第2-9話

翌朝、闇の中で目覚めると同時に起き上がったノアは、まだ眠り続けているベルとエリナに対して苛立ちを感じた。


彼女は舌打ちをし、激しい気持ちで彼らを起こすためにビンタを飛ばすことに決めた。

思い切りのあるビンタの音が二回、洞穴に響いた。

ベルとエリナは突然の刺激によって寝から覚め、驚きの表情を浮かべた。


「おはよう?」


ノアは憤りを感じながら引き攣った笑顔で言うと同時に、まだ寝そべってる二人の胸倉を掴んで強制的に起こす。

彼女たちはしばらくの間、ノアの行動を理解するのに時間がかかった。


「前日に用意した道具を持て」


と、ノアが厳しい口調で命令した。

ベルはまだ寝ぼけた目をこすりながら、やっと声を出した。


「ふぁい……」


間の抜けた返事。

ノアは彼女たちに対して顔を近づけ、威圧的なトーンで言った。


「もしかしたら死ぬかもしれないのに、随分とお気楽だねぇ?」


ベルは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。


「ご、ごめんって……」

「よろしい。あの親玉が巣にしている場所はおおよそわかる。だから進みながら討伐の計画を話すから、しっかりと頭に叩き込んでくれよ」

「分かった」


とベルが頷き、エリナも同意した。

ノアは準備が整ったら出発しようと言った。


「それじゃあ荷物を持ったら出発しよう」


三人はデスクローラーの親玉を倒すために準備を整え、洞穴から出発した。





早朝のグロームスワンプは冷たさに凍える。季節は夏を迎えながらも、夜から早朝にかけて気温は氷のように5℃を割り込む。昼間は陽の光によって瘴気が薄れ、視界もやや良好だが、湿度が高くじめりとした雰囲気が辺りを支配している。


しかし、夜が訪れると最悪の事態が訪れる。凍りついた空気が降り注ぎ、深い霧が瞬く間に立ちこめる。視界はほんの数歩先しか望めず、まるで迷い込んだ迷宮のようだ。そして闇の底から漂ってくる瘴気が一層濃密な姿へと変貌する。


魔力に満ちた濃厚な瘴気は魔物たちに力を与え、人々の心に幻覚を見せる。だが、三人はこの環境に屈しない。彼らは心鎮の霊薬を事前に摂取し、環境の誘惑に惑わされることはない。彼らの腰にはランタンが揺れており、互いの位置を確認するための頼もしい光源となっている。


「す、すごいわね……夜のグロームスワンプをこうも迷わず歩けるなんて……」


ベルが周囲の環境に萎縮しながら言った。


「昔帰り道が分からなくなって一晩洞穴の外で過ごした事がある。茂みに隠れ、泥を深く掘ってその中で過ごした。朝起きた時には体中ヒルだらけで毒虫に噛まれていて最悪だったよ。あの時を境に今自分がどこにいるのかっていう感覚を目に頼るんじゃなくて記憶するようにしてからは迷わなくなった」

「それは……すごい経験ですね」

「まあ、死ぬよりずっとマシかな」

「それは確かにそうね」

「ここから先はグロームスワンプの深層領域。プラチナランクの冒険者程度であれば簡単に倒すような化け物揃いしかいないわ」


ベルとエリナが生唾を飲み込む。


「正直な事を言うと、私はグロームスワンプの深層領域に生息している魔物は倒せないわ――正攻法ならね」

「こ、この先には昨日戦ったデスクローラーみたいなのが……た、たくさんいるというのは恐ろしいですね」

「例えばだけど……どんな魔物がいるのよ」

「巨人種のナマズガエル、精霊種のミストラス、昆虫種のエスカドール、魔物種のデスクローラー。それと下級の吸血鬼やワイバーン……まあ名前を出し始めたらキリがないよ。気を付けて進んで、三分以内に殺せ、でなきゃお前が死ね――そんな最悪という言葉を煮だしたような場所だよ」

