愛のための金なのか、金のための愛なのか。

RAN

愛のための金なのか、金のための愛なのか。

 それは、愛のためにある金なのか。

 それとも、金のためにあった愛なのか。


 ある日、道端にたたずむ女に、一人の男が言った。

「金は払うから、今日から私がここにいる間だけ、私の恋人になってくれ」

 男の顔色は全く変わらず、いたって冷静だった。

 むしろ色がなく、無表情と言ってもいいほどだ。

 言われた女は、生活に困っていた。

 こんな台詞をためらいもなく言える男など信用はおけないが、それを考えている余裕も彼女にはなかった。

 「溺れる者は藁にもすがる」の言葉どおり、女はその藁にすがった。

「わかりました」

 女も、顔色を変えずにうなずいた。

 男は、さらに女に言った。

「私は人を愛したこともなければ、愛された記憶もない。愛ということがどういうものか知らない。だから、私を愛してくれないか」

 男の言葉に、女は一瞬口をぎゅっと結ぶ。動作が止まった。

「……本当に、あなたは『愛』を金で買えると思っているのですか……?」

 最初は抑揚なく喋っていた女だが、だんだんとその声は震え、表情もゆっくりと変化していく。

「……ですが、私は何も持っておりません。何も売るものがないので、貴方が『愛』をお望みなのでしたら、お売りしましょう」

 女は、あからさまに男をあざ笑っていた。

 だが、男は表情を変えず、女の前に紙包みを渡した。

「金はその日の始まりに、その日の分だけ払う。これを受け取った時点で、お前のその日の時間は私のものだ」

「はい。よろしくお願いします」

 女は、男から紙包みを受け取った。

 先程からのいやらしい笑みはそのままで。

 それから、彼らの生活は始まった。


 最初のうちは、特に向こうから何も求めてもこなかった。

 話すことすらなかった。

 ただ通された部屋のソファに座り、男に寝室に案内されるまでそこにいた。

 男も、夜も更けた頃に帰宅し、女を寝室に案内すると、自分も別の部屋に行ってしまった。

 女は、さすがに金をもらっているのに何もしていないのがいたたまれなくなった。

 だいたい、動かないでいるなど、彼女の性分に合わなかった。

 男の住んでいる屋敷は広く、一目で彼の社会的地位などが察せられた。

 しかし、家政婦など家のことをする者は見当たらない。

 使っていないからか、大きく汚れた所はない。

 だが、ほこりをかぶっていたり、庭も草がのび放題になっている。

 全くいじっていないわけではなさそうだが、毎日しているわけではなさそうだ。

 定期的に誰かを雇い、その時だけ掃除をさせているのかもしれない。

 女は、家の探索も兼ねて、掃除をしていると、色々なことを考えてしまっていた。

 やることがそれしかないから、考える、とも言えるのだが。

 話題作りに、今日思ったことを本人に確かめてみよう、と女は考えていた。

 ――『愛』を売るという契約なのだから、それは守らなければいけない。


 その日、男は昨日よりも早く帰宅した。

 ちょうど女が夕飯を準備しているところだった。

 厨房と玄関は離れているが、物音がほとんどしない家には、大きな扉が開く音はよく聞こえた。

 火を一旦止め、玄関へと女は慌てて向かった。

「おかえりなさい」

 玄関にいた男に、一言声をかける。

 男は少し目を見開いて女を見た。

 男の表情が動いたことに、女は嬉しくなる。

「あぁ……」

 だが、すぐに男は表情を戻し、それだけ答えた。

 そのぐらいは、女の予想の範囲内だった。

 媚びないように、口の端を持ち上げる程度の笑顔と、静かな声を維持する。

「よければ、ちょうどお夕飯を作っていたところです。ご一緒にいかがですか」

 男は少し女を見つめて、何か考えているようだった。

 女は、じっと緊張して男の視線を受け止める。

「そうだな。食べさせてもらおうか」

「そうですか。それでは食堂へお越しください」

 そう言うと、女は男に背を向けてゆっくりと歩き出した。

「椅子にかけてお待ちください。ただ今準備いたします」

 女は台所と食堂の往復を始めた。

 食卓の上に料理が並び始める。

 男は、言われたとおりに椅子に座り、増えていく食卓を黙って見ていた。

