7. 傘は折れず

 エニカの腕から血液が垂れ落ち、地面に小さな血だまりをつくる。


 その様子を見て、カイトの全身を悪寒が通り抜けた。


 奥でカイトたちを注視していたバルシーダたちの視線が、一気にエニカの腕に集まる。


「これは、まずい……!」


 そう思ったのも束の間、バルシーダたちが一斉に叫び声を上げて体を震わせ始めた。


 金属どうしをぶつけたような高く鋭いうなり声が、カイトの鼓膜を激しく打つ。

 目に映った赤色に反応して興奮状態になっているのだ。


 すると、バルシーダたちはつり上がった目でエニカの腕から溢れる赤い血を睨み、葉で覆われた太い腕を向けた。


「あの構えは……!」


 ゼイム・ラートの日誌に書いてあった内容をカイトは必死に思い出す。


 バルシーダの攻撃方法は、片方の腕で岩をえぐり、もう片方の腕で射出するというものだ。

 今その砲門がすべて、エニカに向けられている。


「やべえ……!」


 カイトはとっさにエニカの体を抱きしめて横に飛んだ。


 それと同時にバルシーダたちが一斉に攻撃を始め、無数の岩のつぶてが壁に突き刺さった。

 重く激しい音とともに地面がぐらぐらと揺れる。


 飛んだ勢いで土埃をあげながら倒れ込んだカイトは、エニカを離して飛び起き、先ほどまでエニカがいた場所に目を向けた。


 壁と地面が深くえぐれ、発射された岩の威力が想像以上に高いことをありありと示している。


 しかし、それに驚いている暇はない。

 もたもたしていたらすぐに次の攻撃が来る。


 そう思い、カイトはエニカの前に立ってバルシーダたちと向き合った。


「クソ、数が多すぎる……!」


 手に持っていたランプとノートを後ろで倒れているエニカの方に投げ、カイトはその手に魔力を集めた。


「試験のために魔力はできるだけ消費したくなかったんだけどな」


 カイトの手のひらに魔力が凝縮していく。

 するとそこから、黒く小さな粒子が滝のように溢れ出た。

 それらは霧のようにたゆたいながら、まるで意志を持っているかのようにまとまりをつくっていく。


 それを見て、エニカが目を丸くした。


「師匠、それ……何ですか……?」


 エニカが今まで感じたことのないような異様な魔力。

 禍々しくも洗練された力の結晶。その黒い粒子は凝縮し、細長い棒のようなものを形成していく。


「これは俺の魔法だ。何なのかはよくわからねえが、黒い瘴気って呼んでる。それより、そのランプとノートを持って下がってろ。絶対に俺の後ろから移動するんじゃねえぞ」


 そう言ってエニカに背中を向け、まっすぐと立つカイト。


 その手のひらに集まる黒い瘴気が、ついに完全な形を成し、物体として顕現した。


 それは、鈍く輝く黒刀。つかつば、刀身にいたるまで全てが真っ黒に染まっている。


「【黒切くろきり】。黒い瘴気で作った俺の愛刀だ。俺が何とかするから、お前はさっさと血を拭え……!」


 そう言うのも束の間、バルシーダの腕から放たれた岩が高速で空気を切り裂き、カイトの目の前に迫った。



 キンッ!



