黄昏の星の花

 旧校舎を出ると、あたりにはすでに夜が満ちていた。つい先日は、この時間帯はまだ明るかったのに。


 通常棟目指して歩きながら、僕は軽い憂鬱に苛まれていた。日一日と日照時間が短くなってゆくこの時期はいつもこうなのだ。さしたる心配事があるわけでもないのに、心が鉛のように重たくなる。散り残ったキンモクセイの香りを嗅いでも、大した助けにはならなかった。


 僕のそんな気分の落ち込みを知ってか知らでか、傍を歩く部長は何も言わない。鍵の返却に付き合ってくれるなんて、活動時間が終わったらどこへともなく消えてしまう彼女には珍しいことだった。してみるとこの人も、いくらかはセンチになっていたのかもしれない──あるいはただ単に、何かひらめいたら真っ先にそれを開陳したいだけかもしれないけれど。さっきから沈黙し続けている彼女は、拝むように手を顔の前で合わせていた。何かを考えている時のお決まりのポーズ。話しかけても返事がきそうもないので、僕も一緒になって黙考する。


 先に述べた通り、生徒の印刷室への立ち入りは原則的に禁じられている。見つかれば口頭での注意程度ではすまないのに、たかが裏紙一枚欲しさにそんなリスクを冒すなんてことが、果たしてありうるだろうか? ……ありえない。白紙が必要なのであれば、手立てなら他にいくらでもあるではないか。

 だが──それならこの“偶然”を、僕たちはどう受け止めるべきなのだろう? 細工をした犯人はあの三人以外の、外部の人間なのか? それとも一連の“しるし”は実は本物で、僕らは踏み台の跡などという不確かな証拠に拘泥して、全然見当違いの推理をしていたのだろうか?


 ……眉根を揉む。もっと考えたいと欲する僕の意思とは裏腹に、脳の深いところはとうに音を上げていた。なんとなく捨て鉢な気分になって、わざとあからさまなため息を吐く。

 いくら悩んだって、仕方がないじゃないか。僕程度が思いつくことなんて、傍を歩くこの人ならとうに気づいているだろうし。同一の印刷機を使った証拠でも見つけられれば御の字だけど、僕たち素人探偵には指紋を検出することさえできないのだ。

 それに、仮に同じ機械から排出された紙であることが証明できたとしても、それが必ずしも印刷室から盗み出されたものとは限らない。印刷ミスによる白紙のプリントが回ってきたなんて経験、誰にだって一度くらいはあるだろう。


 それはつまり──先刻の主張を自ら否定する格好になるけれど、立ち入り禁止の部屋に入らずともインクのしみ付きの用紙が手に入る可能性は、無きにしもあらずということだ。

 そしてそれは、とりもなおさず、推理が結局何一つとして進展していないということでもある。


 生徒用玄関に辿り着く。僕は靴を履き替えてから、部長は慣れた足取りでそのまま、校舎二階の職員室へ向かう。

 道中、何人かの生徒や職員とすれ違った。自販機前でたむろするサッカー部員たち(予選での初戦敗退がお家芸)。勢いよく走り出ていくバドミントン部の女子たち(もうスカートの下にジャージを着込んでいた)。職員用玄関でなにやら親しげに談笑している、ALTのミスター・クルーンとミズ・サラサー(どちらも芸人顔負けのトークスキルの持ち主)。そして僕が名前を知らない、表彰状やトロフィーを眺めていたスーツ姿の小柄な女性の先生(失礼だが、少し化粧が濃かった)。


 誰も、僕らには注意を払わない。思わず息を呑むほどの綺麗な女生徒と連れ立っているというのに、野郎どもは冷やかしの声一つかけてこない。


 学校での働き方改革が叫ばれるようになって久しい昨今だが、少なくとも我らが野羽高ではワーク・ライフ・バランスの是正はある程度進んでいるようだ。生徒の最終下校時刻までまだ間があるにもかかわらず、職員室に残っている先生は十指に満たなかった。僕の担任の吉村先生も、顧問の村田先生も、とうに退勤してしまったようだ。仕方なく僕は、一番近くにいた初老の男性教諭に、部室の鍵の返却に参りましたと声をかけた。


「はい、ごくろうさん」

 磨いていた眼鏡を山と積まれた書類の上に無造作に放り出し、その先生はゆっくりと時間をかけて立ち上がった。なんとなくその方が礼儀にかなっているような気がして、僕は彼が所定の返却場所から戻ってくるまで、じっとその場で待つことにした。