 男があまりにも見つめるので、食卓に置く手に女はかすかに緊張を感じていた。

「では、どうぞお召し上がりください」

 全ての料理を並べて、女は自分も食卓につこうとした。

「……食べさせてくれるのではないのか?」

 その女の背中に、静かにかけられる声。

「え……?」

 言われた意味がわからず、声の方を向く。

 男が相変わらずの無表情で女を見つめていた。

「先程、食べさせてもらうと、私は言ったのだが」

 ――顔が変わらないから、恐らく真面目に言っているのだろう。

「わかりました。それでは、お隣に座らせていただきますね」

 女は男の近くにあった椅子に腰をかけた。

「何から召し上がりますか?」

 女は男に視線を向けた。

「これは何だ」

 男は目の前の料理を指さした。

「これはですね……」

 女が説明を始める。それが終わると、男はそれを食べさせろ、と言った。

 スプーンですくったり、フォークやナイフで切り分けたりして、男の口元へ言われた料理を運んでいく。

 男はその料理をただ黙って食べていた。

 その繰り返しをして、食事を終える。

「きれいに食べていただけましたね。いかがでした?」

「おいしかった」

「そうですか。それはようございました。よければ、またご一緒にお食事してください」

 女はそう言って、席を離れようとした。

「お前も、食べるのだろう?」

 席を立ち上がった女に、男は声をかけた。

 女はまた不意をつかれ、少し目を見開いた表情で男を見た。

「そうですね。これから私も食事をいただきます」

「見ていてもいいか?」

「え……あぁ、はい、構いません」

 男の真意がわからず、女は少し戸惑って答えた。

「料理も冷めてしまっただろう。温め直してくる」

「え……あ……」

 女が戸惑って動けないでいるうちに、男はさっさと女の食事を持って食堂を出ていってしまった。

 しようがないので、女は食卓につき、男を待つことにした。

 少しして、男が戻ってくる。

 持っている料理は、きちんと湯気をたてている。

「食べなさい」

 女の目の前に料理を置くと、男は言った。

「ありがとうございます」

 女は出された料理に、ゆっくりと手をつけ始めた。

 男は椅子を一つ空けて、女の近くの椅子に座ると、あとは黙って女を見ていた。

 しばらくはそのまま食事を続けていたが、いたたまれなくなり、女は口の中のものを一旦飲み込むと、口を開いた。

「そういえば、ここのお屋敷のお手入れなどは、誰かに頼まれていらっしゃるのですか?」

「なぜ、そんなことを聞く?」

 男の表情は変わらなかったが、声の調子がやや落ちたように女は感じた。

「今日、掃除をしていて気になったもので。こんなに広いお家なのに、誰もいないのが不思議で」

「そうだな。週に一回家全体の掃除や手入れを頼んでいる。私のいない間に来るかもしれないから、その時は対応してくれ」

 女の答えを聞くと、男の声の調子が元に戻った。

「はい……」

 女は少しその変化を不思議に思いながらも、言葉が出てこなかったので、食事を続けた。

「前から私も気になっていたことがある」

 今度は男から話しかけてきた。

「はい、何でしょう?」

 女はまた一旦口の中のものを飲み込んで、男に顔を向けた。

「お前は私を愛する、と言ったな」

「そう、ですね……」

 男が話し始める時、女はいつも緊張する。

 次に何が来るか予測が全くつかないためであるのと、男の口調が全く変わらないことに対する不安感からである。

「私は、愛する者には丁寧な言葉は使わないと思うんだが、お前はどう思う?」

「……………」

 女は言葉につまり、黙り込む。食事の手もとまった。

「今のお前と私は、主人と召使のようではないか?」

 何だか、仕事を失敗して叱られているような気分に女はなっていた。

 実際のところ、それで間違いではないのだが、何かが違うという思いもあった。

 男の言葉はそこで切れた。黙って、女を見つめている。

「……そうですね……私も、そう、思います……」

 女は、叱られた子供のように、恐る恐る答える。

 男は目を細めた。不思議と、男が笑っているように女には見えた。

「それでは、お前が親しい者と話す調子で、私と話してくれ」

