第12話 cocodrilo

 半袖短パンにバックパックを背負った観光客達の横を、一台のジープが駆けていく。乗っているのは軽装の観光客とは真逆の、森に分け入る為の作業着に身を包んだ人物で、広い鍔のブーニーハットとサングラスで人相は分からない。精々分かるのは浅黒い肌をしている事だけであった。


 道の真ん中で二人の男が手を上げ、「止まれ」の合図で行く手を塞ぐ。運転席の人物がサングラス越しに目を凝らせば、古びた小屋の陰に隠れるように数人が固まっているのを確認した。Tシャツ姿のこの男達は、武装こそしていないが恐らくはゲリラの仲間で、見慣れない相手にこうして検問紛いの事をしているのだろう。


「何処へ行く?見ない顔だ」


「環境団体だよ、先日の雨の影響を調べるんだ。此処の公園のボスに話はついてるんだ」


 環境団体のメンバーを名乗る人物の話を聞いた男達は、暫し何某かを話し合い、わずかに顔を車内に入れてぐるりと見まわし、そのまま顎で「行け」と合図した。

 どうも、とだけ去り際に告げて車を発進させバックミラーに移る男達を見れば、車が視界から消えぬうちに銃と無線を取り出すのが見えた。隠すなら最後まで気を抜かない事だ。そう心の中で呟く運転手――ヨハンナはサングラスを外し、その緑と橙の目を擦った。


 マタンサス州南部、靴のような形をしたサパタ半島一帯に広がる国立公園はその広大な湿地帯と密林、そして生い茂るマングローブによって空からの見た目とは裏腹に非常に複雑な地形をしている。ヴェトナムや南米アマゾンのジャングルと比較するとさほど背丈の高い樹木は無いが、ゲリラ達が当局の目を逃れて隠れ続けられているのはその為であった。当然、アウグストの根回しの結果でもあるが。

 そんな地形を外から歩いて行くなど無謀そのもので、整備されている道を自動車で移動するのが現実的であった。しかし当然ながら先程の様なゲリラ達の警戒監視は幾重にも敷かれており、そんな中で自動車が通れる数少ない道を堂々と行けたのはアウグストとの交渉の賜物であった。


「こういう所にはバカンスで来たかったな」


 そう溢すヨハンナに「バカンス中でしょ」とサキが横槍を入れると、ヨハンナは眉間に目一杯シワを寄せ、サングラスの下からサキを睨みつける。確かにその通りだ、その通りであるが、ヨハンナは返す言葉を見付けられずに押し黙る。


「バカンスってなぁ、こんな辛気臭い作業着やら着てトランクに銃詰め込んでやるもんじゃあねえの」


 ヨハンナは絞り出すように反論するが、それまでに要した僅かな間がサキの指摘に対する反論たり得ない事を物語っていた。バカンスでなければ何なのか、仕事か、そうでないならば…ヨハンナに答える術は無かった。そう、バケーションとしてこの島国へと降り立ち、その中で自らの意思で行動している以上、これもバカンスの一部として処理するより他に無いのだ。些か硝煙の匂いに塗れている事は否めないが。


『―――であるから、我々は米大国主義の一員として足並みを揃えるのではなく、しかしかつての共産主義に立ち返るでもなく、この美しいカリブ海に浮かぶ北と南の中間、世界をつなぐ中継点として新たなる立ち位置を確立する事が国民と国家の重要課題であるとして―――』


 カーラジオがバティスタ共和国大統領、アンブロシオ・カルデナスの演説を届ける。血に塗れた武力闘争によって成ったバティスタ共和国の革命は、その全てが自らの力のみで成し遂げられた物ではない。凡そ80年前、ヨハンナ達の居るサパタ半島の東、コチノス湾を挟んだプラヤ・ヒロンに上陸した亡命キューバ人同様、合衆国の支援があって成し遂げられた物であった。

 カルデナス大統領は、合衆国に対し革命への協力の見返りとして合衆国資本の外資系企業の誘致を推し進め、マタンサス州の工業地帯の一部や砂糖などの主要農産業を外国資本の企業に破格の値段で売り渡した。結果として高効率の農業や最新機材の導入による工業力の上昇は見られたが、それらがバティスタ国民に還元されている訳では無かった。寧ろ工場の無人化などが進められたために一部労働者の失業が相次ぎ、それらに対する反感から、海外企業排斥を目論んで反政府運動に身を投じた者も少なからず存在した。かつてマタンサス州の重工業労働者組合の重鎮であったアウグストもまた、そうした企業に対する反感を持っていた者達の一人であった。