 高校の職員室は、構造自体は中学校のそれと大差ないのに、曰く言い難いアットホームな雰囲気を醸し出している、ような気がする。それはたとえば一部の先生のデスク上に鎮座ましましている、明らかに学校運営とは関係のない写真やぬいぐるみやロボットアニメのプラモデルのせいかもしれないし、あるいは僕が単純に、大人ばかりの世界に物怖じしない程度には成長したためかもしれない。傍に佇んでいる部長に意見を訊いてみようかと一瞬思い、結局やめた。そんな思いを共有するには、この人はあまりにも長すぎる時間をここで過ごしている。


 と、先生が全然見当違いの方へ向かっていることに気づき、僕は思わず声を上げた。

「あれ、先生?」


 生徒に貸出可能な鍵は、副校長先生のデスク脇に設けられたボードにかけられることになっている、はずだった。ところがその先生は、なぜか職員室中央付近に位置するくだんのデスクではなく、僕らが入ってきたのとは反対側の出入り口へとまっすぐに向かったのである。

 ついでに別の要件を片付ける心づもりなのだろうか──そう考える僕をよそに、先生はいつの間にか出入り口脇に設置されていた、真新しいステンレス製のボックスに鍵をしまった。


「鍵の保管場所、変わったんですか?」

 礼を言うことも忘れ、戻ってきた先生に僕は訊いた。


「あん? ……ああ、そうだね。こないだの職員会議で、むき出しのままにしておくのはさすがに不用心だって意見が出てね。それで今後はあの箱で保管することになったのさ」


 なるほどそういうことだったか──頷きかけたその時、不意に部長が耳元で、鋭い声で囁いた。「訊くんだ。そのボックスが設置されたのはいつのことかって」


 ぎょっとして振り向くと、彼女は口角だけの笑みを浮かべていた──獲物を見つけた捕食者を連想させる、何かに気づいた時のお決まりの笑み。目が笑っていないので、なんとなく見る者をゾッとさせる。


 動揺をあらわにしないよう──なにしろ彼女の髪が、肩に触れるほど近くにあるのだ──後ろで組んだ腕を強くつねりながら、僕は部長に指示された通りのことを尋ねた。

 先生はあからさまに不審そうな顔をした。「そんなことをいったいなぜ、君が気にするのかね?」


「いえ……なんというか、ちょっとあることを思い出しかけたものですから。その……何かヒントになりそうで」


 苦しい言い訳だった。前にも述べた通り、善良なる僕は嘘が上手くないのだ。

 だが先生は不意に表情を緩めると、何やら一人で合点してしまった。

「ああ! ……そういえば君はアレだったな、噂のオカルト探偵! 学校で起こったおかしな事件を、いくつも解決してるんだろ?」


「……は、はぁ」


「一生懸命活動に励んでいるのは認めてあげるがね、残念ながら鍵の保管場所が変わった背景は、本当にただの保安上の理由。不思議な事件はまったく関係ないよ。……でも、ま、教えてもいいか。あれが置かれたのは、つい三日前だよ」


 三日前。ということは試験期間の真っ只中だ。

 これも以前に述べたことだが、試験期間、すなわち定期考査の一週間前から最後の考査終了時まで、僕ら生徒への鍵の貸し出しはいっさい行われない。部活動自体が原則的に休止になるし、そもそも職員室そのものへの立ち入りが制限されるのだ。僕らには鍵の保管場所の変更なんて知る由もないし、そもそも知ったところで、普通の人は気にも留めない。


 だが傍の先輩は、普通の人などではない。すべて得心がいったというように何度も頷きながら、やにわに僕のブレザーの裾を掴んだ。「行くぞ、香宮君。謎は解けた。事件解決だ」


 頼むから、耳元で囁くその癖をやめてほしい。吐息を感じるたびに落ち着かなくなる。


 ……じゃなくて。


 危うく「なんですって?」と素っ頓狂な声を上げるところだった。喉元まで出かかった叫びをどうにかこうにか呑み込み、平静を装いつつ職員室を辞去する。人通りの絶えた三学年の教室前まで来てから、僕は矢継ぎ早に質問を投げかけた。

「どういうことですか、事件解決って? まさか犯人がわかったんですか? さっきの先生のお話から? しみ付き用紙の問題も解決してないのに? いったいどこにヒントがあったんです?」


「落ち着きたまえよ香宮君、近い近い」


「はぐらかさないでください!」


 息を弾ませる僕とは裏腹に、部長は腹立たしいくらいに泰然としていた。もったいぶるように前髪を払うと、悠然と語り始めた。

「私はようやく、今回の事件の犯人像がわかってきたよ。その人物は、矛盾した二つの性質を併せ持っている。すなわちそそっかしさと用心深さ。ではその人物とは何者か? ヒントはあの大きすぎる結界だ。あれが何を意味するかわかった時、君はその人物の、意外なもう一つの顔を知ることになるだろうな。さて、君にはもうひと働きしてもらうぞ。今回の事件の関係者を、一堂に集めるんだ。場所は、そうだな……」

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