第4話 樹氷が宿る桜の樹

 辿り着いたのは、この世界で一番大きくて古いという桜の樹の前だった。

 太い幹、四方八方に広がるしなやかな枝、そして満開の花弁。確かに周りの木々よりも明らかに迫力と存在感が違う。


「昨日、露草つゆくさを見つけたのもこの辺りでしたね」


 夕凪ゆうなぎが思い出したようにポツリと呟くのを聞きながら、露草はただただその大樹を見上げていた。


「この桜の樹……」


 何となく、この世界に来る前に元いた世界で見ていた桜の木を思い出していた。


「――いるな、樹氷じゅひょうは」

「は?」


 見ると、こがらしが桜の幹に手をついていた。先程までの楽観的な様子を微塵も感じさせない真面目な顔をしている。

(急に変わるな……)

 こういうところもどこか兄に似ている、と密かに思いながら、露草は彼に訊いた。


「分かるのか?」

「――まあね」


 凩はそれだけ答え、すっと目を閉じた。

 露草が小首を傾げつつ矩と夕凪を見遣ると、彼女たちも黙って凩を見つめ成り行きを見守っていた。

 露草はもう一度桜の樹を見上げると、凩のようにそっとその幹に手を触れた。掌に樹皮のボコボコとした凹凸が伝わってくる。そして、どこか温かく、この桜の大きさと強さを実感する何かを感じた。

 目を閉じて、彼に向かって語りかけてみる。


『樹氷――』

『樹氷、いるんだろう』


(え?)

 自分以外にも訊ねる声が心の中に響いてきて驚く。この声は――凩?


『出て来いよ、樹氷』


 凩がもう一度友人を呼ぶ。

 暫くして、


『――ああ。凩は俺に喋りかけることができるのか……』


 心の中に、聞いたことのある樹氷の声が響いて来た。やはり彼はこの桜の樹にいたのだ。

だがその彼の声にはどこか落胆したような、苦悶に満ちた響きが混じっていた。


『お前、久しぶりの友人にその言い草はないだろ。兄妹揃ってオレの扱いが酷い』


 唇を尖らせて文句を言う凩をおいて、露草は疑問を投げかけた。


『何で凩がオレと樹氷の会話に入れるんだ? もしかして矩たちとも話すことができるのか?』


 樹氷が小さく溜め息を吐いた気配がした。


『凩は魔力を使って、動植物と話すことができる特別な能力が使えるんだ』


 何だそれは。露草の中で凩という人物がまたよく分からない存在となる。

(ていうか凩も魔力を持ってるのか……)