 男が笑っているように見えたのは、声の調子が柔らかくなったからだと、女は気づいた。

 自然と女の口元がほころんでいた。

「……そうね、これから気をつけるわ。だからあなたも、その堅苦しい口調は、どうにかならないかしら?」

 男は、目を大きく瞬かせて、何か考え込むように視線をそらした。

 女は、また何か悪いことを言ってしまっただろうか、と口をつぐんで男を見た。

「私は、元々こういう口調なんだ。これ以上くだけた言葉で話したことがない。だから……その……今はこれで、許してもらえないか?」

 男は非常に言いづらそうだった。

 あまり感情の変化が見えなかった彼が、気まずげに目を泳がせて喋る様に、女は何だか親近感を感じた。

「そう。それならしょうがないわね」

 女は、思わず笑みをこぼしていた。そして、食事を続ける。

 男も、少し顔をゆるませて、机に肘をついて女を見ていた。

 女の食事がもう少しで終わろうかというところで、男はまた口を開いた。

「今日は、私の寝室に来てくれないか」

 女は驚いて、思わず咳き込んでしまった。

 男も驚いて、大きく目を見はる。

「ご、ごめんなさい……わ、わかったわ……行くわ」

「嫌なら、無理に来ることはない」

 男の声の調子が、また少し落ちた。

「違うの。ごめんなさい。そうじゃなくて、少し驚いてしまっただけ。大丈夫よ」

「なら、いいのだが。……ありがとう……」

「お礼を言うなんて、変よ」

 男の戸惑う姿に、女はまた笑ってしまった。


 女の食事が済むと、男は先に部屋に戻った。

 女は、食事の後片付けをすると、男の部屋に向かう。

 男の話し方からしても、ただ単に部屋に行くだけではないことは、女にもわかっていた。

 ――しかし、初日には話しかけてすら来なかったのに、次の日には部屋に呼ぶとはどういうことだろう。

 女は不思議に思いながら、男の寝室へ向かった。


 女はドアをノックして、中に誘う声を受け、部屋に入る。 

 男は部屋の壁際の中央にある大きなベッドに腰掛けて、窓の外を見ていた。

 女は、男の隣に行き、ベッドに腰掛けた。

「私は人に愛されたことはないが、そういうことを知らないわけでもないし、経験をしたこともある」

「……………」

 男がぽつりぽつりと話すことを、女は黙って聞いている。

「それが愛を確かめる方法だと、誰かが言っていたのを、私は未だに信じている。だが、私はお前にそういうことを求めてここに来てもらったわけではない」

 女は目を閉じて、次の言葉を待つ。

「だから、嫌なことは遠慮せずに言ってくれ。……というよりは、思ったことは何でも言ってくれ。何も私に気後れすることはない」

 女は目を開けて、男と同じように外に目線を向ける。

「あなたはそうすることで、私と本当に信頼しあった関係を築きたいと、思っているということかしら?」

「そうだ。昨日今日会ったばかりでこんなことを言うのは困るだろうが」

 男の声は少し落ちた。女は、だいたい彼の声の調子で、その時の気持ちを推し量れるようになってきた。

「それはあなたも同じことだわ。昨日今日会った私に対して、そう思える理由はあるのかしら?」

 女は、ある答えを期待していた。

「特にない。そう感じたからだ」

 女は、大きくを息をついた。それは、安堵の息だった。

 しかし、男は不安になったようで、慌てて言葉を継ぐ。

「私も、こういうことは初めてだ。だが、この感覚を大事にしたくなったんだ。お前には馬鹿なことのように聞こえるかもしれないが……」

 男の慌てように女は思わず声を出して笑った。

「大丈夫よ。その答えが聞けて、私は嬉しかったの」

 女は男に視線を向けた。

 男は、女の視線が急に自分の方にきたので、思わず体を強ばらせた。

「お金はきちんともらいますけどね。改めてよろしくお願いします」

 女は、晴れやかな笑顔で男に手を差し出した。

 男は戸惑いつつも、その手を握る。

 最初はそっと手に触れ、少しすると、力をこめて女の手を握った。

 その時の男の顔は、やっと誰が見てもわかるような、優しい笑みを浮かべていた。

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