 しかし大統領は合衆国や先進諸国との一方的な搾取的経済協力関係からの脱却を図り、新たな同盟関係を結ぶ相手としてかつて、『大戦』中は合衆国と対立関係にあった南米同盟との接近を画策していた。現在のバティスタ共和国の産業は、自ら招いたとはいえ国外企業による乗っ取りに近い状況であり、かつてのキューバ時代から続く貧弱な産業基盤が全て海外資本に依存してしまえば、それは主権国家の皮を被っただけの欧米の支配を受けた経済的俗国に他ならないのである。かつてスペインがこのキューバを支配した歴史を繰り返さぬためにも、カルデナス大統領は何としてでも現代の植民地支配からの脱却を図るべく行動していたのである。

 だがそれを知ってか知らずか、反政府勢力こと共産ゲリラ達はかつてフィデル・カストロの成し遂げた革命と、共産主義に基づく理想郷を取り戻すべく反旗を翻し、バティスタ全土で武力闘争を繰り返しているのだ。


 ジープは公園の奥へ奥へと進み、その途上で脇道へと逸れ、関係者以外立ち入り禁止と看板が掲げられたゲートを開け、更にその奥へと車を乗り入れる。本道とは違い、車一台すれ違う事もままならない、未舗装の道は数日前の大雨の影響か酷くぬかるみ、時折ジープの足を掬ってタイヤを空転させた。

 開け放った窓から車内に、未だ乾ききらぬ、湿気を含んだ粘着質の泥と瑞々しい草木の香りが流れ込み、ハバナの排気ガスと生活臭の入り混じった匂いとマタンサスの潮の香りとはまた違う空気に、これから戦いに赴くというのにも関わらずヨハンナ達は僅かばかり観光客の様な気分を味わっていた。

 やがて道の凹凸は増し、道も狭まり、遂には行き止まりに達する。此処から先は車では通る事は出来ない程狭く険しい道が続き、最終的には公園管理スタッフの駐在キャンプへと行き着く。しかしヨハンナ達はこの道は使わない。用事があるのは駐在キャンプでは無いからだ。


「さて、お着換えの時間だ」


 車を降りたヨハンナはトランクを開け、ダッフルバッグに詰めた手製の迷彩服を取り出し手早く袖を通す。そこらの店で売られているカラースプレーのビビットな発色は、例え深緑など暗めな色合いであっても自然界では非常に目立つ。それ故にヨハンナは何度も他の色と重ね塗りや、土で揉んでぼかし水による脱色を繰り返して周囲の植生に溶け込むよう調整を施していた。

 その手間の甲斐もあってか、専用に造られた迷彩服に比べれば些かお粗末な出来ではあるが、急ごしらえの手製にしては植生に溶け込むには十二分な出来に仕上がっている。加工の過程で随分と生地を痛めつけたせいで、服としてはやや草臥れてしまっているが、パレードに出席するでも無いのだから文句は言えない。


「確認するぞ、発砲は最終手段、敵パトロールと接触した場合は可能な限り交戦は避けてやり過ごす。排除する必要があればナイフとか、音が出ない方法でやる。良いな」


「射撃は原則として被発見時にのみ、て認識で良いの」


「そうだ。銃口向けて、その場で投降してくれりゃいいんだがな、そうもいかんだろう。撃って来るなら勿論、逃げるようなら背中を迷わず撃て。非武装でもだ」


 カービン銃に弾倉を叩き込み初弾を装填、安全装置を確認して肩にかけ、ヨハンナは時計をちらと見る。全行程の行動予定時間には余裕があるが、雨で濡れて荒れた地面を行く為に歩みは遅れるだろう。靴を麻袋で包んだとしても、乾いた地面より足跡は残りやすく、侵入が露見した場合に追跡を受けるリスクは跳ね上がる。


「雨で地形が変わってなければいいけど」


 スプリングフィールドを担いだサキが呟き、ヨハンナが顎に手を当てて唸る。このシエナガ・デ・サパタに大雨が降ったのは数日前、ヨハンナ達がまだマタンサス市に滞在していた時の話であり、ヨハンナも「雨が降った」という事は天気予報等で知ってはいたが、実際にどの程度の雨であったかは把握していなかった。しかし、降雨による地形への影響に関するデータを持っていない以上、予定通りのコースを辿るより他に道は無い。

 それを考慮に入れつつ、浅黒い肌に見せかけた化粧の上に黒や緑のドーランを重ね塗りして念入りに偽装を施し、持ってきた荷物を全て担ぐとヨハンナとサキは車を放置し、道なきジャングルへと分け入っていった。





