口に蜜、華に棘

鹿月天

口に蜜、華に棘


 華、とは何か。時々考える。耳を取り巻く甲高い喧騒も、鼻腔に入り込む甘ったるい香も、まさに世間から華と呼ばれるものであろう。

 科挙及第の祝いとして同期に連れてこられた妓楼は、世界の中心たる長安の一角・北里にある。歓楽街として賑わうこの坊は、時に夜の華などと称されていた。

 しかし、元々嶺南の生まれで書物漬けの日々を送ってきた私にとって、女と過ごす魅力など知らぬ世界であった。それ故に今でも居心地の悪さの方が勝っている。元々騒がしい場所は好きでは無い。歓声と楽と談笑が混じり合うこの空間はどうも耳に刺さって苦手だった。

張九齢ちょうきゅうれい殿は相変わらずだな。若くして進士になったというのに、女に自慢しないのは勿体ないぞ」

 皆が口を揃えてこう言うが、私にとっての書物とは人生に捧げる全てでありながら、汚く言えば食いつなぐために必要だった努力の結晶である。悪地などと言われる我が故郷から都に出るには文字通り血反吐を吐く思いをしてきた。自慢するならば然るべき場で自慢したいところである。まぁ、そもそも勉学とは過ちを繰り返さない為に身につけるべきもの。人に見せびらかすためにするものではないと思っているが······。

 

 少し夜風を浴びたくなったので酔い潰れた男たちを尻目に回廊へ出る。中庭の池に反射する提灯の色が、ぼんやりと視界を覆っていた。少し酔ったらしい。霞む景色は色鮮やかで、華と呼ばれるのも分かるとは思った。故郷ではお目にかかれない景色はここが世界の中心だと言わんばかりである。全く余計なお世話だ。真に中華であるべきなのは宮城にある玉座であろうに。

「あら、珍しい」

 ふと横から声がした。己にかけられたとは思っておらずぼんやりとしていたら、ちょいちょいと何かが視界を掠めた。

「お兄さん、酔ってます?」

 やっと対象が私であったことに気づき、そちらを一瞥する。白い手に捕らえられた牡丹の枝をふりふりと動かしていたのは、二度だけ話したことのある青年だった。見る限り、まだ十七か十八といった頃合で遊び盛りだろう。以前聞いたことにはいつも市か楼に居るそうだ。というものを一番理解しているだろうな、などと嫌味な考えが頭を過ぎる。

 まあ、見るからに貴族の出なのだ。聞かずとも服装や行動で分かる。良質な布と艶やかな所作。女人のように軽く纏めただけの黒髪を彩る簪。まさに金と時間を持て余した末息子とでも言いたげな風合いだ。書物の話をしても「文字が読めなくて」などと返してきたので、勉学もそっちのけで遊んでいると見える。正直、悔しかった。こうも出自に恵まれていそうな男を見ていると、血のにじむ思いをしてやっと竜門に辿り着いた己が馬鹿らしく見えてくるのだ。嫌味を言いたくなることくらい、まだ二十半ばの若造には許して欲しいところである。

「珍しいですね、お兄さんがこういう場にいるの。前に会ったのは東市の茶屋でしたね」

「祝いの席に呼ばれただけだ」

「お祝い? 素敵じゃないですか。何のお祝いです?」

「それを聞いてどうする」

「私もお兄さんをお祝いしたい」

「見ず知らずの者によく言えるな。揶揄うなら帰れ」

「本音ですのに。ああ、分かった。お兄さん科挙に受かったのでしょう。向こうのお姉様方が話してましたよ。新しい進士の方々が見えてるって。ほら、お兄さん知識が豊富だし、書物に詳しいから」

