corundum

ちゃしえ

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「…久しぶり」


自身の目の前のメロンソーダを眺めながら、ヒイロは言った。アイスコーヒーをひとくち口に含む。

体感40度を超えるかという暑さの中、一番近くにあった喫茶店に二人で入った。


向かいの席に座ったヒイロは、ソーダには口をつけず、ストローでかき混ぜている。時折、グラスの中で、氷同士の衝突音が涼しく響く。


「わっ、」


耳に突然冷たいものが触れ、思わず声が出た。そして、顔を上げると、真横にはヒイロの顔。


「……ピアス」


ヒイロが椅子から半分立ち上がり、白い指が、僕の右耳を摘まんでいた。


「なんで驚いた顔してんの」


「急に耳触られたら誰でも驚くだろ」


「でも、……」


「……」


ヒイロが言いたいことはなんとなく分かったが、気付かなかった振りをした。


「ヒイロは、だいぶ雰囲気変わったね、服とか」


僕の言葉を聞いて、少し寂しげな顔をするヒイロ。


「……まあね」


僕たちは、ずっと一緒にいた。一緒にいることができたはずだった。あの日のことが僕らを壊してしまった。





         ✴





俺は、捨て子だった、らしい。

らしい、というのは、引き取ってくれた両親から聞いただけで、自分では覚えていないから。


ヒイロという名前を付けてくれたのは両親だった。幸か不幸か、俺は顔が母親に似ていて、直接告げられなければ、その証拠たりうるものもなかった。ただ、ずっと、両親の本当の子供じゃないという鋭利な現実に、ただただ笑顔で刺されているぐらいしか、幼かった自分にはできなかった。


そんな毎日だったが、俺が中学生のころ、[弟]が施設から引き取られ、うちに来た。





         ✴





僕の親は、最低だった。

片方がまともならまだ良かったが、現実はそう甘くない。二人そろってアルコール依存症、父親はギャンブルにのめり込み、母親はヘビースモーカー。今考えたら母親の方は薬もやってたかもな。そんな家庭だったから、小学校低学年くらいまでは、世の中の子供はみんなこんなもんなのかと思っていた。


でも、学年が上がるにつれて服が擦り切れてぼろぼろになり、学費もかつかつになってきて初めて、自分の家が異常であることを悟った。幸い、周囲のクラスメイトは僕の陰口を裏で言うことはあっても、表沙汰にしていじめたりというようなことはなく、学校が嫌いになることは無かった。というか、母親が父親に手をあげるようになってきていたから、むしろ、学校が逃げ場だった。


僕が中学に上がるころ、スーツ姿の大人たちがリビングで話し込んでいるのを見ていた。そこからはあまり覚えていないが、児相行きになった僕は、何年かそこでおとなしく暮らした。人間が本来持っているはずのありとあらゆる感情が抜け落ちていたためか、その時期については全くと言っていい程記憶がない。


施設で暮らして二年と少しが経ったころ。一人の女性が職員と話し込んでいるのを、受付につながるドアの隙間から見ることが度々あった。そのときは、まさか自分の引き取りについてだったとは露ほども思わず、その場に呼ばれたときは緊張しっぱなしだったが、そこで唯一覚えていることがある。僕に会いに来ていた女性、後に僕の母親となったその人の、底なしの笑顔だ。この人なら信頼できるかもしれない。

一縷の未来を見出した僕は、取り敢えず彼女の家族と対面することにした。





         ✴





季節はあっという間に過ぎた。


初めて会った日にお互いの境遇の話をされ、これから家族としてやっていけるかと問われ、二人は同時に頷いた。片方は初めての兄弟、もう片方は初めての温かい家庭というものを得、満たされていた。二人とも、この幸せがずっと続くと信じていた。





