煤辺境

果型留 一夜

煤の街

胸の中身を見せてくれ、と謎華めいかはいつもと同じようにさらりと言うが、それをする私の身にもなってほしい。相手が配偶者だとしても、恥ずかしいものは中々変わらない。いや、決してやましさや愛欲が絡んだ行為ではないのであるが、心情的にそういう一面のある動作ではあるのだ。


理赦りぃしゃ、肺の方を」


「……貴女は簡単に言いますけどね」


私がいつものように渋るのを見て、妻はずぶりと腕を私の着物に入れた。氷のかたまりこぼされたかのような冷たさが、腹の上辺りを流れ、肌が妙な粟立ち方をする。小さな獣の声のようなものが喉から出た気がして、さっと頬に朱色が差したのが自分でも分かる。


私の気も意に介さず、妻はひねりを摘みギィとそれを引き上げていく。たちまち私の胸が左右に裂け、その中身が露わとなった。縦長にぐわんと広がった間の中で、数組の歯車が何重にも噛みあいカチカチというという音を鳴らす。その中央にある二組の貯水等じみた金属が私の肺だった。ひょいとその一つが取り上げられ、妻の手へと渡る。


「だいぶ詰まってるみたいだね……」


肺の蓋を緩めて中身を覗いた妻がそう告げる。遠眼鏡を使って遺物を観察する学者のような風だった。火かきで肺の中身を探ると、紙を敷いた畳の上に黒ずんだ大小の煤が転がる。


妻は肺からすすをかき出し続けたが、私の方は何とも言えない気恥ずかしさに口をつぐむほかなかった。あのひとからしたら手にしているそれは変哲ない鉄の道具なのかもしれないが、私にとっては自分自身の臓、いわばれっきとした身体なのだ。私から切り離された身体の中身が、妻に探られていると思うとこう腹の奥底から熱いものがこみ上げてくるようで心地ここちが悪い。煤を出した後の肺を濡れた布で拭き取り、妻が吐息を吹きかけまた拭う。羞恥しゅうちで気がおかしくなりそうだった。


「もう片方も」


抵抗感があったが、彼女にまた胸の中を触られてはかなわないと思い、手探りで内からそれを引き抜く。ざらついたどっしりとした感触、小ぶりななまりのようにも感じた。彼女へ押し付けるように肺を渡し、窓から見える景色の方へ視線を向けた。いつもと変わり映えのしないつまらない雪景色だったが、気を紛らわせられたらこの際何でもよかった。窓の向こうで、相も変わらず黒ずんだ雪はこの街に降り続けていた。


灰平はいぺいにおいて、最も気を付けなければならないのは煤雪ばいせつである。年がら年中、朝か夜かも分からぬ暗闇に舞い散る煤の雪は、この街の多くの生物いきものに対して何よりも身近な毒なのだ。長らく灰平の第一の死因が肺炎の理由でもある。全てと言わず多くのといったのには、この煤より生まれ落ちる生命もいるからであるが、彼らの大半は下水道やら塵河ちりがわ、あるいは人の住まざる路地裏にて暮らしているからにして、滅多にお目にかかることなどない。このような存在に興味関心惹かれる者など、三三年の半生聞いたことが無かった。しかし、目の前の彼女は唯一の例外だ。まっこと変わったひとだと今でも思う。


……話をすすに戻すと、私のように臓が金属であった者はこのような病気に罹患することはないが、それでも煤が内部に蓄積するため定期的に手入れを必要とする。妻より私の方が金属や工学のすべに詳しいはずではあるのだが、彼女は私の肺の手入れをするのが好きなようであった。こちらからしたら自分の一部を見られ触れられることを日課にされてはたまったものではない。


「これで終わりかな……ほら」


妻の両手に乗せられた肺にぱっと触れ、取り上げるように内へ収めた。


「慣れないみたいだね」


「貴女もされたら分かりますよ」


どこかからかうような妻の口調に、むず痒い奇妙な感情を覚える。身体が弱い彼女の方こそ、臓が機械でもおかしくはないはずなのだが。


「でも君だって昔はこういうことをしてきたんだろう? その時はどうだったんだい」


階段箪笥かいだんたんすから煤の玉を取り出しながら、妻は私に質問する。ずけずけとものを言うし聞いてくるのは出会った時からそうだ。好奇心旺盛なのは良いことなのだろうが、少しくらい気を遣ってくれてもよいのではないかと今日は思ってしまう。