「······」

「あ、図星」

「余計なお世話だ」

 そっぽを向こうがお構い無しのようだ。酔い醒ましにと持ってきた水を一口飲めば、生温さだけが喉の奥を撫でていく。

「ふふ、私もお水飲みたい」

「貰ってくればいいじゃないか」

「戻るのも面倒ですし」

「連れは」

「いないです」

「はあ?」

 てっきり、似たような集団と絡んでいるものだと思っていた。しかし考えてみれば、これまでに居合わせた時も独りだった気がする。

「お前、連れもなしに遊んでるのか」

「遊んでいると言いますか、······ふむ、まぁ仕事をしていないという点では遊んでいますか」

「ハッキリしない物言いだな」

「遊んでいると言えば遊んでいますよ。美味しいもの沢山食べたいですし」

「なら遊んでいるんじゃないか」

「おや、遊びながら学んでいるだけです」

「何を学ぶというんだ。文字も読めないのだろう」

「読めないからこそですよ。私は読み書きに関しては出来損ないですから、お兄さんみたいに書物を学ぶのは駄目なのです。でも、上へ行くための道は科挙だけではないでしょう?」

「まあ、貴族ならそうだろうな」

「でも、今はまだ血筋を使う時じゃないので」

「······どういう意味だ」

「あら、言いませんよ。世の中知らない方が良いこともあります。科挙に受かったばかりのお兄さんは、これから人脈を繋がなければならないでしょう。私の出自は聞かないでください。私の為にも、お兄さんの為にも」

 意味ありげに目を細めると、奴は口元を牡丹で隠す。到底二十そこらの若造には見えず、目が離せなくなった。

「まあ、でもそうですね。遊んでいるようで学んでいるとは何か、それくらいはお伝えしましょう」

 彼は無邪気に笑い直して、牡丹を帯に挿す。

「お兄さんにとっての五経が、私にとってはこのような空間だということです。だから食べ物が欲しいだとか女性を買いたいだとか、そういうのは成り行き任せの二の次なのですよ」

「はあ」

 全く意味がわからない。ここは娯楽のための館であろう。それが書物と同等とは馬鹿げたことを言ってくれる。そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか。彼は欄干から少し身を乗り出すようにして無邪気に中庭を指さした。

「例えば、あそこに青い衣の娘さんがいるでしょう? 彼女はこの楼で一番の胸の持ち主です」

「! 下世話なことを言うな」

「嫌ですね。どんな意味だとお思いで?」

 鈴のような笑い声。からかうような瞳に恥じらいなど見えなかった。

「私は尊敬しているのですよ。彼女は己の武器を分かっています。ほら、見ていてください。彼女はこれから横の男と腕を組む」

 池の畔で男がかの娘に花を送っている。遠目から見ても鼻の下が伸びていた。そのだらしない顔を見上げるように、娘は上目で男の腕に抱きついた。奴が言うや否やの出来事だった。

「あの娘さんは男が喜ぶ行動を分かってやっているのです。そう言う商売であり、その道の玄人ですから。しかし、大切なのは彼女の意図を的確に読み取ること。例えば、私がとある男の気を引こうと思っていたとしましょう。そして、あの娘さんの様子を見ていたとしましょう」

 雲のような声音が途切れたと思うと右腕に軽い圧がかかる。風に揺られる柳のように奴が枝垂れかかっていた。固まる私を他所に、彼は腕を絡めて顔を傾ける。

「あの娘さんの表面だけを見ていた場合、私はこう思うでしょう。ああ、男を喜ばせて信頼させるには、こうやって腕を絡めれば良いのか、と。しかしそれは誤解でしょう?」

 飴色の光を溶かした瞳が、ゆっくりと上目に私を捉える。その瞬間、背筋に冷たい風が走った。男に身体を寄せられたからでは無い。彼の笑みが、距離が、目の遣り方が、あまりにも先程の娘に似ていたからである。

 いっそ恐怖とも言うべきか。顔も身体付きも、彼と娘は全くの別なのである。しかし、私はこの男を見てあの娘を想起した。指先の一つ一つに至るまでが先程の娘を思い出させた。まるで一寸違わず同じ形の手を作ったかのように違いがわからない。私はあの娘の手の形など全く覚えていないのに。それでも、そうであると思わざるを得ないほどの既視感と類似性。一体何が起こったというのか。全く意味がわからなかった。