 また一人身近にそういうものが現れて、本当に魔力を持つ者というのは稀な存在なのだろうかと疑問に思う。


『そーそー。だから、今オレはこの桜の樹と話してるってことになるのかな。この桜には樹氷がいて、結果オレは樹氷と会話ができている、みたいな』


 そんな無茶苦茶な方法があったのか。露草は凄いと言って良いのか呆れるべきなのか迷った。


かねと夕凪もいるんだな……』


 樹氷が呟いた言葉に、凩が溜め息を吐いた。


『オレなんかより、あの二人の方がずっとお前に会いたがってたけどな。なあ、露草?』

『うん……』


 今も、彼女たちはきっとそれを望んでいる。まだわずかしかここで生活していない露草にも、その気持ちは痛い程伝わって来ていた。

 何とかして彼女たちに樹氷と話をさせてあげることはできないだろうか。


『ていうか、単純に露草と樹氷が入れ替わるのは無理なわけ?』


 凩の言葉に露草ははっとした。


『そうだ。樹氷は桜の樹に乗り移れるくらいなんだから、一時的にオレの体に乗り移って……』


 樹氷は暫し黙り込み、何かを考えているようだった。そして、


『無理だ。それに俺からあいつらに話すことはない』

『何で! それは方法として無理ってこと?』


 反論した露草に、樹氷は落ち着いた声で続けた。


『方法としては不可能じゃない。もし露草に危険が迫って、俺がその方法を取らざるを得なくなった時はそうする』

『じゃああいつらに話すことはないってのはどういうこと?』

『そのままの意味だ。今のあいつらに話すことはない』

『なっ……でもあの二人にはあるに決まってるだろ!』


 きっと、いっぱいあるはずだ。樹氷が姿を消してから、ずっと溜め込んできた思いがたくさん――文句も、愚痴も、心配も。

 少し間を置いてから、樹氷がゆっくりと言った。


『――そうだな。あいつらにはあるだろうな。きっと俺は散々怒られるに違いない』


 当たり前だ。黙って怒られろ、と思う。――その時は露草も一緒に怒られても良い。


『でも、あいつらにはそれぞれ向き合わなくちゃならないものがある。お前がここに来たことで、この先あいつらは確実に変わっていくだろう』

『樹氷、何言って……』


 露草には、樹氷が一体何の話をしているのか理解できなかった。


『良いか、露草。お前は俺の体の元を得て存在しているとはいえ、お前以外の何者でもない。仮に今、俺がお前に乗り移ってあの二人の前に出てみろ。あいつらは本当に露草に俺を重ねてしまうぞ』


 それは、矩たちのことを想うと同時に、これからここで生活していくことになる露草のことも案じてのものだと分かった。


『樹氷……』

『言っただろ、あいつらのことはお前に頼むと』


 あれはそういう意味だったのか。露草が返す言葉を探すように押し黙っていると、


『キャー、樹氷ってば優しいー』


 場違いな程明るい野次が飛んだ。言うまでもなく彼である。


『……凩。お前、本当に相変わらずだな……』


 樹氷が心底呆れた声で返す。額に手をあてて項垂れる様子が目に浮かぶようだ。


『はっ、オレがそうやすやすと変わるわけねーだろ。まあ、折角この世界に来てくれたかわいい露草ちゃんのためなら少しくらい真面目に変わってあげても良いけどね?』

『……誰が露草ちゃんだ』


 そしていつの間にか露草も巻き込まれている。凩はなぜか愉快そうに笑っていた。

 樹氷が同情するような声で露草に言う。


『はあ……露草も大変だな。これからこいつに振り回されるぞ』


 その声には実感がこもっていて、恐らくかつての樹氷も彼に振り回されていたのだろうなと容易に想像できた。


『樹氷が助けてくれるのを期待してるよ』

『悪いがそれは自力で頑張ってくれ』


 そんな馬鹿な。樹氷は露草を守ると言ってくれたのに、対凩は範囲外だとでも言うのだろうか。


『ちょっと、樹氷も酷いなあ。言っとくけど、樹氷より露草の方が数倍面白いからな。おまけに美少女だし!』

『美少女言うな』

『気持ちは分からなくもない』

『樹氷まで!』


 いや、一体何の話をしているんだか。凩のせいでだんだん脱線していっている。

(……疲れるな)

 そんな露草を察したのだろう樹氷が苦笑を漏らした。


『そろそろ露草が疲れてくる頃だな。――露草、俺は余程のことがない限りここにいる。また来い』

『あ、うん……』


 しかしここに来るまでにはまた魔獣と遭遇するかもしれない。夕凪に一緒について来てもらうか、それとも彼のように仕留められるように頑張るしかない。


『ねえ樹氷、オレはー?』

『お前は別に来なくてもいい。良いか、絶対に暇つぶしなんかで来るんじゃないぞ』


 凩を一刀両断する樹氷は清々しいが、凩にはきっと効果がないのだろうなと思う。

(でも何だかんだで良いコンビだけど)

