お茶かけ論

鳩鳥九

第1話

天正18年



 豊臣秀吉は聚楽第に千利休を招いた。

大規模な茶会を好む太閤秀吉が個人的に利休を呼びつけたことは稀有な事であった。


「太閤殿下に置かれましては益々のご健勝を……」

「おう利休、そんな建前は面倒であろう、近こう寄れ」


 少なくとも数年前までは秀吉は利休を重宝していた。

千利休自体、豊臣家の懐刀にして、亡き秀吉の弟・秀長に代わる相談役としての役割を果たすだけではなく、

全国の有識者・知名人・専門家の意見交換会の役割を兼ねた茶会の総元締めという存在であったのだ。

2人はお互いのメリットの為にお互いを利用し、

秀吉自身も頭がキレて影響力のある利休の才覚に惚れこんだ。

しかし、そんな中も秀吉の天下統一が成され、

日ノ本の国の経済成長に一応のピークが過ぎてしまった時点で、

その中も険悪なものとなって行った。


「はて、では遠慮なく……

 殿下は今回はどういったご用件であらせられますか? 」


 にもかかわらず秀吉が利休を呼びつけたのはやはり意地を張っていたからという子供のような理由があり、利休もそれを分かっていた上で招集された。

聚楽第の小さい茶室での話であった。


「朝鮮じゃ」

「は、」


 もう利休は秀吉にとっての相談役では無かった。

ただただ秀吉の意地に利休が付き合わされているだけだった。

だた豊臣秀吉は時の権力者である。

かの織田信長でさえ成し遂げることが不可能であった天下統一という国家事業を成し遂げ、朝廷から平氏の名前を冠し、

関白、ひいては太閤にまで上り詰めた立身出世の天下人であった。

そんな奇才である秀吉も様々なコンプレックスを抱えていたことは言うまでもない。


「朝鮮を攻め滅ぼし、明にまで兵を進めようと思う」

「……なんと……」


 秀吉自身生殖機能に問題があり、後継ぎが生まれないという問題があり、

織田信長から天下を霞めとった。秀吉自身は信長本人に成り替わる英雄的な活躍はできないのではないかというコンプレックス、

ひいては、農民出身の自分は物の価値がわからず、芸術を全く介さないことに対する執着……

老練となった彼に一生付きまとうこととなる呪いの、

せめてもの感情のはけ口が利休になってしまっていることが、

利休自身も自覚のあるところであったので、

せいぜい彼を怒らせて刃傷沙汰にならないように、

天下人の機嫌を損ねないようにと、利休は身構えるのであった。


「まだ諸将に早馬をしてはおらん。極々内密にな」

「ふむぅ……左様でございますか」

「して利休、お主はどう思う? 」


 朝鮮はともかくとして、当時の明は大国であった。

情勢不安が付きまとい経済的に破綻し、国が混乱しているとはいえ、

中国全土の風土の性質上、極めて人口が多い国家である。


「ふぅむ。そうですなぁ」


 日本が10万の兵士を招集している間に、中国は100万の兵士を向かわせる。

人口比率の違いはそのまま兵站の違いである。

ガトリング銃のような1人で何十人も殺害できるような武器が開発されるまでは、

近代において人海戦術こそが国家の基盤と成り得るのだ。


「……我が国は戦国時代を生き残った英雄や精鋭ばかり、

 虚を突いて奇襲をしかければ、一騎当千の働きを見せる戦武者である。

 儂は見込みがあると思うておる」

「……殿下、お言葉ですが……」


 秀吉の言っていることも正論であり、

利休にとってそれらを阻止する理由もない。

北九州の名護屋に召集されるであろうそうそうたる面々の中には、

利休にとっての良い取引相手もいる。

彼らがむざむざ殺されるとあっては利休も面白くないのである。


「明や朝鮮は治安が悪い土地でございます。

 この場合の治安というものは治政のことではなく、

 衛生面のことでございます。知らない風土に兵士を向かわせ、

 その土地柄を理解せぬまま倍以上の敵と相対するのは得策ではございません