 一閃。


 カイトが振るった黒切が鋭い音を立てて岩を弾き飛ばした。

 弾かれた岩はエニカに向かうはずだった弾道を外れ、数メートル離れた場所で壁を穿つ。


 休んでいる暇はない。岩は次々とエニカ目掛けて飛んでくる。


 しかし、カイトはその全てをさばき、エニカに攻撃が届くことはなかった。


 刀の側面で岩をとらえ、力の流れに無理に逆らわないように滑らかに軌道を変える。

 荒々しくも丁寧に、何十体ものバルシーダから飛んでくる無数の岩を、一つ一つ処理していく。


 その刀はまるで優雅にダンスを踊るように、滑らかな曲面を描きながら振るわれた。


「すごいです……!」


 その洗練された技術を目の当たりにし、エニカは少しばかり目を見開いていたが、はっと我に返り血が滴る傷口を布で押さえた。


 力を入れて圧迫すると多少血の流れが抑えられたものの、まだ止まる気配はない。


 エニカは必死に傷口を押さえながら、目の前で刀を振るうカイトに視線を向けた。


「師匠、私も……魔法を……」


 汗をにじませながらバルシーダの攻撃に真っ向から立ち向かっていくカイト。


 その姿を見て、ただ守られているだけの自分が足手まといに思え、エニカは何か援護ができないかと頭を回した。


「そんなもん使わなくていい! お前言ってたろ、戦いで魔法は使いたくないって。なら無理に使う必要なんてねえ!」


 確かにエニカは、採掘場でカイトとそんな話をした。

 そのときのエニカの悲しげな瞳が、カイトの脳裏をよぎる。


「で、でも師匠……」


「使いたくないって、何か理由があるんだろ。どんな事情があるのかは知らねえけど、使いたくないなら使わなくていいんだよ! お前はそこでじっとしてろ!」


 カイトは必死に岩をさばきながら叫んだ。

 最初こそ全ての岩を完璧にさばけていたが、だんだんと刀を振る腕が重くなってくる。


 それなのに、攻撃は止む気配がない。むしろ加速しているようにさえ思える。


 弾いた岩がカイトの顔をかすめ、頬から血が伝う。

 さばききれなかった岩がカイトの太腿にぶつかり、重い衝撃を与える。


「クソッ……!」


 刀をすり抜けてエニカに向かおうとする岩は全て自らの体で防ぎ、石粒一つすら後ろには通さない。


 少しずつ岩によってカイトの体が削られていく。

 エニカが腕の血を止めたところで、カイトの体中から流れる血は止めることができない。


 胴体から吹き出た血が地面に飛び散る。

 黒切を縦横無尽に操りながらも、終わりの見えない横殴りの岩の雨に、精神と身体が摩耗していく。


 それでも決して、カイトがその手を止めることはなかった。


「大丈夫だ、この程度、なんてこたあねえ……! いくら体が傷つこうが、魔力さえ残ってりゃ試験には挑める……! 諦めてたまるかよ、今まで俺がどれだけ努力したと思ってんだよ……! これぐらいで終わるようじゃ、最強の冒険者にはなれねえんだよ……!」


 カイトはある予感がしていた。

 傷ついていく体。血で染まる視界。しかし、この戦いの先に、師匠の言葉の真意がある気がした。


 刀を振り続け、エニカにただの一度も攻撃が当たらないように守り抜き、無事にあの青い空の下に戻る。


 ここでエニカを見捨てて逃げるのは簡単だ。しかし、それだけは絶対にしてはいけないとカイトは確信していた。


 今までずっと、自分のために生きてきた。

 自分だけが強くなって、最強の冒険者になることを夢見てきた。

 それだけを人生の道標として、全力で走ってきた。今日も、その道の続きを走るものだと思っていた。


 だというのに、いつの間にか道を外れ、今日初めて会った、家族でも仲間でも友達でもない少女のために、カイトは血だらけで刀を振るっている。


 何の得もない。何の見返りもない。ならばなぜ刀を振るうのか。


 わからない。道を踏み外し、自分の生き方を曲げ、なぜこんなことをしているのか。


 何もわからない。しかし、もしかしたら、この暗闇の奥に、血塗られた戦いの先に、最強の冒険者とは何か、その答えが見えてくるのではないかと、そう思った。



『最強の冒険者とは、花が開く先に立つ者のことだ』



 師匠の言葉が頭に響く。

 花とはなんだ。その先に立つとはなんだ。ずっと一人で考えてきた。

 その答えを求めて刀を振るってきた。

 ただひたすらに、がむしゃらに、無我夢中で手を伸ばしてきた。


 けれども答えは見つからず、伸ばした手が宙をつかむ日々。

 豆だらけで血がにじみ、刀を振ることしかできない冷たい手。


 その手で今日初めて、他人の人生に触れた。

 それは、カイトが最強の冒険者に焦がれるのと同じように、外の世界に焦がれている少女がたたずむ、小さな世界だった。


 カイトよりよほど窮屈な世界。辛いのは自分だけではなかった。答えを探し求めているのは自分一人だけではなかった。


 こんなボロボロの手で何ができるとも知れなかったが、カイトは少女の手をつかみ、冷え切った日陰の世界から、日の当たる温かい世界へと連れ出した。


 結局カイトがつかんだのは答えではなかった。

 つかんだのは、ただの少女の細い手だった。


 しかし、カイトはつかまずにはいられなかったのだろう。自分と同じ、暗闇をさまようその手を。


 何かが変わったわけじゃない。これからも変わることはないのかもしれない。

 それでも、もしかしたら、繋いだその手の先に、交わった道の向こうに、答えがあるのかもしれないと。


 そう願わずにはいられなかった。


「俺は本当にバカだ……! 自分の夢だけに向かってただ突っ走ってりゃよかったのに……他人に構ってる暇なんてないはずないのに……なんでこんなところで血を流してんだ……こんなのが報われると本当に思ってんのか……! その甘い考えに、我ながらへどが出るぜ……! 知らなかったよ……俺は自分の人生を自分で踏みにじっちまうような大バカ野郎だったなんてな……!」