         ✴





俺たちの共通の勉強部屋でのことだった。


「……ねえ」


「なに、ヒイロ」


「これ、って、」


最後まで言葉を発することが出来なかった。口を塞がれたから。


「……っぜったい、母さんたちにっ、言うなよ、」


そのときの必死な表情を、今でも夢に見ることがある。


それは、ピアッサーだった。


当時、両親はピアスをひどく嫌っており、子供があけることを許すわけもなかった。


ただ、俺は、見捨てられるリスクを横に置き、そこまでして何故開けたいのか、聞いてみたかった。 

互いの気持ちは殆どのときには手に取るように分かったから、こんなことはほぼ初めてに等しかった。


「なんで、急に」


「……ああ、ごめん、」


自身の乱暴な振舞いのことを言われたと思ったらしい彼は、一歩後ずさった。


「いや、そのことじゃなくて。…ピアス。」


リビングの両親に聞こえないよう、その部分だけ声を潜めた。


すると、彼は苦手なコーヒーを飲んだときのような顔をして、こう言った。


「……いやあ、母さんたちには行動じゃないと伝わらないと思って。面と向かっては流石に言えないし」


言いながら、右耳の耳たぶにどこかで買ってきたらしい、シンプルな銀色のピアスをあてた。


「……ねえ、やめた方がいんじゃない?」


「え、」


「母さんたちが、悲しむ」


言った瞬間、左頬に生温かいものが伝うのを感じた。


「…っ、ごめん」


立ち尽くす僕の横をすり抜け、彼は玄関の方に行ったかと思うと、そのままサンダルを突っ掛け、出ていった。


今更ながら頬に手をあててみると、やはり生温かい液体が指先に触れた。


床を見渡すと、先程のピアッサーが落ちていた。針の先に、少し赤いものがついている。

それを見て、やっと頭の中で、つながった。

頬の液体とこれは同じものだ。


謝るべきなのは、俺の方だった。



それから彼とかかわることは、滅多になかった。


あのあと、両親に一人暮らしをすると伝えているのをリビングとの壁越しに聞いた。

そうかあ、と思いつつ、でも挨拶をする資格はないと思って、いつか二人の共同部屋だった、今の俺だけの部屋に引っ込んでいた。


大学に行く気にはなれなくて、高校を卒業してからは、ずっとアルバイトをしていた。

それ以外の時間はずっと、部屋で特に面白くもないSNSを漁っていた。


アルバイトは、コンビニとか飲食店が多かった。だんだん両親に生活の心配をされるようになった。

自分は焦っていなかったが、勧められるまま受けた面接に全落ちした。

もう退路を断たれたし、稼ぐこともできないから、せめて家ではおとなしくしていた。


さすがに温厚な両親も俺を見捨てるかと思っていたら、父親の会社の系列である広告代理店に、面接の話を取り付けてくれたらしい。

運よく採用してもらえて、とにかく今は両親に恩を返す一心で働いている。


そして、ひと段落ついたころ、休日になんとなく大通りを歩いていて、ふと人影が目に留まった。


普段は知り合いに会わないよう昼間は殆ど外出しないが、うだるような暑さで、文字通り人っ子一人いないだろうと思って家を出たはずなのに。


ぼうっとそっちを見ていたら、向こうも気が付いたようで、こちらに歩いてきた。近づいてくるにつれ、相手がはっきり見えるようになり、やがて思った。


僕が会ってはいけない人。


でも彼はどんどん近づいてくる。


互いの距離が10メートルに満たない程になったころだろうか。

ふっと力が抜け、自分が彼と話したいのだということを認めざるを得なくなった。


何年かぶりに見る顔に微笑みかけた。





         ✴





「ヒイロは、だいぶ雰囲気変わったね、服とか」


家を出た後に、何度かヒイロの様子を見に行ったことは黙っていようと思っていたが、最後に見たときとあまりに印象が違ったものだから、つい口に出てしまった。


これでたまに様子を見に行っていたことを白状したようなものだが、本人はそこには突っ込まなかった。


「…今更、なんだけど、ひとつ、いいかな」


椅子から立ち上がったヒイロが言う。


「うん」


「あのときのこと、ほんとに、ごめん」


ふかく頭を下げた彼の声が、震えている。


「傷付くって…わかってたはずなのに、」





          ✴





喉が、苦しい。


自業自得、という言葉を、初めて身をもって知った。


いくら相手を心配して言ってとしても、結局は自分勝手に動いていただけだった。


どんなに謝ったって足りないし、足りることなんて永遠にない。そんな呪縛を、ずっと解くことができない。

解かれていいわけがない。あんな、存在を否定するようなことを言って。


「…いいよ、ヒイロ。顔を上げて」


[兄]の手が頬に触れた。温かさを感じた瞬間、感情を閉じ込めていた箱のふたが壊れてしまったようで、あのときとは違う透明な液体が、両頬を伝った。





          ✴





やっぱり僕らは、切っても切り離せない。


あの日、いつものように、ヒイロだけは分かってくれると自分勝手にも思い、勝手に傷ついて彼に手をあげ、家を出てしまったことを悔いていた。


ヒイロが、両親が僕が今までのように接してくれなくなると心配して言ってくれた言葉だったと後に気が付いたが、どうしようもなく遅かった。

あのときのことでヒイロが気に病んでいるのでは、と何度も家に様子を見に帰り、あの部屋の前でドアノブに手を掛け、結局、余計に気まずくなるのではと躊躇してしまい、会わずに終わる、ということを繰り返していた。


今回もそうだろうと思いつつ、見に行かずにはいられない自分を認めざるをえなくて、一人で笑ってしまった。


まさか、交差点の向こうの人影がヒイロだとは夢にも思わず、ついに幻覚まで、いやでもこの異常な暑さのせいかも、などと考えながらも、横断歩道を渡っていた。


僕らの間の距離が10メートル程になったころだろうか。

はっきり顔を合わせ、その瞬間、相手がほっとしたような表情で口角を上げたのを見、全身から力が抜けてしまったようだった。





         ✴





あお。これからも、俺の弟で、いてくれる、かな」


まだ俯きがちに、ヒイロが言う。


「もちろん。…今度は、彼氏とも会ってよ」


ヒイロは、ようやく顔をあげ、


「俺が、会っても、…いや、喜んで」


微笑んだ。



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corundum ちゃしえ @nori-tama55

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