実にそれまでの自分とは変わっていた。

 メアは素直にすごいすごいとはしゃぐ。


「なれるか分からないけどね。それに、メアの体質の治療法を探したいなんて……目標として安直すぎるかな?」


 無二の友人の様子を窺う。医師になりたいという願いは、決してメアへの同情由来ではない。わたしが自分で決めたのだ。わたしがメアの精神世界で彼女の灯台であるように、わたしの現実世界ではメア自身がわたしの灯台でもある。

 あの美しく恐ろしい海では、また時間の逆流が起こらないとも言いきれない。もしかしたらもっと想像を超えた、危機的な状況が起こる可能性だってある。その時にわたしは、ぶれずに芯を持ってメアの隣にいたい。

 メアはまばゆいほどの笑みを浮かべる。


「安直だなんて全然思わないよ。エリカがそんな風に考えてたなんて、なんだか嬉しい。私、心の底から応援するから!」


 メアがわたしに抱きつくと、さらさらした銀髪のあわいからふわりと潮の匂いが香った。美しい海を身にまとう女の子は、わたしのすぐそばで可愛らしい笑い声を上げた。

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あの日の海で待ってる 冬野瞠 @HARU_fuyuno

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