「······ふふ、お兄さん嫌そう」

 軽い声音が耳に届く。ハッとした瞬間には、目の前の彼がいつもの雰囲気でニコニコとこちらを見上げていた。初めて会った時と変わらぬ普段通りの胡散臭い笑み。あの娘の色の欠片もなかった。

「そう。別に嬉しくも何ともないでしょう。男が好きなわけでもなければ、私のことが好きな訳でもない。そんなお兄さんからすれば、こんなことをされても嬉しいとは思わない」

 彼はパッと身体を離して片手を振った。

「それは私の立場に女性がいたとしても、ですよ。お兄さんはあんまり胸に興味がなさそうですから、あの娘さんに同じことをされても靡いたりはしない。違います?」

 蘇り始めた喧騒を耳で捉えながら、私は「そうだろうな」と頷いた。

「さほど興味は無い」

「やっぱり。お兄さんがいつも見ているのは髪ですものね」

「!」

「図星でしょう。ふふふ、こういうことがね。大切だという話ですよ」

 顔を顰めた私を他所に、彼は解けてきた己の髪をくるくると簪でとめた。

「先程の娘さんに目がなかった男。彼は大理寺の若い役人なんですけれど、大きな胸の娘が好みなんです。それを分かっているから、あの娘さんは彼を選んで、あの仕草を選んだ」

「つまり相手を見ていたと」

「その通りです。己の武器を知るとはそういうことです。己の長所短所に気づくだけでは足りぬのです。それが一番有益に動く状況を想定し、判断し、的確に実行できるところまでが本当に大切なこと」

 髪を括り終えた彼は、楽しげに簪の垂れ下がりを指で弾いてみせる。

「こういう装飾品を好む方へは着飾って御相手すれば良いですし、甘い酒を望むものには果実酒を渡せば良い。それさえ出来れば欠点とて武器になるのです。ほら、あそこで琵琶を弾いている初々しい娘さんだってそうだ」

 彼の視線を辿ると、静かな小部屋で琵琶を弾く娘がいた。弦を弾く指先は宮廷楽人の如きしなやかさで、目の前の男は聞き惚れている。あれもまた、先程の娘とは違う武器ということか。

「彼女は新人ですが、楽を好むお客に人気でしてね。それはもちろん彼女の腕が良いからです。しかし、最近は楽に興味のない方々も買っているのですよ。特に堅物の文人なんかがそうですね。手馴れた妓女にはない、初々しさに魅入られるからです。仕事をそつ無くこなせない欠点こそ、彼女の愛らしさを引き出す長所でもある」

 よく見ると、桃色の衣が些か大きい様子で袖が何度もずり落ちている。彼女が慌ててはにかむたびに、目の前の男は「構わん」と言いたげに片手を振っていた。

「ここで働く方々は皆、男性も女性もそうやって己の特徴や相手の好みに合った接客をしている。否、ここだけではありません。昼間の商売だってそうです。西市と東市では色が違うのもそれ故でしょう。あそこにいる商売人は客層を見定めて人を呼び込み、来てくれた客の特徴を咀嚼し、また次の策に移るのです。そうしているうちに坊全体へ雰囲気が出る。それはより大きな城でも国でもきっと同じこと」

 彼はこちらを向くとにこりと微笑んでみせた。

「市や楼はこういう眼を磨くのに、良い学びの場なのです。お客として座っていれば、向こうが勝手に最善の策を教えてくれますし、周りを見れば師だらけだというわけです。まあ、個性を全て仕事道具にしろと言いたいわけではないですけれどね。ただ純粋に楽器が好きで上手くなった相手に対して、気を引くために練習したのだろうと言うのは失礼でしょうし、逆に生き延びるために努力して頭が良くなった相手に、どうせ生まれつき頭が良いのだろうと負け惜しみをするのも失礼になるわけで。そこもまた、相手を見てかける言葉を選ばなければ脈は繋がらないわけです。その練習もここでは出来る」