「なに、副知事の邸宅に?」


「あぁ、昨日の夜だ。仲間が監視中の副知事の家に例の女が出入りしていたと」


 憲兵隊の検問を避ける為、未舗装の農道を走る車内でマルシオはナナカの問いに答える。金髪、獣の耳。その特徴と合致する人間が自分達の活動範囲に現れたというのだから、昨夜連絡を受けたマルシオは直ぐにでも飛び出したかった。だがマタンサス市近郊での作戦行動があり直ぐには行動できず、仮にも副知事、それもゲリラに対して資金提供を行っている協力者という立場、そのような人間の邸宅に勝手に殴り込むのは組織に対して不利益を生む恐れがあった。マルシオが連絡を受けたその時、連日の撤収作業や陽動作戦の指揮を執るクラウディオは束の間の休憩中であり、ほぼ私情が占めている行動の許可を取る為、疲労困憊の司令官を叩き起こす程マルシオも不躾な人間では無かった。


 連絡を受ける前、マルシオとナナカは国家警察の交通監視ネットワークをハッキングし、マタンサス市近郊や、それこそカーチェイスで発生した多重事故現場の交通監視カメラの映像を取得、ヨハンナ達の足取りを探っていた。だがこれといって有益な情報を有る事が出来ていなかった。

 というのも、多少機械弄りやパソコンに腕が立つマルシオよりもヨハンナの方が遥かに上手であり、なんとヨハンナは街歩きやホテルでのチェックイン中は勿論の事、カーチェイスの真っ最中ですら片手間にバティスタ国家警察の監視網に侵入し、映像解析システムや電子情報化された映像ファイルを改竄して、自身やサキの顔を暈すなり他の誰ともつかぬ人間に置き換えていたのだ。門外漢のナナカは勿論、この国から外に出た事のないマルシオには、そのカラクリがどのような物であるか理解できず、まるで魔法の如く顔を隠された映像を拾い上げる度、マルシオは超える事の出来ない巨大な壁にぶち当たったかのような無力感に苛立っていた。


 そんな時に、意外な場所で発見の報を受けたのだから、マルシオの興奮と喜びはひとしおであった。これでミレイラとエルナンドの復讐が果たせる。余所者グリンゴめ、やっと尻尾を掴んだぞ。朝一でクラウディオに連絡を取り、行動の許可を取ったマルシオはナナカを伴い一路アウグストの邸宅へと車を飛ばした。

 ヨハンナ達がそこに居ない事は承知の上だが、何の用事も無しに出入りする訳がない。何某か、アウグストと会話の一つでも交わしたに違いない。でなければ押し込み強盗か。なんにせよその後の動きに関する手掛かりは残しているだろうとマルシオは踏んでいた。考えたくはないが、最も楽な考え方をすれば、ヨハンナとアウグストが何らかの取引をしていただとか、ゲリラ組織に対する裏切りを働いたかである。どちらにせよ、組織に対する重大な背信行為を働いていればマルシオ達が「話を聞く」のがうんと楽になるのだ。


「あの副知事は気に入らん奴だったからな、金にがめついオリガルヒめ。女狐と何を取引したんだ」


「オリガルヒ?」


「ロシア語だ。汚い金持ちの事さ。政治にも口出しできる類の連中を言うらしい。ピッタリじゃないか」


「ロシア語もできるなんて知らなかったよ」


「ハバナ港で会ったロシア人の同志に教えてもらったのさ。その他には…あまり覚えてないな、ブリヌイとかダーチャとか、それぐらいだ。…おっと」


 マルシオは何かに気付いたように道から逸れて樹木の陰へと隠すように停め、ナナカに伏せるよう身振りすると自分も身を伏せる。すると暫し後に土煙を上げながら大柄のSUVがマルシオ達の進行方向城から現れ、狭い道を我が物顔で駆け抜けていく。そのグレーの車体側面にはS.S.G社のロゴがプリントされていた。

 マルシオはともかく、ナナカはハバナから脱出する際に面が割れている為、顔を隠していない状態で不意に姿を見られ、これから用事があるというのにその場で大取物の開始など真っ平御免である。大統領親衛隊や憲兵隊の眼を避けるのは当然で、相手は民間の警備会社で情報が共有されていないかもしれないとは言え用心に越した事は無いのだ。


