ロールプレイング

立談百景

ロールプレイング

 人は死ぬことがある。だから兄は死んだ。

 棺の中の兄は、見たこともないほど白い肌をしていた。

「君はお兄さんが死んだのに、どうして平気そうにしていられるの?」

 そんなことを言うのは兄の恋人の菜穂さんだったが、俺はこの人が苦手だった。思ったことは口に出すタイプで、そりが合わないと常々感じていた。

 兄が死んだことでこの人との関係もなくなると思えば、それは良いことだろう。

「実感が湧かないだけですよ」と俺はいう。

 通夜の終わった葬儀場で、がらんとして嫌に広い空間に、兄と俺と菜穂さんだけがいる。

 真夏の暑い夜だ。

 葬儀場の夜は俺が預かることになっており、両親は一度家に帰っていた。しかしなぜか、菜穂さんもここに残っている。

「菜穂さんも一度帰った方がいいんじゃないですか? 寝ずの番は俺がしますから」

「……二人の方が、君も楽でしょ」

 楽なもんか、と出かかって止める。大して好きでもない相手と一晩中過ごすことになるなんて、本当にごめんだった。

 それに……それに兄と二人きりになる最後の時間を、邪魔されたくなかったのだ。

 花と香の匂いが沈黙を濁す。

 俺が露骨に嫌そうにしていたのが分かったのだろう、菜穂さんは小さく溜息をついた。

「わかった。……わかった。じゃあ君が晩ご飯を食べて、帰ってくるまではここにいる。それでどう?」

「…………そう、ですね」

 言われて、なるほどこの人は俺と同じなのだと思った。

 菜穂さんも、兄と最後に二人きりになる時間が欲しかったのだ。

 彼女のことは大して好きでもないが、兄が好きだと言っていた人を無碍にすることもできなかった。

「じゃあ食事だけ。この辺で開いてるファミレスは少し遠いんで、ちょっと時間がかかりますけど」

「大丈夫よ。君も今日は疲れたでしょ。ゆっくりしてきなよ」

「はい。何かあったら、連絡してください」

「君の番号知らないよ?」

「兄のスマホ、俺が預かってるんで」

「わかった。――ふふ、君の声、彼に似てるから、電話するとびっくりしちゃうかもな」

「………………」

 結局その日は菜穂さんから電話がかかってくることはなく、俺が二時間かけて食事から戻ると、菜穂さんは「ありがとう」と一言残して葬儀場を出て行った。

 棺の中の兄は、変わらず白い顔をしている。

 ――兄とはよく似ていると言われていた。俺が死んだら、こんな感じなのだろうか。冷たくなった兄の頬に触れると、体温が奪われて、俺も少しに近づいたような気がした。



 兄と過ごした日々を覚えている。

 優秀で、立派な人だった。

 兄のようになりたいと思っていたし、いまでもそう思う。

 火葬場からのぼる煙が兄の肉を焼いたそれだとするなら、次に降る雨には、それが含まれるのかもしれない。俺は庭にミニトマトのプランターでも置こうかと思案したが、夏休みの宿題のミニトマトを兄の助言も守らずに枯らしてしまったのを思い出し、やめておくことにした。

「人って、死んじゃうんだね」

 親戚の集まりから離れて火葬場の煙突を見ていた俺に、菜穂さんが話しかけてくる。俺は兄が育てたミニトマトはみずみずしく美味しかったな、なんて思いふけっていた。

 少しくたびれた顔をしていたのはお互い様だったろう。

「次に会うのは、もう骨だけですね」と俺は言う。

 お互い、社会人でもまだ喪服を着慣れるほどではなかった。

 未だ死に慣れない。

 俺はどこか窮屈なこの服を、早く脱いでしまいたいと思っていたのだと思う。

 そしてそれは菜穂さんも同じで、俺たちは喪服を脱ぐ言い訳をすることにした。

 菜穂さんから兄のスマホに連絡があったのは、初七日を終えた日の夕方だった。

「少し会えない?」

 俺は菜穂さんの家に呼ばれ、そのまま身体を重ねた。

 俺たちは同じだった。俺たちはお互いを見ていなかった。俺と菜穂さんの間には兄がいて、兄を忘れないために俺たちは求め合った。

」と俺は彼女を呼んだ。

 兄は菜穂さんを菜穂ちゃんと呼んでいた。

 菜穂ちゃんと彼女を呼ぶとき、俺は兄になる。菜穂さんにとっても俺にとっても、そう呼ぶ時、俺は兄なのだ。

 彼女の隙間に俺の陰茎が入るとき、俺は兄の存在を感じるような気がした。

 粘膜を擦り合わせるときの感覚、兄が感じただろう感覚がこれなのだと思う。

 彼女を「菜穂ちゃん」と呼び、彼女を感じる。そのときだけが、俺は、兄を。

 菜穂さんが実際にどう思っているのかは知らない。

 ただ菜穂さんにとって俺が兄と似た声で「菜穂ちゃん」と呼び、兄と似た顔、兄と似た身体でお互いを求めるそのときは兄を感じているのかも知れない。

 その日、俺たちは必要以上に言葉を交わさなかった。

 最後に一緒にファミレスでご飯を食べて、「じゃあまた」と言って別れた。



 俺たちはその日以降、何度も会い、何度も夜を共にした。

 菜穂さんから連絡をくれるときもあったし、俺から連絡することも多かった。

 俺は兄のスマホを契約したままにしていて、ここには基本的に菜穂さんからの連絡だけが届く。彼女から連絡があるとき、あるいは俺から電話をするとき、俺は必ず「菜穂ちゃん」と彼女を呼んだ。

