第四の女

 冬服への移行も済んだとはいえ、十月の残暑は時に真夏日のそれのように厳しい。


 体育の授業は空調のきいた体育館でのバレーボールがメインだし、校内の自販機からはスポーツドリンクや炭酸飲料のボトルが飛ぶように消えてゆく。蝉の声がふっつりと途絶え、学校近くを流れる沙良さら川の岸辺を彩っていた彼岸花が枯れてなお、野羽のば高の構内には終わってしまった夏が、未だ細かな塵のように漂っているように思えた。


 あるいは──あえてクサい言い回しを使うならば──それは青春の熱気と呼ぶべきか。


 しかしそんな熱気も、あくまで日中の本校舎での話だ。夕闇迫る放課後の、特別校舎ともなれば話は別だ。


 日没までにはまだ間があるにもかかわらず、その埃っぽくて薄暗い廊下にはすでに夜の気配が濃厚に漂っていた。思わず身震いしたくなるような、闇夜の気配が。


「寒い」


 肌寒さを覚えていたのは、どうやら僕だけではなかったらしい。須羽さんと三神さんの二人が、身を寄せ合うようにしながら腕を擦る。


「俺は暑い。さっさとすませようぜ」

 そう吐き捨てる吉川君は、シャツの胸元を大きくあけていた。


 誰も、返事をしようとはしなかった。

 今回の儀式に立ち会う多くの人間が、楽しいはずの午後を無為に過ごさざるを得なかった我が身の不幸を嘆き、そして全体を待たせておきながらちっとも悪びれないこの野球部員に対し、怨嗟の念を抱いていた。


 そもそもこの儀式の日は中間考査の最終日でもあり、本来の学校自体は午前でおしまいだった。では僕たちがホームルーム終了から夕方まで何をしていたのかといえば、ひとえに野球部の練習が終わるのを待っていたのである。


 道具の準備で忙しいからと主張して、吉川君は練習前にミドウサマの儀式を挙行することに難色を示した。仕方がないので待ち合わせの場所だけを指定して、ひとまず僕たちは解散した。そうして試験明けの解放感を満面にたたえて帰ってゆく友人たちを横目に、ただひたすら忠犬ハチ公もかくやの忍耐力をもって待機し続けた。


 ところが野球部全体がグラウンドから引き上げてから三十分経っても、一時間経ってもなお約束の図書室に彼は現れない。痺れを切らして体育館前の古い机が並ぶ一角──そこが部室を持たない野球部の“縄張り”なのだ──に迎えに行ってみると、あろうことか彼は他の部員たちと共に、スマホのゲームに興じていたのだ。


「何時集合とまでは決めてなかっただろ」

 世にも恐ろしい顔をして詰問する須羽さんに、吉川君は平然とそう言い放った。「こっちはお前らの都合に合わせてやるってんだから、ガタガタ言うなよな」


 たった一人、長い待機時間をちっとも苦にしない人物がいた。真ヶ間まがま彩子さいこ部長である。


 いちおうお断りしておくが、この人は決して度量の大きい人格者などではない。試験も放課後も彼岸のことと捉えている、ただの暇人だ。


 その暇人は、遠足に赴く子供のように弾んだ声で言った。「すごいじゃないか香宮こうみや君。私、あんな服はファンタジー小説の中でしか見たことがないよ。どこで手に入れたんだろうねぇ。ちょいと訊いてみておくれよ」


 部長が言うあんな服というのは、三神さんが持っている黒いローブのことだ。

 一度畳めばよいものを、彼女はわざわざハンガーから外した状態のまま持ち運んでいたので、傍目にはまるで影とダンスをしながら歩いているように見えた。地階に下りる階段を歩く際など、うっかり裾を踏んづけて転んでしまわないかと心配になったほどだ。


「演劇部から借りてきてくれたの……あの、先輩が」


 部長にリクエストされた質問を投げかけると、三神さんはそれがひどく後ろめたいことであるかのように、小さな声で答えてくれた。


「なるほど」


「……あの、そういう事情だから、くれぐれも汚したり、無くしたりしないでね」


 無くすことはありえないだろう、こんなでかい服。

 そのサイズはぱっと見た感じ、ゆうに三神さんの身長の倍はありそうだった。


 地階の最も奥の教室の前で、誰かが手招きをしていた。

 小柄な女子生徒だ。どこか歯科医の受付を連想させる、フレームの細い眼鏡。後ろで簡単に結っただけの、肩までの髪。履いている上履きのラインは、上級生であることを示す赤色だった。


「先輩、お疲れ様です。鍵をありがとうございました」


 その女子生徒に真っ先に駆け寄ったのは三神さんだった。ぺこんと九十度の角度でお辞儀をし、それから僕たちに向き直って紹介してくれる。「……田中先輩。今回ミドウサマの儀式をやるにあたって、いろいろとアドバイスをしてくれる人」


「田中です。よろしく」

 地味な印象の上級生は、後輩に負けず劣らず小さな声で、そっけなく言った。


 ともかく、これで“在否を考える会”のメンバーは、部長も含めると六人になったわけだ。


 田中先輩は大きなビニール袋を提げていた。中にはキャンドルが詰まっている。

 よく見ると、その足元には小さな紙片が落ちていた。拾い上げたそれはレシートで、ここから二駅ばかり離れたディスカウントストアで売買がなされたことを証明していた。部長と一緒になって、内容をさっと読む。業務用キャンドル、十四時五十五分購入。日付は今日のものだ。


 こんなに重たそうなものを、女子に任せきりにしていたのか──図書室でぼけーっとすごしていた我が身を振り返り、僕は罪悪感を覚えた。レシートを手渡しながら、小さく頭を下げる。

「先輩、香宮と申します。今日はよろしくお願いします。それから、すみませんでした。会場の場所決めとか準備のこととか、みんな任せっきりにしちゃって」


 そんな僕に、先輩は「あなたが気にすることじゃない」と言ってくれた。


「事情はあ──三神さんからみんな聞いてる。民俗学研はそこの二人の揉め事に巻き込まれただけなんでしょう? 責任はオカ研の二人と分担して負うから、あなたはただギャラリーとして見守ってくれればいい」


 できた人だ。

 同じ先輩なのに、どうしてこうも違うのだろう──傍であくびをしている部長を横目に見つつ、心の中だけでぼやく。


「何か言った?」途端、声が飛んできた。


 返事をする代わりに、胸の前で指を小さくバッテンにしてみせたが、そんなことで納得する真ヶ間彩子ではない。


「おおかた、あの田中って子と私を見比べていたんだろ? へいへい、悪うござんした。優しくておしとやかな先輩じゃなくって」


 あんたは妖怪サトリか。

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