 向けられた笑みはやはり胡散臭い。しかし、そこに軽薄さは感じなくなっていた。彼は出自を聞くなと言う。そこを問い詰める気などないが、何故それを学ぶ必要があるのかは聞いてみたかった。

「下手に丸め込まれて血を狩られるのは御免ですから。言ったでしょう。私は学がてんで無いのです。でも、真似るのは得意だ」

 と、彼は返した。

「お兄さんのように賢い人は、多くの故事や詩を頭に入れて、咀嚼して、それを己の詩などに写し出すことが出来る。私は文字が苦手ですから、咀嚼する対象として書物ではなく目の前で生きる人々を選んだわけです。彼らの仕草や戦術であれば、文字が読めなくても、注意深く見ていれば真似ることが出来るでしょう? それを己の物にした時、やっとお兄さん達に並ぶ支度が整うという訳です。私にとって、これが滝を登る唯一の術。お兄さんにとってはそれが書物だったのやも」

 彼は悪戯をした子供のように笑った。一方の私は感心していた。否、感心してしまったと言うべきか。意味もなく遊んでいるものだとばかり思っていたが、案外色々と考えているらしい。その事実が意外性を持って心の隅をつついてくる。

「それに、コツはお兄さんが教えてくれたんですよ。ほら、前に会った時、学びを得ている人とはどんなものか聞いたでしょう。その時、論語の一節を教えてくださいました。哀公問ふ、弟子孰か学を好むと為すと」

「······孔子対へて曰く、顔回といふ者有り。学を好み、怒を遷さず、過ちを弐びせず」

「それですそれです。顔回の名前まで覚えていられませんでした」

「これが何を教えたと?」

「的確な学び方ですよ。言葉だけ取れば、本当に学を好む人というのは八つ当たりをせず、同じ失敗もしないということでしょうが」

「そうだな」

「でも、人なんですから怒りたくなる時や、同じ失敗をしてしまう時もあると思うのです。皆が顔回という方のように出来た人じゃないでしょうし」

 また元も子もないことを言い出した。

「だからこそ、顔回は優れていたのであり、我々は彼を目指すべきだと······」

「ではどうやって目指します?」

「······」

「お兄さんならの話ですよ」

「己を律する他なかろう」

「ふふ、お堅い」

「馬鹿にしているのか?」

「いいえ、とんでもない」

 彼は愉快そうに口元を袖で隠した。

「羨ましいのですよ。お兄さんはそういうの得意でしょうけれど私は苦手なのでね。だからこそ、もう少し噛み砕いてみたんです」

「······というと?」

「八つ当たりをしない人というのは状況判断が上手いということでしょう。自分と相手にある非の割合は如何程か。自分が怒るべき相手は誰なのか。そもそも怒る必要はあるのか。より良い解決方法があるのではないのか······など。その時々の状況をみて、今一番考えるべきことを選択出来ている。つまり、怒らないことこそ美徳というわけではないと思うのです。ただ、己と相手と周りの環境を総合して最善策を打ち出すのが上手いということでしょう。相手を叱った方が良い時は叱っても良いのです。相手さえ間違えなければ」

 己には無い着眼点だった。何も言わずにいると、彼はまた続ける。

「過ちを繰り返さないことだってそうです。大事なのはきっと、同じ失敗をしないことそのものではありません。同じ失敗をしないように、何をどう間違ったのか、何故間違ったのか、再び間違えないようにするには何をしたら良いのか、それらを考える姿勢こそ大切なのだと思います。それは結局、先程の娘さん達と同じなのではないでしょうか」

 薄明かりの中に揺蕩う青布を思い出す。真に学が出来る者とは、己の力と周りの環境を的確に俯瞰し、行動を向ける対象を、失敗を繰り返さないための策を、常に考え続ける姿勢を持っているもの。「怒を遷さず、過ちを弐びせず」とは、単に顔回が優れていたと言っている訳では無い。「八つ当たりをせず、二度と失敗をしない者」こそが優れていると言う訳でもない。

