第2話

 それは今から数時間ほど前のこと。


 クリミズイ王国の地下牢獄はこの世の地獄と呼ばれていた。


 一度収監されてしまえば二度と生きて出ることはできない。人々の足元に埋まっている広大な牢獄に、脱獄という言葉は今まで使われてこなかった。



 それはこの国の死刑制度による。



 普通、死刑となれば絞首刑、または斬首刑などと、儀礼的に行われるものである。


 しかしこの国では、死刑となった者は地下牢獄に収監し、一切の食事を与えず、餓死させることになっているのだった。


 大昔から採用されていた独自の方法であり、死刑囚に余計な人材と金をかけないためと、飢えていく苦しみを十分に与え、囚人に罪の意識を植え付けて罰を下すためであると言われている。


 そのため、地下牢獄の入り口は、内側からは容易に開かないようになっている。

囚人が収容される檻の鉄格子は指一本がようやく通るほどの太さで、衛兵が二人がかりで押さなければならないほどに重い。


 牢獄内は飢えて死んでいった者の悪臭がこびりつき、トイレのない不衛生な檻の中は、奴隷たちの雑な仕事で始末されているだけである。




 その中に、白く長い髪を持った、やせ細った男が座っていた。


 檻の中には何もない。3日ほどで死ぬことを想定されて作られた監獄は、囚人に一切の慈悲も見せることがない。


 辛うじて壁に取り付けられた細い蝋燭が、俯いた男の後頭部の白色を淡く染めていた。


 男の顔は白い髪に埋もれてうかがえなかった。ピクリとも動かず、自身の四肢を放り出して、汚い床に腰を据えている。


 男が収監されてから、もう三年が経過しようとしていた。


 無論のことながら、男は収監されてから一切の食事も水も与えられていない。日の光にも外気にも当たっていない。人と話さず、動かず、死んだようにすべてを静止させている。


 しかしその呼吸は健在であった。


 定期的に監視に来る衛兵は慣れ切った様子で素通りしていく。収監された当初では、まるで悪鬼を前にしたかのように緊張していたのに、今や道端のゴミを見るような目で見下し、まだ続いている呼吸に辟易とした溜息をついている。


 だが、その衛兵は、今日は来なかった。見回りの時刻はとうに過ぎていた。


 もっとも、脱獄犯の出たことのない地下牢獄であるから、衛兵による監視は形式的なものであり、稀に黙ってサボる若い新人がいるというのも事実である。だが、この日は違った。


 どこかで絶望した囚人が発狂している。


 収監されたばかりなのであろう。閉鎖された空間によく響くひび割れた高音は、厚い壁をもろともせず貫いた。このように大きく発狂できるうちは、まだ死ぬことはない。


 声が止むと同時に、コツコツと、規則正しい靴の音が、男の牢獄の方まで近づいてきていた。


 衛兵の足音ではない。彼らの足音は、一歩を踏み出す度に、ジャラジャラと無駄に飾られた鎧の金属音が鳴る。


 男の方へゆっくりと近づく足音は、高いヒールのついた靴のものであるらしい。コト、とずれた一歩の音が淡々と響いた。


 白髪の囚人は微動だにしない。生きていることすらも信じがたいほどであった。かつての彼を知る者があれば、その豹変ぶりは自身の目を疑わせるだろう。


 彼は足元に這う蛆虫にも目をくれず、眠っているのか起きているのかも分からない様子で、時が過ぎるのを待っているようだった。


 足音は規則正しく近づいてくる。大きくなっていく異様な足音であるが、彼にはそれにも気づいていない。


 ……足音が止まる。白髪の囚人の檻の前だった。

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