「あいつら、ハバナだけじゃなくこっちにも」


「俺達の国を我が物顔で歩き回りやがって、何様のつもりだ」 


 マルシオは怒りにハンドルを握る手の力を強め、SUVの去って行った方向を睨みつけている。しかし今の二人に何が出来る訳でも無く、あのSUVであっても恐らくは防弾、中には完全武装の兵隊が四人は詰まっている。目立たぬよう武装は最小限で、拳銃程度しかもっていない二人では太刀打ちなど出来ようも無い。


「そのうち、そのうち痛い目を見せればいい。今はやる事があるでしょ」


 ナナカの言葉を受けたマルシオは、ゆっくりと息を吸い込み、音が聞こえる程大きく吐き出して自分自身を宥めすかす。こんな所で癇癪を起こされても仕方がない。ナナカはそう思いながら水のボトルに口を付ける。自分達の国であるにもかかわらず、害虫の様にコソコソとしなければならない現状は自分だって腹が立つ。しかし衝動を抑えきれずに、半ば八つ当たりの如く暴れ散らした所で待ち受けているのは無意味かつ、無駄で不名誉な死だけである。死ぬだけならばともかく、捕縛されて拷問の末に情報を吐こうものなら最悪だ。皆は口を揃えて「拷問には屈さない」「俺は何も吐かない」「仲間は売らない」等と言うが、人間は案外簡単に痛みに屈するもので、特に素人のゲリラに過ぎない自分達が、専門の訓練を受けた尋問官の拷問に耐えられる筈が無いのだ。


「オリヒラ、何でこの国に来た?あぁネットでこの国の現状を知ったのは聞いたが、この国じゃなくても他にも行く所はあっただろう」


 ハンドルを握り直しアクセルを踏んで車を出したマルシオは、車窓から流れ込む風に短い黒髪を揺らすナナカに問う。同志が増える事はありがたい事ではあるが、わざわざ地球の裏側の日本から、このバティスタまでやって来る理由がマルシオには理解できなかった。メディアが規制され、報道管制の敷かれているこのバティスタにおいても、国外の紛争に関しては少なくない数の情報が入ってきている。その中にはチベットや、東南アジアなど、このカリブ海に浮かぶ島国よりずっと近い場所の武力紛争や独立闘争がごまんとあった。


「それは」


 ナナカは口籠る。それもその筈で、ナナカはこのバティスタにやってきた理由などは大した物では無かった。国内での居場所を無くし、ネット上で探した独立闘争や革命闘争、そのうちで手頃に渡航でき、思想的にも自分と差が無く、そしてある程度生活基盤の整っている場所。それがバティスタ共和国だったのだ。ナナカがどうしてハバナでの活動を選んだのかというのも、都市でならば日本までとは言わずとも快適な生活の傍らで活動できるからであった。そう、ナナカには東南アジアのジャングルやチベットや中東の過酷な環境で戦う覚悟が無かったのだ。九死に一生の経験をした今となっては覚悟は決まっているが、マルシオの問いに今更になってかつての不覚悟を自覚したナナカが、それを馬鹿正直に問いの答えとする訳にはいかなかった。


「いや…言いたくないなら良いさ、誰にだってやむを得ない理由ってのがあるもんだからな。ハバナのお前の仲間が、何か理由があったんだろうと思っておくさ」


「………」


「おっと」


 押し黙ったナナカを余所に一人納得したマルシオは車を止める。その行く手には広い国道があり、普段の道であれば車通りは多い方では無いが、今日はどうした訳か交通量は多く車の流れは緩慢で渋滞気味であった。目的地である副知事の邸宅は国道に面しており、そこへ向かうには当然この広い国道を通るしかない。

 僅かばかり流れが途切れた隙を見計らって国道へと合流し、暫し緩やかな流れの中車を走らせていたが、やがてその流れは停止してしまう。片側二車線の道の脇は田畑が広がっており、そこを抜けて行く訳にもいかなかった。先を急ぐマルシオは忌々しそうに舌打ちするが、この状況ではどうにもならない。


「この国で渋滞なんてな、何があった」


「事故?」


「わからんが、様子を見て来る」


 ナナカを車に残し、マルシオは車を降りて渋滞車列の先を目指すが、想像していたよりはるかに車列は長く、途中で先頭を目指すのは諦める。代わりに近くの車両の運転手に話を聞くことにした。

 地元の人間と思しきピックアップトラックの窓をノックし、顔を出す農夫ににこやかに挨拶をすれば、少しばかりの雑談を交えた後にこの渋滞について切り出した。


「この渋滞はなんだい、急用なんだけどな」


「まいったよ、この先で余所者グリンゴが検問してるらしい、警察でもないのにな。ゲリラが活動してるからって言うんだ。まったく、迷惑極まりないよ」


 農夫の言う「迷惑」がどちらを指しているかをマルシオは敢えて聞き出さなかったが、なんにせよ渋滞の原因は分かった。少々マズい状況であるが、この道を行かなければ目的は達せない。持っている拳銃程度隠す事は造作も無い、しかし顔がバレている場合は…マルシオは思考を巡らすが、考えていても仕方がない。