「そりゃあ……あー……うん」 

「か、過酷な場所なんですねあはははは……はぁ……」


ベルとエリナが言葉に詰まる。

経験の浅い彼女達でも耳にしたことがあるような、化け物中の化け物の名前を聞いて苦笑するしかなかった。

ノアは迷わず歩みだし、ベルとエリナもそれに続いた。





暫くの間、ノア達は厳しい試練に直面していた。彼らは背の高い葦の群生地に足を踏み入れたが、その場所はまるで魔法による迷宮のようだった。


水位が高く、足首まで達する不思議な水溜まりが広がっている。一歩進むごとに水飛沫が舞い上がり、幻惑的な光景が彼らを包み込む。


ノアは軽やかに身をかがめ、手に緑色の塊を握った。


「見てみろ。ここら一帯は水を大量に含む大水苔が数十キロ先まで続いている」


驚きを隠せないエリナが尋ねる。


「大水苔って何ですか?」

「これは通常の水苔の100倍もの水分を含んでいる植物さ。周囲の地面はこれに覆われ、泥に足をとられる心配はない」


ノアは足元にある水苔を手に取る。軽く握っただけで指の間から水が吹き出す

エリナは興味津々の表情を浮かべた。


「これはこれは……面白い植物ですね」

「泥に足を取られる事は無いが、辺り一面に生えているこの葦が問題でな……。後ろを振り向いてみろ」


ノアに指示されたように二人は後ろを振り向く。


「向いたけど……別に何かある訳でも――」


ベルが正面に向き直した瞬間、ノアの言葉の意図を理解する。

何故ならノアが目の前に“いない”からだ。

ベルは目を細めてよく見ると、ほんの数歩先にノアがいるのを確認できる。


「右を見ても左を見ても同じ景色、という事ですね」

「そういう事だ。ここは迷宮みたいな場所で迷いやすい。流石の私でもこの場所を記憶するのは辛いものがあるから印を置いていく」


ノアはポーチから髪の毛を麻紐で結んだ呪具を取り出し、近くの葦を束ねてそこに結び付ける。

指を軽く切り裂き自分の血で印を付けた。


「大分古いやり方をするんのね? 存在固定の呪術じゃない」

「ほう。ベルは物知りなんだな」

「そりゃあ魔術師だから。でもなんでそんな呪術を使うのよ? 迷宮ランタンがあればそんな古くて副作用を要するものなんて不要じゃない」

「迷宮ランタンが壊されたら終わりじゃないか」

「あー……なるほどね」

「これはどういったものなんですか?」

「迷わずの標道(しるべみち)という呪術でさ、自分の体の一部を使って印を刻む事で本人だけだけど帰り道が分かるようになるんだ。でも副作用としてこの呪具の効果範囲から出ると効力を失うし、三日以内に設置した呪具を破壊しないと呪いを受けたり、設置場所に幽鬼や魔物が集まるようになるんだよね」

「なかなか使い方が難しいものなのですね」

「ま、そんなところだよ。恐らく少し歩いたらあの化け物の寝床があるからな」

「そういえばノアさんって、魔物にとても詳しいですよね? どうして寝床があるのが分かるのですか?」


エリナは疑問に思った事をノアに問いかけた。


「あれだけの巨体にもなると痕跡を見つけるのは簡単だ。這いずった後は色濃く残るし、糞の山は巨大で臭いがする。それに見てみろ」


剣で軽く葦を切り開くと、何か巨大なモノが這いずった跡があった。

証拠として巨大な蛇のような生き物が蛇行しながら進み、潰れた葦が目的地まで続いていた。


「デスクローラーは温かい昼間に活動し狩りをする。今頃すやすやと寝息をたてて寝ている頃だろうな」

「これは……すごい光景ね」

「か、勝てるのでしょうかねぇ……ははは」


潰れた葦の幅があまりにも巨大であり、三人が横に並んでもまだ余りある。

エリナはもはや乾いた笑いをするしかなかった。


「それじゃあ進むぞ」


ノアは顔色一つ進んで行くが、ベルとエリナは気乗りしない様子だった。

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