第2話 拘置所

 老僧は、東京拘置所の教誨師であり、名を鈴木と言った。今日は、宗教教誨の面接のため上京していた。以前は、教誨師と名乗っても、どんな職業なのか、すぐに分かる人は殆どいなかった。それが、今では、結構知られるようになったと感じている。

 教誨師の本質を一言で表せばと問われたとき、鈴木は、死刑囚と対話する宗教者と答えていた。それでは、死刑囚は、何を話したいのか。彼らは、可能であれば死の恐怖と対峙しないことを望んでおり、話し合うことで一瞬でも恐怖を忘れたい、できれば恐怖を共にしてほしいと渇望しているのだ。

 その意味で、現行の死刑制度は、所期の目的の半分は、達していると言ってよいだろう。

 死刑囚が、自分の死刑執行が、今日か明日かと不安におののき、一日が終わる。一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎる。そんなある日、何か拘置所の雰囲気がおかしいことに気がつく。集団の足音が近づくにつれ、死刑囚の鼓動は高まり、爆発しそうになるが、その足音が別な房で止まったことを彼の五感は逃さない。緊張が一瞬にして切れ、へなへなと床に座り込む。

 ああ、誰かの死刑が執行されるのだなと気づく。自分でなくて良かったとは思いつつも、明日、自分にその番が回ってこないとは誰が言えよう。

 他人に死を強いながら己の死に苦しむのは理不尽だが、己の死に直面させる事で、他人を死に追いやった行為の意味を考えさせるという目的が達せられつつあるのか、それを確認できるのは、日頃から宗教的対話を行ってきた教誨師以外には、いないだろう。

 不幸な人生を送ってきたからという理由で、どうせ自分は、死刑になってもいいと逃げ場のない電車の中で刃物を振り回し、ガソリンをまいて火を付ける事件が何件か立て続けに起こったが、その死刑囚の全員が、己の行為を見つめ直しているわけではない。

 むしろ、このようにして死にまで追いやられた自分の不運を嘆き、「人生は親ガチャだから」と真顔で言う死刑囚とは、一見会話が可能なようだが、本質的に理解不能な言語を互いに発しているだけではないのかと鈴木は考えている。

 しかし、「親ガチャ」という言葉に秘められた哀しさを、どう受け止めればよいのか。鈴木は、初めに、その言葉を聞いたとき、その意味とその奥に潜む絶望感を共有することが、果たしてできるのだろうかとの思いを抱かされた。

 思えば、現在の苦しみから救われ、来世で救われたいと願う死刑囚が、少なくなり、来世などはありもしない、信じもしないが、まさに、今ここにある、この苦しみから抜け出したいと話す死刑囚が増えている。

 生半可な来世否定論を論ずる者には、無意味という無限地獄が待ち構えているのだが、それに耐えるほどの自我を持つものなど、殆どいない。結果として、従容として死を受容することができず、醜い死をさらけ出すことになる。

 だが、神の死んだ世界に生きていると断言できるほど、己に確信のある宗教者がどれほどいるだろうか。

 そもそも教誨師という制度が、どうしてできたのかと言えば、明治になって西欧の死刑制度を参考としたと言われている。彼の地では、死刑囚に対し神父が、刑の執行直前まで、話し相手となるという話を御雇外国人から仕入れたようだ。

 しかし、死刑囚と対話する覚悟が、日本の宗教者にあったのだろうかと鈴木は考えるときがある。日本の坊主ときたら、親鸞聖人や一遍上人は別として、葬式だけを行って、肝腎の生死の問題に取り組まなかった。本来なら、そのような悩みにこそ対応すべきであるはずなのが、全くできていなかった。

 今、教誨師をつとめているのは、坊主と神父が大部分だ。それも、自分から進んで志願した者は少なく、前任者からの依頼で引き受け、いつの間にか、この仕事にのめり込んだという者が大半だ。

 教誨師に志願する者が少ないということは、死刑になる人間の苦しみを受け止めることが難しいということでもある。心理カウンセラーという職業が、注目されているようだが、彼らも魂の問題にまでは、踏み込もうとはしない。

 鈴木も、そうだが、何年もやってはいるものの、拘置所に行く前日は気が重い。初めての場合は、事前にその死刑囚の身上書を読んでおくが、読み終えると胃の腑が重くなる。そして、人間は、簡単には、人を殺さないのだということが分かる。その人間が、どのようにして、殺人を犯すに至ったのか、人様々で共通点などを見いだすことはできない。

 死刑囚と教誨師の出会いは、死刑囚に対する教誨の希望確認から始まる。それに応じて、宗教者との対話の時間が設けられる。あくまで希望によるもので、本人が望まなければ、誰もケアはしない。

 死刑とはむごい刑罰だ。世界的には、死刑廃止の機運が高まっているようだが、死刑制度の存続は、国民感情に大きく依存している。懲罰としての刑ではなく、教育としての刑を導入すべきだという議論は、かなり昔からあった。

 確かに、その主張するところには、耳を傾けざるをえないものがあるが、鈴木は、人間とはそんな高級なものではないと考えている。いくら、偉そうなことを言っても、いざ身内の人間が殺されたときに、その加害者に厳刑を課したいと願うのは人の常だ。

 そうしないと断言できるのは、おそらく、仏陀やイエスだけではないかと鈴木は思っている。

「あなたの愛する人が、殺された時、その犯罪者の死刑に反対することができるのか」

 というのが、鈴木の根源的な問いである。アムネスティなどの死刑反対論を読んでみても、真面目に考察しているとはとうてい思えない。

 愛する者を殺害された人間が報復する行為は、国家に委任しても、その感情まで捨てたわけではないという日本人が多いのではなかろうか。あるいは、「名誉ある死としての切腹」=死刑という考え方が、民族感情の底流として流れているとも思われる。

 死刑囚の中には、己の罪を反省し、死刑という刑罰を甘受する者も極く少数ではあるが、存在する。が、大部分は、自らが犯した犯罪に思い至ることなく、死刑を免れないかということを、最後の最後まで考えているのだ。

 この絶対的な強制性の実行を人間が担ってよいのかという疑問はある。それに答えを出せるのは、神か仏か、いずれにしろ人ではないだろうと鈴木は、常々考えていた。

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