 車に戻ったマルシオは持っていた拳銃を二重底のグローブボックスに隠し、ナナカの拳銃も同様にしまいこんだ。X線検査機などを用いて調査された場合には些か不足する隠し方だが、車列の流れを見るにそこまで本格的な検査はしていないと判断しての事だった。


「何だったの」


「検問だ。それもあのグリンゴ共のだ」


「マズいよ」


「多少賭けではある。だが行かなきゃならないだろう」


 顔が割れている可能性もあるナナカは今すぐにでも引き返せと言いたかったが、ミレイラとエルナンドの復讐に燃えるマルシオの気迫に押されて言い出す事が出来なかった。そもそも、マルシオが復讐に燃える切っ掛けとなる情報を渡したのはナナカ自身であり、この状況に至る責任の一端を担っていた為、その負い目もあっての事であった。


「…わかった、でも何かあったら」


「直ぐに離脱する。俺だってそこまでリスク計算してない訳じゃないぞ」


 そうして二人ははやる気持ちを抑えつつ、シートに身を沈めて渋滞の流れに身を任せるのだった。





 幾重にも重なる生い茂る木々が降り注ぐ陽光を遮り、漏れた僅かな光が地上を転々と照らし出す。日陰の中を身を屈めた二つの影が足元にセンサーが付いてるかのように小枝や枯葉を避け、まるで爬虫類の様な静かな足取りで移動している。足音はくぐもって不鮮明、地面の足跡もはっきりしていない。二つの影は凡そ5メートルの間隔を取って移動し、時折進行方向と逆方向に引き返し、釣り針上の経路を辿って待機、追跡者がいないか警戒してから再び進んだ。通常であれば待ち伏せや監視の目を逃れ、一度の攻撃でやられてしまわないように最低でも10メートルの間隔を空けるのが好ましいが、木々が生い茂り視界が阻害されるジャングルでは5メートルまでが限度であった。

 二つの影は身体に樹木を模した布などを巻き付け、動きを阻害しない最低限度ではあるが十二分に考慮された偽装は効果的に迷彩効果を発揮して、頭頂からつま先まで人間としてのシルエットはまるで読み取れない。僅かに露出した目元も、瞼に至るまで黒や緑のドーランで迷彩が施されており、周囲を観察する為に左右上下に動くその瞳だけが唯一人間の物であると判別する材料であった。


 先頭を行くヨハンナは深緑と橙の瞳を巡らせ、緑が支配する環境を注意深く観察する。此処は既に地元のゲリラ達のテリトリーで、此処まで侵入したヨハンナ達はアウグストの用意した身分は使えない。前方警戒ポイントマンを務めるヨハンナは、その聴力と長年の経験から来る勘を活かし、少しの違和感も見逃さなかった。

 無言のまま拳を挙げて後方のサキに合図したヨハンナはその場で屈み、サキもそれに倣う。初めての土地である以上警戒するに越した事は無く、こうして停止しても何事も無いのが殆どだが、既にゲリラが仕掛けたブービートラップを三つは避けていた。

 暫しの待機の後、前進を再開するヨハンナは無言のままに方向を手で示した。ジャングルに限らず敵地に無音侵入する際には音を出さないのが鉄則である。無駄口に限らず、不必要な装備の点検や荷物の開閉もご法度、装備が擦れる事で発生する騒音も極限まで削る為、ヨハンナ達は銃器・装具の金属やプラスチック部品にはテープを巻いて防音処置を施していた。


 しかし二人は本当に「無言」で行動をしている訳では無かった。ヨハンナとサキは耳の裏に小型のデバイスを仕込んでおり、脳波を探知し思考を言語に変換、ペアリングした無線機を介しての通信が可能なそれを用いる事で、二人は言葉を発する事なく意思疎通が可能であったのだ。