 この短い時間でそう思えるくらいには、彼らの間に遠慮という文字は一切なかった。


『樹氷。本当にあの二人に伝えることはないの?』


 最後にもう一度尋ねてみる。彼が直接あの二人と話すつもりがないのは分かったが、それでも露草を通して伝えられる言葉はないのだろうか。


『――そうだな。なら矩に、昔のことは忘れて前だけを見ろと伝えてくれ』

『夕凪には?』

『あいつには……』


 樹氷は束の間黙り込み、小さく笑んだ気配がした。


『いや、夕凪はお前が支えてやってくれ』

『は?』


 むしろ支えられているのは露草の方だと思うのだが。

 露草が理解できずにいるうちに、樹氷は話を切り上げた。


『じゃあ、また。――凩、あんまり露草を困らせるなよ』


 最後に凩に釘を刺すのを忘れない。凩は『はいはーい』と軽い返事だ。

 そして、それきり樹氷の声は聞こえなくなった。



***

 凩が樹の幹に触れて動かなくなると、続いて露草も彼と同じ様にして静かになった。


「凩? 露草?」


 二人は何をしているのだろう。彼らに近付こうとした矩に、


「樹氷と話してるんじゃないですか」


 同じく二人を見ていた夕凪が言った。

 ――そうかもしれない。いや、絶対そうだろうという確信があった。


「あたしたちも同じようにしたら兄ちゃんと話せるかな?」

「残念ですが無理でしょうね。凩は……元々植物と話せるという特別な能力がありますから」

「……だよな」


 疾うに分かっていたことだが、夕凪の言葉でそれを実感して溜め息を吐きたくなった。今ばかりは凩のことが羨ましくて仕方ない。

 折角この桜に兄がいると分かったのに、矩には会うことも話すことも叶わない。そしてそれは夕凪もまた同じだった。


「露草が兄ちゃんの体を借りているなら、兄ちゃんが出て来ることも可能そうなのにな」

「……樹氷がそうしないのは、私たちと話すことはないと考えているのかもしれませんね」


 夕凪は淡々と話しているが、その顔にいつもの穏やかな笑みはない。

(話すことはない、か……)


「あたしたちはいっぱいあるのにな」

「そうですね」


 兄がいなくなってどれだけ心配したか。死んだと告げられてどんな思いを抱いたか。それから毎晩毎晩どれだけ悪夢に魘されたか。

(兄ちゃんは分かってない)

 残された矩と夕凪の気持ちを。

 矩は桜の樹の前に立つ黒髪の少年を見つめた。風でそよいだ髪はサラサラで、横顔は綺麗に整っている。


「なあ夕凪。お前は露草と兄ちゃんを重ねてしまうか?」


 夕凪は少し考えこみ、ゆっくり口を開いた。


「初めは少し重ねてしまっていたかもしれません。でも今は……露草は露草にしか見えませんよ。矩は重ねているんですか?」

「……どうだろう。分からないんだ」


 露草の黒髪に降り積もる薄く色づいた花弁を見ながら考える。


「あたしは刃璃様に『露草を連れて帰る』と言った。その時はその言葉に嘘なんかないと思ってたけど、本当にそうだったのかな」


 もしかして、心のどこかではやはり彼と兄を重ねていたのではないだろうか。

(見かけは黒髪くらいしか似てないし性格も違うのに、何だろうな。雰囲気が似てるのか……)

 自信なげな矩の独白に、夕凪はやっとふわりと微笑んだ。


「別に良いんじゃないですか。樹氷と重ねても」

「え?」

「事実、樹氷の体の元を露草が借りているのですし」


 それはそうなのだが。それでは本来の露草を見ていないと言っているようで心苦しい。


「大丈夫ですよ」


 なぜか夕凪はきっぱりと言い切った。


「露草は樹氷と全然違うところがたくさんありますからね。矩もすぐに重ねられなくなりますよ」


 それは、夕凪はもうすでに重ねられないようになるくらいには兄と露草の違いを見つけ、兄とは別の人間として見ているということだ。


「露草ともっと話してみたら良いですよ」

「――そうだな」


 矩は頭上に広がる満開の桜に目を細めた。全く、嫌になるくらい綺麗に咲き誇っていた。

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