 ……状況に変化が起こるのまで待つというものもあるかと……」


 数年放置すれば明の状況はさらに悪化する。

だが、それは日ノ本の国も同様であった。

明の永楽通宝をそのまま日本の貨幣として輸入をしていた。

それらの経済的な硬貨の価値が下がり、

銭の中に質の悪い金属を混ぜて発行していたのだ。

それにより民衆は混乱し、貨幣の価値を疑い、デフレが発生した。


「明が病に当てられれば、対岸のわが国も風邪を引く。

 それと同じよ。衰弱する一方であるのなら、儂が介錯をしてやろうというのだ」


 明の〝皇帝〟を名乗れば、〝天皇〟よりも位が上となる。

利休はそれが狙いかと邪推もしたが、どうにもそれだけとも言いにくい。


「信長様ならそうする。

 腐る前に滅ぼす。燃やす。それが牽いては民草の為になる」


かつて〝民草〟の側だった秀吉なら、それを知る由としている。


「……商船相手が日陰に身を落としたのなら、

 共に沈没する前に積み荷ごと奪う……国取りであるならそれが王道……

 というわけですな。殿下の仰る通りでございます」


この男は未だに〝織田信長〟という英雄の残響に振り回されている。


「……やはり利休なら賛同すると思うた。

 この一国は一杯の茶器と同じじゃ、豊かにお湯を注げばやがて溢れる……

 溢れる前にさらに大きな茶器を探さねばならぬ。

 政とは元来、そういうものじゃ」


利休は茶器の前にして語る秀吉の言霊を肯定しつつ、虚しい気分になった。


「……この茶器ではもう……古い……

 日ノ本の国という器ではもう、茶の湯も溢れてしまう。

 さっさと明という大きな器に鞍替えをして、儂はそこで世界の皇帝となろう。

 切支丹、南蛮、絹の道、伴天連……それがどうしたというのだ。

 儂ならそれができる……」


 秀吉は自分こそが世界征服を果せると豪語し、利休の茶器を子馬鹿にした。

利休の腹のそこに鬱屈した漆喰のような感情が腸に住まった。

秀吉はその利休の茶器の茶を強引に、秀吉本人の黄金の茶器に移し替えたのだ。

茶道の作法などを一切無視した愚行に、側近は震えて諫めようとした。

だがこの国の武力と権力の髄を極めた秀吉と、文化と人脈に長けた利休である。

この二人のやり取りに対して堂々と口を挟むような傾奇者は、

この屋敷内にいるはずもなかったのだ。


「ほれ利休、小さな器では窮屈であったろう。儂の茶器に移し替えてやったわ」


 確かに秀吉の言うことも一理はあった。

明に対する勝率はともかくとして、明との貿易に依存してばかりでは通貨の価値が下がる。

何よりももうこの国では相当なことが無い限りはもう戦が起こることは無い。

戦が無いということは数多くの武士がその食い扶持を失うということだ。

この世界は常に殺し合わなければ明日の飯に困る者がいる。

そうなってしまえば、豊臣家家中の者の中にさえ、

不平不満を口にするものが現れる。

一国一城の主というものは、部下にやりがいのある仕事を与え続ける者のことをいう。

太平の世の中になるということは、彼らの武の誇りを発散する好機が永遠に失われるということと同義であった。


「殺し合わなければならぬ。戦じゃ、戦をすればいい。

 君臣には首手柄を与え、儂は地球儀を眺める。海の向こうまで見渡せば、

 それは信長様でさえ成し遂げられなかった偉業ではないか

 のう利休、のう……利休? お主ほどの切れ者であればこそ、

 お主なら理解することも容易かろう……」


 秀吉は昔、北条征伐の際に富士の山の近くの神社に立ち寄り、

かの鎌倉公方の起源、武家社会の成り立ちを起こした源頼朝公の像を前に、

〝儂は頼朝公でさえできぬことをやったのだ〟と宣言したことがあった。

それは酔狂なことであった。だが、それでもまだ秀吉には超えられぬものがあった。


(このご老体は未だに……

草鞋を温めていた主君の天下を霞め取ったことへの積年の醜悪たる遺憾の念があるのだ……)