「それは今どうでも良いことです」


妻の手は私の肺の手入れと煤玉の真っ黒に汚れていた。着物にまで黒い粉が点々と落ちているのが見える。昔はよく小言も言っていたし気にもしていたが、もう慣れてしまった。妻は煤玉の生物を右手でこねるように動かし、余計に辺りを真っ黒にしている。


「気になるんだ、聞かせておくれよ。身体を鉄鋼に変えていくというのはどういうことか」


「しません。私は石鹸と小麦粉を買ってきますので、貴女は風呂にでも入っていてください」


つれないなぁ、といった彼女を後にし扉を開けて外へと出て行った。はぁという吐息が外気に触れ、淡い白となった。







長年他人の腹を裂き、腕や脚を切り落とし、眼を顔から取り除いていたことを思い出した。麻酔の効いた身体といえども、動揺してしまう患者をなだめて順序良く有機を無機に置き換えていく。ずいぶんと昔、私が首都にいた時代の話。十代の頃、本当に私自身が未来を担っているのだと思った。最も優れた医療技術を持った外科医として、いずれ首都の無数の偉人の碑に私の名前が刻まれるのだとそう考えていた。


技術の進歩が想像よりも遙かに速かったのが、皮肉にも私の未来を違う方向へと変えてしまった。革新から数年の内に、医療は鉄鋼から珪素けいそへと変化し、私のような古い技術者は徐々に表舞台から姿を消していった。珪素はより自然に近く安全に人体に適応したからだ。色や形状を変えるのが容易なのもこれを後押しし、鉄鋼医療は古ぼけた数行を歴史書に記される存在へと失墜した。


私は肺をどうしても珪素に変えたくなかった。それは私の評判をより偏屈な者として染め上げ、気づいた時には周りにはだれもいなくなっていた。首都を去り放浪の果てにこの煤の街にたどり着いた時、私は二ハ才になっていた。




必要なものを買い、帰路につく。謎華めいかはちゃんと風呂に入ったのだろうか。ただでさえ、生身の身体は脆弱なのだ。彼女はどちらかといえばひ弱な方でもある。


煤を髪と着物から払いのけるも、すぐに次の粉が降りかかってくる。いつものことだがキリがない。


「帰りましたよ。風呂には入ったんですか」


返事がない。普段なら矢継ぎ早に外がどうだったか訪ねてくるのに。妙なおかしさを感じ、部屋の奥へとそっと移動した。


謎華めいかが真っ黒になった床の上で寝ている。いや、意識がある……何かが変だ。


「ゴホッ、グフッ……」


彼女の口から出たものが私の手元にかかる。どろりとした煤、黒い液体の中に一筋の赤いものが混じって……。


気づいた時には彼女の背を必死に叩いていた。あの煤玉かあれが出していた煤が彼女の身体に入って、気管で炎症を引き起こしている。少しずつ、ちょびちょびと煤が出てくるが、彼女の様子からまだ多くのものが体内に詰まっているのだというのが予測できた。彼女の潤んだ眼が私を凝視している。息が絶え絶えだ。


やらなければならない。彼女から離れて家屋の倉庫へと走る。扉を開けた先にあるのは短刀、薬、様々な臓の鉄と沈痛薬。持てるだけ持って彼女へと駆け寄った。


相手の許可が下りなければ、手術はできない。だが、許可を取れるような状況ではない。


責任は全て私が負う。一つの言葉を脳内に落とし、彼女の着付けを緩める。


短刀を握った手に迷いはなかった。







「今日はやけに降るねぇ」


妻はいつものように優雅に言葉を吐き出しながら、煤の写真を眺めていた。煤が動的に動くことが分かって以来、彼女は遠方から観察したそれを現像したり、書にまとめたり随分と忙しそうだった。


「いつもと変わらないでしょう。ほら、肺を手入れしましょう」


妻が唐突に動きを止め、こちらを見た。顔が赤く曇っている。


「いや……たぶん、まだそんなに詰まってるわけではないと思うな……」


「私の気持ちがお分かりになりましたか?」


途端に妻が小さくなっていくように見えた。


「貴女の肺を鉄に変えた責任は一生かけて取りますよ」


「……ずるいなぁ、そういうことを言うのは」


お互いの変な笑顔は膨らんで、恥ずかしさを隠すような笑いになっていた。


妻の胸元を開いた時、彼女は気を紛らわせるためか窓の方を見ていた。黒い雪はまだ降り続けていた。

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