或る猛暑日の残骸

牛戸見しよ蔵

或る猛暑日の残骸

 今朝無惨な形で横たわっていたセミの死骸が、夕方帰ってみると跡形もなく消えていた。一体いつ無くなったのだろう。横断歩道を渡ったとき、ちらりと見えた潰れた半身がまだ頭の中に残っている。


「すみません、ちょっといいですか」


 引いていた自転車を止め、つい呆然と眺めていたら後ろから声を掛けられた。振り返った先にいたのは、首にタオルを巻いた清掃服姿の小柄な男性。季節に似合わない茶色の長袖と黒の長ズボンを履いて、帽子を目深に被っていた。


「なんでしょうか?」

「私、先ほどここを掃除していた者です。蝉の死骸があったのですが、片方の羽根を知りませんか?」

「羽根?いや、知りません」


 どうしてそんなことを?そう聞き返す前に、男性は食い気味に続けた。


「車輪の隙間とかに引っかかっていると思うんですよ。知りませんか?」

「……いいえ。さっぱり」

「そうですか」


 会話はここで終わったものの、男性は俯き屈んで足元や自転車の車輪をまじまじと見続けている。セミの羽根を探しているのだろう。しかし、その場から動こうとしない男性は帰る道を遮っていた。勘弁してほしい。一言言おうと思ったが、じりじりと焦がす日差しとむっした熱気が気力を削いだ。


「あの、通してもらっていいですか。セミの羽根ならどこかに飛ばされたのかもしれませんよ」


 そう言った途端、腕を掴まれた背の低い男から、帽子の中に隠れていた黒々とした丸い目が瞬きもせず凝視している。黒だと思っていたズボンは所々赤黒く、妙に湿っていた。


「そんなはずありません。だって――――あなたですよね、私を轢いたの」


 男の声を掻き消すくらいけたたましいセミの声が、耳の中で反響する。そういえば昨日の夜もこんな風に蝉が鳴いていた。蒸し暑い風に吹かれながら、この道を自転車で渡ったことをふと思い出す。自然と自転車に目を落とした。

 前輪には、粉々に砕けた茶色い羽根が確かに詰まっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

或る猛暑日の残骸 牛戸見しよ蔵 @ox32

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