 一見すれば非常に便利なデバイスであるがデメリットも存在し、思考をそのまま言語に変換するという特性上、無駄な思考や僅かな言葉のノイズもそのまま言語化される為、一切の淀みなく思考しなければ意味の通った通信は不可能であるのだ。それ故に高ストレス環境下ではまともな通信が不能で、開発当初は脳波探知を切断するスイッチ等も無かった為パニックを誘発する思考がオープンチャンネルで垂れ流され、結果として部隊士気の崩壊が頻発、瞬く間に使用が中止された曰く付きの品である。戦後に多少の改良が施されて思考が垂れ流しにされる事は防がれたが、扱いにくい事は変わらず特殊部隊など一部の部隊を除いて現在では殆ど使用されていない技術の一つである。結局の所、人間は言葉を口から発しての意思疎通が一番使い勝手が良いのである。


くそったれブラッディ・ヘル


 ヨハンナは再び停止を指示しながら無言で悪態をつく。それを聞くのはサキだけであり、通信の切り替えを忘れていたヨハンナの悪態に、サキは余程悪い事が起こったのだろうと勘繰る。


『どうしたの』


『畜生、最悪だ。進行ルートが雨で沼になってやがる』


 サキはヨハンナの下へと向かい、眼前に広がる沼を見下ろした。数日前の大雨は、普段であれば通行可能な僅かな低地を沼へと変貌させてしまっていた。地形データ上は沼として登録されておらず、この地点が沼へと変貌してしまうのはヨハンナの想定外であった。

 当然ながら水場を漕いでいくのは避けるべきだが、このルートの左右には此処より深い通年を通した池と川が存在し、迂回するにしてもかなりの時間を要してしまう。食料や水は数日間活動可能なように余分に持ってきてはいるが、敵のテリトリーであるこのジャングルを無暗に動き回るのは得策ではない。先述のブービートラップに加え、道中でゲリラの哨戒行動の痕跡を複数発見しており、その内の一つは直近の物であった。

 ヨハンナは送信スイッチを切って少しだけ考え、手頃な木の枝を拾って沼の深さを確かめる。腰まで達するようであれば諦めて迂回するつもりであったが、想像に反して水位は膝よりやや低い程度の物で沼底も軟弱では無く、距離も凡そ100メートル程度。通行に支障は無いと判断したヨハンナはサキに合図し、このまま前進する事を決定した。

 先程よりも遥かに注意深く周囲に気を張りながら、ヨハンナ達は沼に浸かって前進を再開する。温暖な気候ながら雨水で出来た沼の水は想定よりも冷たく、沁み込み肌に張り付く布が脚の体温を奪っていく不快感にヨハンナは顔を顰めた。慣れてない訳では無い、泥水に腰まで浸かる事もあれば寄生虫まみれの川を泳いだ事もあるが、水の中を漕いでズブ濡れになる事に不快感を感じない訳では無いのだ。


 元々は陸であるこの沼は他の水場と違って木々が生い茂っており、本物の沼を横断するよりは視界が遮られて発見される恐れは低い。だが、それは捕食者にとっても同様で、ヨハンナは接近する脅威に気付くのに遅れてしまった。

 沼の中央に達した時、ヨハンナは自身の判断の甘さを恥じると同時に、思わず舌打ちを一つする。脚を止め、周囲を見回せば木の影に隠れるよう水面に漂う一対の瞳。水面から僅かに顔を覗かせる、ゴツゴツとした表皮と鱗が特徴的なそれは、ヨハンナが昨日注意しろと警告を発したキューバワニであった。それも一匹や二匹では無く、ヨハンナとサキは沼の中心で群れに包囲されていたのだ。このワニの群れは大雨による増水で普段は生息していない筈のこの沼に流れ込み、ノコノコと侵入してきた獲物を見事に包囲していたのだった。

 ヨハンナはゆっくりと銃の安全装置を解除し、水面から顔を覗かせる脅威に対して銃口を向ける。正確な数は把握できておらず、勝算は低い。たとえ切り抜けられたとしても、間違いなく負傷は免れ得ないだろう。それも致命傷になりかねない負傷をである。キューバワニは非常に獰猛で好戦的であり、既に襲われていてもおかしくは無いが、そちらから手を出さぬというならば此方からやってやろう。ヨハンナが引き金を指に掛けたその時―――


「おい、お前たち、そいつは食い物じゃない」


 唐突に投げ掛けられる男の声、そしてそれを受けたワニ達は一斉にヨハンナとサキから離れていく。ヨハンナとサキが声の方向に視線を向ければ、沼の中い出来た中州に二人の男女が立っていた。

 周囲に気は張って居た筈だが、声を掛けられるまでまるで気が付かなかった。当然、正体不明の二人が立っている方向に目を向けていなかった訳では無く、まして中州まで達するには水の中を漕いで行かねばならない為、必ず資格・聴覚的に察知できるはずだった。ヨハンナは自身の並外れた聴力をもってしても察知できなかったことに冷や汗を一筋垂らす。ワニの群れが離れた事で窮地を脱しはしたが、この男女がゲリラの仲間でないという確証は現時点では無いのだ。


