一.

 ここは沖縄か? それともオーストラリア?

 廊下へ出た瞬間干上がっていく全身が、今すぐ引き返せとSOSを鳴らしている。これなら同じ地獄でもエアコンが効いた教室のほうがまだマシかもしれない。


 もうひとつの地獄──一学期末テスト最終日は午前のうちに解放される。三日間におよんだ、教室ですし詰めの高校生たちが答案用紙にシャーペンを走らせていく沈黙の四十五分間も僕にはかなりの苦行だったけれど。

 まだ我慢できる。すぐに生徒会室へ向かえば、こんな灼熱地獄からも抜け出せるはずだ。



っつ。このドア、異世界の亜熱帯と繋がっているのかもな」


 後を追ってきたやなぎりょうへいが、うちのテスト地獄と外の灼熱地獄に挟まれて頭をやられたのか、奇妙なことを口走っている。


「意味わかんねえ。アニメの見過ぎだ」

とう。来週の土曜っていてない?」


 涼平は勉強嫌いな僕とは違って、見た目も頭の中身も優等生仕立てだ。中間に引き続き、期末テストもきっとクラスで一、二を争う順位に付けてくる。

 だが、涼平は縁なしメガネを片手で押し上げながら、さらにおかしな発言をした。


「いやけておいてほしい。はた部長が掛け合ってくれてさ、他校のフットサル部と練習試合を組めそうなんだ」


 どこからどう見ても文化部な涼平が、まさかサッカー部に属しているとは誰も予想できまい。事実、中学では科学部だったらしいし。

 まあそんなことは別にどうだって良い。正気を疑いたいのは、こんな亜熱帯の中でサッカーに興じようという、そのバイタリティのほうだ。いやフットサルか。


「やだよ。真夏に外でサッカーなんか」

「フットサルだから室内だって。なあ頼むよ。うちが部員四人しかいないの知ってるだろ」


 確かに四人じゃ、サッカーどころかフットサルさえ成り立たないな。


「淘汰はゴールキーパーで良いからさ。できればシュートとドリブルとパス回しでもチームに貢献してほしいけど」

「全部俺がやれってか? 勘弁してくれ。もっとサッカーのチームワークをアニメで勉強しろよ」

「あいにくアニメはラブコメしか嗜んでいないんだ。ついでに頼みたいんだけど、その練習試合に掛かる交通費も、どうにか融通付けてほしいんだよね」


 ……ああ、そっちが本題か。

 僕はずっと背を向けていたが、お金の話になった途端あきらかに声色を改めた涼平に、すっと正面へ向き直す。


「交通費くらい自分たちで出せないのか? 夏休みの合宿と比べたらはした金だろ」

「そんなに近場じゃないんだよ」涼平は目を伏せる。「千葉だからさ」


 東京都内にしろよ。せめて埼玉か神奈川あたりにしておけば良いのに。


「ここからじゃ電車だと三時間かかっちゃうし、新幹線に乗るくらいならバスを取ったほうがいろいろ都合が良いんじゃないかって話になってて」

「四人しかいないのに? たぶん顧問だったら時間かかっても電車で済ませろって言うんじゃね」

「お前と合わせたら五人だ。……ああええと、そうじゃなくてさ」


 涼平はもっとバツが悪そうな顔をして、


「試合が終わったら、そのまま他校の人らとご飯食べに行って……そのまま、どこかに一泊して近くの違う高校行って、合同練習に混ざりたいって部長が言ってるんだよ」


 なるほど確かに、言いにくそうなサッカー部の本音を明かした。



 僕はわざとらしくため息を吐いてみせる。畠田部長、思えば入学した時の勧誘時点で大学サークルのノリがあった。すでに合宿の予定はひとつ立っているのだから、どうか欲張り過ぎずに安上がりな夏休みを過ごしてもらいたいところだが。


