特別校舎の死神

 特別校舎は、なだらかな丘の上に立つ野羽高校でも最も傾斜の急な斜面の縁に位置する。

 地形を利用した窓こそ設けられているものの、その地下教室は嵐の日の午後のように暗く、そして心なしか輪をかけて肌寒かった。


 教室に入るなり、泰然と壁にもたれた田中先輩を除く全員が、一様に己自身をかき抱くようにして身を縮めた。暑がりやの吉川君でさえ、シャツのボタンをとめなおした。


 どうやら地下教室とは名ばかりで、ここ数年は実際に授業を行うために使う機会はほとんどなかったらしい。天井の低いその部屋は、今は小規模な倉庫として扱われているようだ。壁側に積み上げられた椅子や机が、それを雄弁に物語っている。

 見たところ椅子も机も、物入れが大きくへこんでいたり、脚のキャップが外れている点を除けば、通常教室で用いられているそれと全く同じものらしい。あとは汚れた黒板が前後一枚ずつと、戸の歪んだ掃除ロッカーが一つ。床にはまるで敷き詰めたが如く、綿埃が堆積していた。


 天井付近で換気扇が、異様にかび臭い空気をかき回している。田中先輩が気を利かせてくれたのかもしれないが、残念ながら目覚ましい効果はなかった。鼻をハンカチで覆った三神さんが、小さくくしゃみをする。


 僕は田中先輩に頼んだ。「先輩、すみません。少し肌寒いので、暖房のスイッチを入れていただけますか」


 エアコンのスイッチは、ちょうど先輩がもたれているあたりに設けられていた。


 ボタンというボタンをひとしきりいじってみせてから、先輩はかぶりを振った。「だめ。集中管理モードになってる」

 一つ頷き、僕はそっと嘆息した──やっぱりか。


 おそらくは生徒たちに好き放題いじくり回されては都合が悪いからだろう。学校のエアコンは、各教室のコントローラーからでは自由に操作できないことが大抵だ。スイッチをオンにしたり、設定温度を変更したりするには、いちいち職員室に連絡をとって、管理用の端末を操作してもらうしかない。

 このオンボロの特別校舎ならば、あるいはそうしたシステムの埒外にあるのではないかと淡い期待を抱いていたのだが、どうやら見込み違いだったようだ。げに素晴らしきは隅々まで行き届いた保安体制。ありがたくて涙が出るってもんだ。


 仕方なく、僕はあらかじめ須羽さんからもらっておいた図面を片手に言った。「よし、まずはキャンドルを並べますか。火を灯せば、きっとそれだけ暖かくなるよ」


 図面によると、どうやらミドウサマの儀式に用いるキャンドルは、ただ漫然と床に立てればいいというわけではないらしい。


 キャンドルの置き場所を示す無数の点は、六芒星と、それを取り囲む円を形成していた。これがいわゆる“結界”だろう。図形の中心には棒人間と、小さな四角が配置されていた。シャーマン役と、お告げを受けるための紙を意味するに違いない。


 この“結界”を描く作業は、予想していたことではあったが、たいそう骨の折れる仕事であった。

 協力してくれたのは田中先輩と須羽さんの二人だけ。三神さんは吉川君を捕まえて、何やらボソボソと打ち合わせを始めてしまったし、部長はというと……。


 いったいいつの間に盗み出したのか、僕のスマホで勝手に写真を撮りまくっていた。


「ちょっ」


 小声で抗議しかけると、傍で作業をしていた須羽さんに、胡散臭げな目で見られてしまった。慌てて口を覆い、なんでもないと言うように首を左右に振ってみせる。

 そんな僕をよそに、何を思ってか床の一点を撮っていた彼女は、さも当然と言わんばかりの調子で言った。


「本物の儀式なんて、めったにお目にかかれるものじゃないんだ。民俗学研として資料は残しておきたいだろう?」


 それはそうだけど、だからといって他の人たちの断りもなしに、シャッターを切るなんて法があるだろうか。だいたいこの人の撮った画像を覗いてみれば、床だの換気扇だの黒板だの、儀式と全然関係のなさそうなところばかりを収めている。自分のスマホがないものだから、ここぞとばかりにカメラで遊んでいるだけではないのか。

 幸い、他の参加者たちは不躾なシャッター音に対して、何も反応を示さなかった。


「心配しなさんな。用が済んだら、後でちゃんと返すから。そのかわり私が撮った写真、消していいと言うまでは必ず残しておくように」


 なぜ本来の持ち主たる僕が命令されなきゃならないのか──そんな不満を懸命に抑えつつ、キャンドルを並べながらさりげなく頷く。


「おや、まだ不服そうだな。さては信用してないな? 大丈夫だって、私もこのケータイというやつには疎いけれど、最低限のエチケットはわきまえてるつもりだ。関係ないところを覗いたり、プライバシーを侵すような真似はしないよ」


 再度、小さく頷く。


「ところで、さっき画面の上の方に、メッセージみたいなものが表示されてたよ。『早く自撮りよこせ』だってさ。……この女、誰だい?」


 ちっともわきまえてないじゃないか。


 “結界”が完成した頃には、シャーマン役以外の人間に残されたスペースは、ごく限られたものになっていた。吉川君が儀式を執り行う様を、壁に背を押し当てて見届けなくてはならないほどに。


 かがみ通しの作業で痛む腰を腕でトントンと叩きながら、首を傾げる。ざっと百本は下らないキャンドルが床を埋め尽くす様は壮観だったが、しかし、僕は曰く言い難い違和感を覚えていた。


 何かがおかしい。

 作業に夢中で気づけなかったが、ごく単純明快な何かを見落としている。答えは喉元まで出かかっているのに、その正体をなかなかつかめないのがもどかしい。あの男子トイレで、部長と交わした会話にヒントがありそうな気がするのだが……。


「何か引っかかってるようだね、君」目ざとい部長が、いたずらっぽく囁いた。「もしかしてだけど、私と同じで、あれを連想したんじゃないかい」


 いきなり耳元で話しかけないでくれ。心臓が止まるじゃないか。……じゃなくて。

 あれってなんだ?

 なんでもいいからヒントが欲しくて、上にした手のひらをそっと向ける。そうして部長が何を連想したのか、教えてくれるよう請う。


 彼女の回答は、至極簡潔だった。


「アジャラカモクレン、テケレッツのパー」


 ああ、落語『死神』のクライマックスか……聞くんじゃなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る