「岸に上がっていいか」


 ヨハンナはその男女に声をかけると、彼らは無言のまま手で岸の方向を示す。言葉が通じるならばよし、此処で射殺されるかワニの餌にならぬならばまだ希望はある。

 非武装で、随分と伸びて草臥れたタンクトップにハーフパンツ姿のその男女は、見ればラテン系らしからぬ白い肌をしていて、太く長い尻尾に加え表皮にはワニの物と思しき鱗が所々に確認できる。

 彼らは正鰐類の亜人種であった。古くからこの地に住み、自然の中で暮らしてきた彼ら一族はワニ達同様に水の中を音も無く移動する術に長け、そして野生の同胞達とある種の言葉――本当に喋る訳では無いが――を交わす事が出来たのだ。ワニ達が離れたのは彼らが自然界での繋がりを持つ同胞であるからだった。

 やや早足気味に沼を漕いで進むヨハンナ達に続いてその男女も沼の中を行くが、驚いた事に彼等は波も音も立てずに、かつスムーズに沼の中を進んでいく。一日そこらで習得出来る芸当では無い、彼らがこの沼地で活動するエキスパートである事をヨハンナは理解すると同時に、例え正鰐類、つまりワニの仲間の亜人種であっても姿形は同じ人型、であるのにこうも動きが違う物なのかと感嘆した。


 無事に岸にたどり着いたヨハンナとサキは周囲に目を走らせ敵影がない事を確かめると、サキに岸にたどり着いていた男女の方に視線を移す。こちらを観察するように見るその二人からは敵意は感じ取れず、むしろ珍獣でも見るかのような好奇の眼差しが向けられていた。


「あんた等は何者だい、ゲリラには見えないがな」


 ヨハンナの言葉に亜人種の男女は顔を見合わせ、何事かを小声で話す。その会話はヨハンナの耳には届いていたが、彼らの話す古いスペイン語の発音は訛りが酷く殆ど聞き取る事が出来なかった。


「俺達ゲリラじゃない。お前たちこそなんだ。変な格好して、不用心に沼に浸かって。土地の者じゃないな。観光客でも無い。でもゲリラじゃないな。不気味な奴だ」


「なぜゲリラじゃないと分かる」


「ゲリラ達、街に出る時以外殆ど風呂入らない。此処に住み着いてる連中はいつも臭い。だからわかる。銃を持っているがお前達は臭くない。匂いがしない。そんな恰好もしない。だから違う。何者だ?」


「強いて挙げるなら、そうだな、狩人といった所か。ゲリラ狩りだよ」


 発音を聞き取るのに四苦八苦しながらヨハンナは何とか自分達は敵じゃないとだけ伝える。果たして正しく伝わっているかどうか彼らの反応を見るが、呆けているともしかめっ面ともつかないその表情からは彼らの心の内を読み取る事は出来ない。二人の男女は見た目からするとまだ二十代前半だが、その言葉を紡ぐ速度の緩慢さたるや耄碌した年寄りを相手しているかのようだった。


「ゲリラ狩り!それは良い、それは良いな!」


 男の方が明るい笑みを浮かべると、女の方の肩を叩きながらヨハンナ達に笑いかける。掴みは上々、少なくともこの場で撃ち合いや取っ組み合いに発展する恐れが無くなった事にヨハンナは安堵し、サキは逆手に持って腕の裏に隠していたナイフを鞘に収めた。

 聞けば彼らはスペイン統治時代より古くからこの土地に住み、為政者が変わる度にその影響を受け続けて来たと言う。特に顕著だったのはキューバ革命以降、亜人種などの排斥が行われた時代で、かつてはこのシエナガ・デ・サパタのジャングルだけでなく、外にも村があったが革命政府に土地を追われ、この密林と沼地で細々と暮らす事を余儀なくされていたという。

 そして現在の政権になり亜人種の排斥も終わりを告げたかと思えば、共産主義政権の残党であるゲリラ達がこのジャングルに潜伏し始め、彼ら先住民族を追い出しに掛かっていたと言うのだ。それ故に彼等もゲリラに対しては良い顔をしないどころか、寧ろ生活を脅かす敵とすら言える存在であった。