「本当にごめん。急な話だってのもわかってるんだけど……」

「一応相談はしておくけど、あんまり期待するなよ。部費の割り振りは俺の管轄外だ」

「それでじゅうぶんだよ。いつもありがとう淘汰」


 費用の工面ができるかどうか以上に、相談を受けてくれたことに対して安堵したのだろう。涼平は肩の荷が降りたような顔をしながら僕のもとを離れていった。最後に練習試合への参加をもう一度考えてくれるよう念を押しつつ。



   ×   ×   ×



 生徒会室に向かっている途中、窓からサッカー部が早くも第一グラウンドでボールを蹴り合っている光景を目にした。テスト終わって早々に元気なものだと感心する一方で、ランニングや準備体操じゃなく、いきなりパス練習から入っていることに苦言を呈したくなる。

 だいたい、サッカー部の通常の練習場として生徒会から指定受けているのって第二じゃなかったか。部費を増やせと言うならせめて取り決めは守ってもらいたいものだ。よその部にクレーム付けられても僕らは知らないぞ。責任はどうか自分たちで取ってくれ。


 そう、自己責任。

 だってほら、廻谷生が学ぶべきは『自立しようとする心』なんだろう?


 ともかく、その光景は何度見たって別に羨ましくならない。グラウンドだろうと体育館だろうと、僕はもう二度と部活動でサッカーをすることはないからだ。

 どうして経験者でもないのにわざわざ部員も足りてないようなサッカー部に入ったのか、涼平に聞いてみたことがある。涼平いわく、今まで勉強くらいしか学生らしいことをやってこなかったから、せめて華の高校生でいるうちは部活動でスポーツして青春を謳歌しておきたいのだとか。

 そういう考えかたもあるか。……まあ、そっちはそこそこ羨ましいモチベーションだ。



 僕は生徒会室のドアノブに手をかける。テスト期間前日にみんなで施錠したはずのドアは開いていて、どうやら先客がいるらしかった。

 ドアを開けるなり、冷えた空気とエアコンの風が乾ききっていた頬へ潤いをもたらす。扇風機の音もする。ああなんという天国。


「かーらーさーわーくーんー、ひーさーしーぶーりー」


 先んじて生徒会室に入っていたのは塚本つかもと早希さき先輩だった。

 最初はいつもの春風みたいな声が夏の暑さにやられてしわがれてしまったのかと焦ったが、よく見れば早希先輩は床に両膝をつき、扇風機の前に座り込んで大口をがばと開けている。喉奥を直接風で刺激すれば、そりゃあ声は勝手に震えるだろう。


「お久しぶりです早希先輩。テストどうでした?」

「ぜーんぜんダメー。過去サイテーかもー」

「そうですか」

涸沢からさわくんはどう? ていうか、一年生って最後の科目なんだっけ」


 扇風機から顔を離せば、早希先輩の柔らかな声が舞い戻ってくる。


「英語ですね。その前は世界史と情報」

「あーそうだったそうだった。いやねえ、なんで一番嫌いな教科が最後に来ちゃうかなあ」

「それよりも情報とか家庭科とか、受験に使わない科目を二限目に挟むのをやめてほしいですね。なぜか暗記系に限って朝一なんですよ」

「あーわかるー。私も最後くらいは音楽でラクしたいなあ」

「音楽はダメです、音楽だけは。俺が死んだ顔で生徒会室来ても良いんですか?」


 涼平と話す時よりも少しだけ気取った声色で応じながら、ドアのすぐ近くの壁に立てかけてある札をめくる。木製の札に彫られた『涸沢淘汰』の赤文字をひっくり返して黒文字に変えるのが、生徒会執行部書記の最初の仕事だ。



 僕は満足げに生徒会室へ足を踏み入れた。涼しい部屋、部屋に置かれたふかふかのソファ、僕を生徒会執行部に誘ってくれた優しい先輩。

 涼平には悪いけど、僕はこっちのほうがずっと居心地が良い。


 あと三年。

 華の高校生はこのまま、青春をそうしていたいんだ。

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