 兄のスマホには、彼女との写真がたくさん残っていた。彼女とのLINEのやりとりも残っていた。俺はいけないと思いながら……いや、それは嘘で、罪悪感の欠片もなく、あくまで当然のようにそれら全てに目を通した。

 彼女の前でだけ、俺は兄という役割を与えられているのだと思う。

「そのスマホは――いつまで契約してるつもり?」と菜穂さんが言った。

 ベッドの上で裸で横たわる彼女のことを、俺はどう思っているのだろうか。

「さあ、菜穂さんから連絡がこなくなったときかな」

「ふうん」

 しかしそれから、菜穂さんからの連絡は途切れることはなかったし、俺からの連絡が無視されることもなかった。

 俺たちの関係は一年、二年と続いた。

 電話が鳴ったら、俺たちは「菜穂ちゃん」と兄になる。

 ふと、俺は昔のことを思い出した。

 それは二人でゲームを遊んだときのこと。

 兄はゲームを遊ぶとき、主人公に自分の名前を付けていた。ファイナルファンタジー9を遊ぶとき、主人公の名前は兄のものだった。

 ゲームは交代で遊ぶ習慣だったが、俺は兄が遊んでいるときも後ろで見ていたし、兄のセーブデータでストーリーが進まないようにレベル上げだけしていた。「自分のデータでやっていいんだよ?」と兄は言ったが、俺は兄のデータで遊ぶのを好んでいた。



「私、結婚することになったから」と菜穂さんが言ったのは、三回忌が終わった日のことだった。

 菜穂さんの部屋で彼女は下着姿のまま、結露のひどいコップの中の麦茶を飲んで、その雫が彼女の腕を伝うのが、カーテンの隙間から差す夕日を零したように見えた。

 彼女は俺の方を見ていなかった。俺も、彼女の姿を視界の隅でぼんやりと捉えていただけだった。

「……そうか」とつぶやくように漏らして俺はベッドから立ち上がり、服を着て、そのまま鞄から、もう随分とバッテリーのくたびれた兄のスマホを取り出した。ここに来る前は満充電だったのに、残りはもう三十パーセントもない。

 そして立ち上がったまま、俺はすでに名義を変えていたスマホの契約を、その場で解約した。

「これ、菜穂さんの好きにしていいよ。ロックはないから」

 俺は菜穂さんが置いた空のグラスの横に、そのスマホを置いた。

 ――ああ、これで兄は死んだんだ。と思った。

 三年間は長すぎた。

 もう俺たちが会う理由はない。むしろ、三年もよく続いたものだと思う。俺たちの中で兄の姿はとっくに思い出でしかなかったし、結局俺たちは誰かの死を都合良く曖昧にすることで喪失感を誤魔化していたにすぎない。

 喪服はとっくに、クローゼットの奥にある。

「ちょっとまって」

 俺が帰ろうとしたのが分かったのだろう。菜穂さんは俺を引き留め、下着のまま部屋のベランダを開けると、半身を出して何かを引き入れた。……支柱のついた、プラスチック製のプランターだった。

「これ、もらってくれない? ミニトマト」

「…………」

「彼がもともと育ててたのよ。でも私、うまく育てらんなくて。枯らさないので精一杯だった」

 確かにプランターの苗は少し元気なさげに、小さな赤い実をひとつと、青い実をいくつか付けていた。

 俺はそのプランターを受け取る。

「……」と俺は、彼女の顔を見た。

 菜穂さんは小さく「ありがとう」とつぶやいて、僅かに微笑んだ。

 そのまま俺は部屋を出て行き、それぎり、彼女と会うことは二度となかった。

 そして家に帰って、俺は窓際にプランターを置いた。

 俺は自分のスマホを取り出し、ミニトマトの育て方を検索する。いくつかのブログや動画を見て、なるほどそこまで難しいものではななさそうだと分かる。

 そのまましばらくダラダラとネットを見ていると、どこかのサイトでファイナルファンタジーのゲームの広告が出て、どうせこれから暇になるからと、そのアプリをインストールすることにした。

 アプリのチュートリアルを進めると、プレイヤーの名前を入力する画面が出る。

 俺はどんな名前を入力するか決めあぐね、それが面倒になって、一度スマホを置いた。

 部屋の窓際にあるプランターが目に入る。俺はプランターに近づいて、唯一赤くなった実をひとつもぎった。

 トマトの実は人肌よりはひんやりとしていたが、しかし、あの夏の夜に触れた兄の頬よりも温かい。

 その実を囓ると、味が薄く、青臭い風味が口の中に広がった。

 それはトマトなのにまるで違うものを食べてるような、言い知れない気持ち悪さがあった。


(おわり)

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