 飛び散った岩の破片が体にめり込む。

 骨が、筋肉が、引きちぎれんばかりにきしむ。

 止まない。大粒の岩の雨が、ずっと止まない。


 思えば、カイトの人生も雨ばかりだった。

 太陽のように輝く師匠の背中が見えなくなったその日から、カイトの心には雨が降り続けていた。


 その雨を振り払おうと、必死に努力した。

 強くなるために、あの背中に追い付くために、濡れて重くなった体を無理矢理動かした。

 体が上げる悲鳴も、心に降る雨の音も全部無視して、地を這うように泥臭く一日一日を積み上げてきた。


 広げた傘はもうボロボロだ。穴だらけで、骨組みは折れ曲がり、とても使い物にならない。

 自分一人もろくに守れない傘に、果たして何の意味があるのか。


 もう手を離してしまおうか。この血と汗と涙でベトベトになった小汚い壊れかけの傘なんて。

 こんなものではもう、雨の一粒も防げない。


 人生という道の先ではこれからも、こんな雨が降り続けるのだろうか。

 いくらあがいても、それを嘲笑うようにこの身を雨で叩かれるのか。


 もういいか。

 この手を離して、足元に広がる雨水に身を浸してしまっても。

 そのまま目をつぶってしまっても……。


「師匠!! もう私のことはいいですから、逃げてください!! 師匠一人なら逃げ切れます!! 私は足手まといになりますから、もう気にしないでください!! お願いします、逃げてください!!!」


 後ろから必死で叫ぶエニカの声が聞こえた。


 その声はかすかに震えている。

 本当は怖いだろう。暗闇や虫にさえあんなに騒ぎ立てるほど怖がりなのだから、こんなにも大量の敵意の雨をぶつけられたら、怖くて仕方がないだろう。


 本当はその恐怖に声を上げて泣き叫びたいはずだ。

 だというのに、泣きもせず騒ぎもせず、震えそうになる声を抑えて、傷つくカイトに自分をおいて逃げろと叫ぶ。


 もしカイトがその言葉に応じて逃げたなら、エニカは一瞬にして岩の雨に体を打ち抜かれ、死んでしまうだろう。


 あんなに外の世界に焦がれていたのに、あんなに冒険することを夢見ていたのに、その思いも願いも全て放り捨てて、カイトにこれ以上傷ついてほしくないと願うその叫び。


「もういいですから!! 早く逃げてください!! 私、実は体がとっても丈夫で、こんな石くらい当たったってへっちゃらです!! 痛くてもご飯いっぱい食べれば治ります!! 足も速いからすぐに逃げられます!! 私本当はすっごく強いんです!! だから……だから……これ以上、私を守らないでください!!!」