「······真に読み取るべきは過程か」

「ふふ、持論ですが」

 奴は心底嬉しそうに笑った。

「お兄さんはそれが出来ているからここに立てているのでしょう。己を律することが出来る人は、自然とそのような立ち振る舞いを身につけているのではないでしょうか。ただの我慢屋でなければ」

「そう思うか?」

「もちろん。あの顔回の一節だって、お兄さんが死ぬ思いで勉学に励んできたからこそ色濃く心に残っていたのでしょう。どれだけの誘惑が周りにあろうとも、それらを断ち切って書物に向かうことが最善の策であり、己の得意分野に合った生き方なのではないかと考え、失敗しながらもがいてきた。そんな方ならあの一節を印象深く思うかもしれませんね。まあ、お兄さんならそもそも論語くらい暗記していそうだけれど」

「······暗記くらいしていないと進士にはなれんからな」

 ほんの僅かな油を使い回しながら、寝る間も惜しんで筆を動かしていたあの日が懐かしい。寒々とした部屋で埃の香りに包まれていた光景がありありと瞼に蘇った気がした。故郷の知人は達者にしているだろうか。地元から遂に進士が出たのだと知らせてやれば驚くだろうか。私の名さえ知らないだろうこの男の言葉が、幼いあの日を的確に思い出させたのが不思議でならなかった。

「ふふ、凄いですねぇ」

 今へ引き戻すかのように、飴色の光に溶け込む声がした。

「そうかぁ、そうですよね。お兄さん、進士なのですものね。もう竜になってしまった」

 ふと、彼が口を閉じる。何だと思って視線を流せば、彼はこちらに向き直って寂しそうに肩をすくめた。

「おめでとうございます」

 私は何も言えなかった。理由など分からない。しかし言葉を返そうにもいつもの説教が出てこなかった。そう黙っている私を見て、彼は一歩身を引く。

「······私そろそろ帰らないと。青二才の戯れに付き合っていただきありがとうございました」

「いや、別に」

 付き合おうとしたつもりはないが、いつの間にか流されていた気がする。しかし、この男がそんじょそこらの遊び人とは一線を画していることが分かり、案外深い考えを持っているものだなと感心したのは事実である。次に会うことがあれば、また話してやっても良いかもしれない。

「ふふ」

 ふと、男が笑う。相変わらず、口元を袖で隠すような嫋やかな動きだった。

「お兄さん、やっぱり甘いですね」

 突然そんなことを言うと、彼は「さようなら」と一つ私の腕にまとわりついて、軽やかな足取りで去っていった。あまりにも流麗な身のこなしであったから、声さえかけられなかった。奴に絡まれた腕を見ようと視線を落とせば、いつの間にか牡丹の枝が帯に差し込まれている。なるほど、戯れるような動きがあまりに自然で気づかなかった。

 少々顔を顰めながら牡丹を夜風に晒せば、薄紅の花弁がふわふわと踊る。はて、とはどういう意味か。クルクルと枝を弄びながら考える。そうして中庭の男と娘が個室へと消えた頃、ハッとして思わず頭を抱えた。

 彼は言っていた。相手に合わせて最善の策を選ぶ術をここで学んでいるのだと。

 あの男がわざわざ長話をしたのは何故か。遊んでいるように見せかけて周囲を油断させているのに、私にだけ手の内を明かしたのは······。

 

 つまりそれこそが、私を相手にする際の最善の策だと考えたから──ではないか。


 一気に溜め息が溢れた。案外考えているのだな、などと感心した己が浅ましい。完全にしてやられた。あの狐め、やはり恐ろしい術を使う。もう少しで絆されるところだった。

 もはや帰る気力さえなくなってしまった。今夜は浴びるほど酒でも飲んで、周りの男どものように潰れてしまおう。まとわりつく喧騒で誤魔化すように、牡丹を夜風に放って宴の席へと踵を返す。

 

 彼が宗室出身の宰相となって私の前に立ちはだかるのは今少し先のこと。それから実に三十年ほど後の話である。

 









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口に蜜、華に棘 鹿月天 @np_1406

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