「今の政府、森も同胞も守ってくれる。生活助けてくれる。でもゲリラ連中、俺達の生活壊す。同胞達を取って食う。いい機会だ、奴らを狩るなら、俺達にも手伝わせろ」


「手伝うったって、武器は有るのか」


「当然だ、無かったらとっくの昔に俺たち死んでるだろ。地図あるか」


 亜人種の男は青味がかった長い黒髪をかき上げヨハンナに地図と筆記具を出すように促す。男はゴヨ、女はアデラと名乗り軽く互いの自己紹介を済ませると、差し出された地図とペンを受け取ってすぐさまペンを走らせた。


「ここが今いる場所、それで、此処で落ち合おう。武器を持って来る。それとお前達、何処を歩くか知らないが、この道通った方が安全だ」


 ゴヨは現在地点に印をつけ、そこから暫く北東へと向かった地点にも印をつける。そしてその二点を結ぶように線を引き、所々にゲリラの仕掛けた罠や地雷原、哨戒網なども事細かに記していった。そのいくつかはヨハンナ達が進もうとしていたルート上に重なっており、ゴヨが示したルートはそれらの罠やパトロールを避けられる道であった。決して最速では無いが、罠にはまった利敵との接触を避けられるのであれば、これが最善のルートである。


「どうしてここまで協力する」


 ヨハンナはゴヨに問う。協力の申し出はありがたい限りだが、此処まで親切にされると余りにも話が出来過ぎていると疑ってしまう。人の好意を無下にするのは褒められたことでは無いが、無思慮に好意に乗っかり寝首を掻かれた先例は枚挙に暇がない。ヨハンナは駆け出しの頃にクライアントや協力者の厚意に甘えた結果、謀られて手酷く痛め付けられた経験がある。それから十年以上この傭兵稼業を続けるにあたり、その苦い経験からこういった状況で警戒を緩める事は無かった。


「言ったろう、ゲリラは俺達の敵。戦うなら、頭数は多い方が良い」


「仲間は居ないのか」


「居る。でも自分から戦いに行かない。やる気あるの、俺とアデラだけ」


「村にあと二人いる、でもその二人腹を下してる。使い物にならない」


 アデラの補足にゴヨはケタケタと笑い、「食い意地が張ってるからそうなる」と返す。なんにせよ彼等亜人種の現地民には自分達を誑かすつもりはないとヨハンナは結論付けた。もし彼らに此方を殺害する意図が有るのであれば沼の中でワニの餌にした方が手っ取り早く、捕虜にするでもあの数のワニならば腕や脚を手酷く痛めつけ、抵抗能力を奪ってから岸に引き上げる事だって可能だからだ。

 そう考えると協力者を得られたから良い物の、逆に窮地に立っていたどころか一巻の終わりという状況に陥っていた恐れもあった事に、ヨハンナは自己の判断の甘さを再び反省した。急がば回れという言葉も東洋のことわざに合ったのを今更に思い出し、今後の教訓として胸に刻み込むことにした。


「それじゃあ、後で。俺が記した道、結構険しい。焦らず来い」


「すっ転んで脚を挫かないよう祈っとけよ」


 踵を返して去って行くゴヨとアデラは、ヨハンナ達の様に細工を施した靴では無く只のサンダルだが、ヨハンナ達より遥かに足音は静かで、残された足跡もそれと判別できる物では無かった。真のジャングルのエキスパートはこうであるべきだ。散々試行錯誤して準備を重ねていたが、それをこうも簡単に上回る技量を見せつけられると、見送るヨハンナは溜息を漏らさずにはいられなかった。


「中々愉快なことになったね」


「なぁにが愉快だ。危うく死にかけた」


「判断ミスだね、珍しい。とにかく今後は水場に近づかないのが吉だね」


「とにかく、連中の指定する合流地点まで移動。そこで休憩と食事だ」


 ヨハンナは耳の裏を指で叩き、通信の切り替えを合図し先頭を切って歩き始める。木々が生い茂り、青々とした葉が何層も重なり合い陽光を遮り、ジャングルは相変わらず薄暗い。聞こえる音は鳥や虫の声、この葉や枝が擦れる音だけ。ヨハンナ達の僅かな足音も、数メートル離れれば十分それらの音にかき消される。

 水分を含み腐敗した落ち葉と泥、そして鬱蒼とした樹木の瑞々しい香り。それらがヨハンナの鉄と硝煙の匂いに慣れた鼻を優しく癒す。こんな草臥れた無粋な服では無く、ゆったりとした楽な服装で森林浴を楽しめたならば。後ろにいるサキと共に静かなひと時を過ごせたならば。そう心の隅で思いつつも、ヨハンナはサキを伴い一歩、また一歩と合流地点へ向けて進んでいくのだった―――

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