 エニカの目に涙が溜まる。

 カイトが今日見てきたエニカは、そんな強い人間ではなかった。


 体は白く細く壊れやすそうで、腕を怪我したときは歯を食いしばって痛みに耐えていた。

 歩幅が小さく、パタパタとせわしなく足を動かしてカイトの後ろを歩いていた。

 危機管理能力も低く、怖がりで、カイトがいなければ何度命を落としていたことか。


 エニカは自分が弱いことを知っていた。だからこそ、強がって見せた。


 弱い自分を守るためにカイトが傷ついていくのが見ていられなかった。

 自分は大丈夫だと、自分は強いと叫んで、カイトに安心して逃げてほしかった。

 どれだけ強がったところでカイトに信じてもらえるとは思わなかったが、叫ばずにはいられなかった。


 外の世界に出て初めて、自分の目をまっすぐに見てくれた人だったから。

 あんなにも温かい手を握ったのは初めてだったから。

 その不器用な優しさに何度も救われたから。

 だから、この人には生きてほしいと思った。


 痛いのは苦手だ。苦しいのも嫌いだ。

 でも、自分の心に温もりを与えてくれた希望の光が目の前で消えていくのを、ただ見ているしかできないのは、何よりも辛い。


 「そうかよ……自分を置いて逃げろってか……こんな大粒の雨の中、傘を差さずに無事でいられると思ってんのかよ……」


 カイトは傘を手放す寸前だった。

 降りしきる雨に、心がもう耐えられそうになかったから。

 一本一本指を離し、傘が手からこぼれ落ちそうになる。


 そのとき、後ろから叫び声が聞こえた。

 自分のためじゃない、他人のために必死に叫ぶ声が。


 その声は、雨を怖がっているのではなかった。雨に打たれるカイトを必死に守ろうとする心の叫びだった。


 カイトは気付いた。この傘に入っているのは自分だけではなかったのだと。

 今までは一人で傘を差していた。自分一人を守るために必死でその柄をつかんでいた。


 しかし、いつの間にかその傘の中には、自分以外の姿があった。

 こんなにもボロボロの傘なのに、こんなにも服が汚れているのに、隣に立つその少女は、カイトが差す傘を選んだ。


 カイトは再び傘を握り締める。

 こんな穴だらけの傘でも、まだ守れるものがある。

 こんな汚れた背中でも、まだ誰かに歩く勇気を与えることができる。

 それならば、またこの傘を握って歩いて行こう。


「まったく、下手に強がりやがってよ……。お前がどんなやつかってのは、もうだいたいわかってんだ……。まだ自分の傘も持ってなくて、俺がいねえと雨に呑まれて流されちまうような、世話のかかるやつだってこと、俺は知ってんだ……」


 弱虫で怖がりで、カイトがいないと何もできない。

 それなのに、その傘が壊れていくのを、その背中が汚れていくのを、嘆いて悲しんで大きな声で泣き叫ぶ。

 自分の夢が失われることより、人の痛みに涙する。


「それに、そんなに必死に強がらなくても、お前が強いことくらい、とっくにわかってんだよ……」


 誰が気づけるだろうか。

 小さな世界に閉じ込められた少女の悲しみに。

 届かない空を見つめるだけの苦しい日々に。

 誰にも迷惑をかけまいと寒空の下一人で、野宿することを選んだその寂しさに。


 もういいだろう。

 もう十分耐えてきた。やっと雨をしのげる場所を見つけたのだから。

 もう少し雨宿りしたっていいだろう。


「安心しろよ……いくら雨が強くても、いくら大きな穴が空いていても……俺の傘は折れねえ……!!」


 その心が折れない限り、その柄を握る理由がある限り、決して折れることのない鋼の傘。


 手に血がにじむ。雨が傘にあたる衝撃が全身を駆け抜ける。

 それでもあがく。あがいてあがいて、血反吐をぶちまけてでも足を踏み出す。


「雨宿りする子供一人守れなくて、何が最強の冒険者だ……!!!」


 腕を持ち上げて刀を振るう。

 足を持ち上げて地面を踏みしめる。

 顔を上げて、雨の先の晴れ間を探す。


 きっともう少しだ。

 進んでいけばきっとどこかに、雲のない青い空があるはずだ。


 足を動かして進み続けろ。

 腕に力を入れて傘を支え続けろ。

 歯を食いしばれ。目をつぶるな。

 この背中に背負ったもの全てを守り切れ。


 それがきっと、最強の冒険者が見せるべき背中だと、カイトは信じた。


 血が飛び散る。筋肉が固くなっていく。関節の動きがぎこちない。呼吸が不安定だ。

 だからどうした。そんなことは、手を止める理由にはならない。


 きっとエニカがこの背中を見ている。きっとそれが、エニカの中での冒険者のあり方になる。

 それが、エニカにとっての道標になる。


 だからいつか、この背中を思い出して、青い空へ羽ばたいてほしい。

 こんなことで夢を諦めないでほしい。

 自分の理想に手を伸ばし続けてほしい。

 いつかきっと、この背中が一人の少女に勇気を与えられるように────。



 カイトの手が止まった。

 その手はゆっくりと刀を下げる。


 いつの間にか岩の雨が止んでいた。


 止まない雨に逆らって進んでいるうちに、いつしか雨は降り止んでいた。


 バルシーダたちは疲れた様子で息を荒げ、その砲門を下ろす。

 カイトの体は血だらけで、その服は引き裂け靴も削れている。


 しかし、その背後にいるエニカには、一粒の石ころすら当たっていない。

 エニカは目に涙を溜め顔を歪ませ、血の付いていないカイトの背中を見つめた。


「し……師匠……」


 エニカの目に溜まった大粒の涙がこぼれ落ちそうになる。


「バカ野郎……。せっかく俺が傘差してやったんだから、もう泣く必要なんてねえんだよ……。それともまた、あのクソまずいパン、食わされたいのか……?」


 エニカはグッと涙をこらえ、カイトの背中を見つめ続けた。


「それでいい。どんな暗闇でも進むことを諦めるな。どんなに苦しくても夢を捨てるな。お前はその自由な翼で、あの焦がれた空を、どこまでだって飛んで行けるんだからな」


 あの青く晴れ渡った空を、どこまでも。

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