第17話

 新人衛兵は目の前を歩くアフラムをまじまじと見ながら、緊張した様子でその背を追っていた。


 今のところは、ただ気の向くままに歩いているだけのようであった。寡黙な彼は背中の中心にまで伸びている白い髪を揺らして、どこに行くでもなく歩いている。



 年若い衛兵は、自分の眼前の男が極悪人であるという事実に、未だ困惑を隠せずにいた。


 衛兵が新人として王国の宮殿で働けるようになったのは、つい最近のことであった。正体不明の病が横行してから、人手不足の要因として採用されたのである。腕っぷしに自信のない彼にとっては、王宮は夢のような場所であった。


 しかし、今はこの異国の地で、身の丈に合わない仕事を任されている。そのことがまだ受け止めることが出来ず、どこか悪夢のような不明瞭さがあった。


 (この人が、本当に三年前に反乱を起こした……)


 アフラムと衛兵の間に流れる沈黙が重苦しい。アフラムは衛兵の方を一度たりとも振り返らず、何を考えているのか分からない雰囲気を出していた。



 衛兵は王宮を出る前に、ソリバから教えられたことを思い出す。


「あの二人は危険だ。王国を滅ぼそうとした……。その事件は知っているか」


 記憶の中のソリバが、忌々しそうに言っていた。







 今から三年前。バナ王が即位してから十年が経過したそのとき、事件は突如として発生した。


 王宮が大きく揺れる。地響きが鳴り、太い柱にヒビが走り、唸るような低い声が大きく反響していた。音の方向は、どうやら王宮の地下であるらしい。グラグラと動く王宮の壁はすぐに揺れに耐えられなくなり、ところどころの崩壊が始まっていく。柱に入ったヒビは、もうすでに天井にまで侵食していた。


 衛兵たちの行動は速かった。すぐに王族や貴族を避難させ、音のする地下室の方へと隊列を組む準備をしていた。



 揺れが少し収まってきても、未だ唸るような声は響いたままである。耳をつんざくような大きな音で、胸に衝撃を与えられるかのように低い。明らかに人間の声ではない。


 当時はまだ一般兵であったソリバは、避難誘導をしていた。降り注ぐ瓦礫と倒れてくる柱のなか、勇敢にも王宮のなかで生き残りを探していたという。


 いくつもの下敷きになった死体と、傷ついた人間を見た。頭部が大きく破損している者、下敷きにされたまま息絶えるまで苦しみ続けている者、足を潰されて動けなくなっている者など、それらは見るも無残であった。漂う血潮の匂いは、胃の中身を丸ごと持っていきそうなほどに強かった。


 そんな中で、ソリバはせりあがってくる恐怖と焦燥に抗いながら、夢中で生存者を探していた。もう何人かは外に避難させることが出来ているものの、まだその数が不十分である。死亡した人数も分からず、とにかく動ける者を優先的に保護するよう心掛けた。


 「助けてくれ」という声を無視するたび、彼の精神が廃れていくようであった。足が潰れていたり、動きが鈍い老人などは、どうしても避難誘導を後回しにせざるを得なかったのである。そういう上からの指示であった。


 持ち主の不明な腕や、飛び散った脳の一部を踏みつけ、彼は王宮の中を回っている。革靴の裏が異様な粘性を持ち、彼の足を引っ張るかのように重く、粘っこくまとわりついている。靴の隅には赤いシミが浮き上がり、踏みつけた肉片がまだへばりついていた。




 やがてソリバは、とあることに気が付く。サッと血の気が引いていく感触を背中に味わいながら、視線は恐る恐る、王女の部屋へと向いていた。


 ティフル王女の姿を見ていない。


 そう思うが早いか、彼は咄嗟に走り出していた。崩れ行く床を気にも留めず、一目散にその場所へ向かう。靴に付いた肉がニチャリと音を立てた。嫌な想像が頭をかすめるが、それを必死に否定しながら、早くなる心臓を抑えて、その扉を手荒く開けた。扉は軋んでいた。


 小綺麗な部屋は今にも崩れてしまいそうなまでに悲鳴を上げている。しかし、その被害は比較的少なく、当のティフルは、部屋の床に伏せて、どこにも傷を負っていないようだった。ソリバは安堵の息を漏らしながら、王女に駆け寄った。


「王女様、ご無事で……」


 そう言いかけたが、ふと、彼女の横に倒れていたクローゼットが目に入る。クローゼットは少し浮いており、その下からは、しわくちゃになって枯れ枝のような手が、ティフルに向かって伸びていた。


「ソリバ!」


 ティフルは彼の存在に気が付くと、パッと顔を上げて叫ぶ。その頬は赤く染まり、目からは大粒の涙がこぼれて止まらなかった。


「お願い、助けて! ばあやが私のことを庇って……!」


 その悲痛に満ちた声に、彼は思わず表情を硬くした。まだ生暖かい血潮の悪臭と景色が混ざり合い、気を緩めると泣いてしまいそうであった。


「ソリバ、お願い! ばあやを助けて! お願いよ!」


 彼女の願いが叶わないことは、床に付いた右腕を見れば明らかであった。仮に生きていたとしても、今、ソリバが優先すべきは、王女であるティフルを避難させることである。


 数々の「助けて」の声が、胸のなかで反響する。そのなかに彼女の声が混じり、目の前が渦を巻くようであった。



 だが、そう悠長にしている時間もない。この王女の部屋が奇跡的に形を保っているものの、いつ崩れてきてもおかしくない状況なのである。


 ソリバは即座に、心を消すよう努力した。震える手を無理やりに止め、抑揚のない声で言う。



「王女様、お逃げください」



 それはあまりに冷たい言葉であった。ティフルは首を振って、涙の混ざった声を吐き出す。


「できないわ、できない……。ばあやを置いてはいけないの、ばあやは足が悪いのよ、貴方も知っているでしょ!?」


「乳母様は王女様が避難なさった後に私が誘導します。ここは危険です、お早く」


 ティフルはソリバの顔を見つめた。彼の顔はいつものように真面目で真剣で、彼女の眼を真っすぐに見ている。短い髪が乱れて汗が流れており、ところどころ傷ついた体と血の付いた衣服は、多くの者を助けようとした証のように見えた。肉の付いた靴には、彼女は気づかなかった。


「……わかったわ。でも早く、早くね。お願いよ。きっと助けてね。お願い」


 彼女は頬を伝う涙をぬぐい、ソリバに手を引かれて外へと逃げ出す。途中で何度も彼女は振り返ったが、とうとう最後まで、足は止めなかった。


 外へ出て、王宮を顧みる。どうやら揺れていたのは王宮だけであったらしい。大きな庭へと多くの人が集まり、その中で丁重に怪我の手当を受けていたのは、バナ王であった。ソリバはその様子を見、ひとまず安堵する。

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