天下餅を盗み食いしたのは、木から落ちた〝金柑〟を拾い食ったのは、他でもないその大猿であった。


「……はい。殿下ほどの御仁であれば、この世にできぬことなどありませぬ」

「なんだその顔は」


利休の歯切れが一段と悪くなった。


「恐れながら殿下……一度その空になった茶器をお返しいただけませぬか? 」


 秀吉はなんだ、そんなことかと言わんばかりに空になった茶器を乱暴に返す。

もうその茶器は一滴たりとも入ってはいなかった。

そこから垣間見える秀吉の笑みにただただ利休は無言で受け取った。

そしてもう一度、その茶器にお茶を注いだ。


「殿下」


湯気に色がついているようであった。


「……なんじゃ」


秀吉から笑みが消えた。利休の言い分を今か今かと待ち構えた。


「殿下はその大きく、絢爛豪華な金の茶器に入っているお茶を……

 全てお飲みになられるのですか? 」

「何を世迷言を言っておる。当たり前ではないか、儂は飲むぞ。全てを呑みこむ」


利休が問いたのはそこではなく、


「殿下、貴方はこの世で最も豪華な茶器で、最も美味である茶をお飲みになる。

 それもこの世の全てに見立てて、確かにたんとお飲み切られるのでしょう。

 この世の贅の限りを手中に収めんとする。ですが……」


秀吉の目色が変わる。


「茶の湯というのは酌の量ではないのです。

 例え腹に沢山収めてしまっても、次の日には糞尿となってしまう。

 人は生きるために喰わねばならぬ、呑まねばならぬ。

 生きるために飲むのであれば、多大な量は欲するべきでございます。

 だが茶の道は違うございます。茶は、少なきにこそ美しく、美味である。

 礼の道であることろでございますれば、仏の道に通じるものでございます。

 禅と同じ、〝時〟を呑むのでございます。

 この人の業たる修羅の世の中におきまして、

 癒しの〝時〟を、〝場〟を呑んで、心を癒すものでございますれば……」


秀吉は立ち上がった。


「黙れ!! お主は儂の茶道を否定するというのか!? 」


利休は目を閉じて答える。


「否定するとは言っておりませぬ。

 殿下は巨大なる黄金なる茶器で、多くのお茶を飲むことにばかり執心していらっしゃる。

 ですがそれをもって殿下の心を癒す〝時〟に、〝場〟になりましょうか?

 多くの武者を殺し、この世の雄となり、天下に覇を唱えようと、

 自身を癒さねば、勝ち取った物も虚しくございます」


利休は何も恐れてなどいなかった。


「利休、お主の言い分はようわかった。

 茶には量や派手さは問題ではなく、そこに至るこの煉獄たる世を生きるために、禊を行い、英気を取り戻す物であるということか? 」


秀吉のシワの寄った目尻がまたひん曲がった。


「左様でございます」


秀吉にも思うところがあり、そこの考えに至るために怒りを堪えたようであった。


「なれば儂は間違ってはおらんではないか?

 天下に一品しか存ぜぬ名器を諸将の前に見せつけ、

 大阪や京を斡旋する大きな茶会を開き、民草に威厳を見せる。

 諸将は儂の品位に頭を垂れ、儂の首を取ろうという気持ちを削がれ、

 民草は儂の権威にひれ伏し、茶というおこぼれを求め平伏する。

 この世で儂に仇を成すやからがいなくなることこそが、

 儂にとって、ひいてはこの国にとっての〝癒し〟ではないのか?

 えぇ利休、答えて見よ」


利休は微動だにせず返す。


「そこに殿下の御心はございますか? 」


秀吉の装束にシワが入る。


「倉の中の金銀財宝を見せつけるこが、

 殿下にとっての憩いの時になるのでございましょうか?

 この世というものは、殿下にあだ名す者を亡き者にすることで、

 全てが癒されるのでございましょうか? 」


秀吉の中に住まう第六天魔王の影が、燃え盛る本能寺の中から言う。


「……信長様なら、そうした」


「信長様なら、全てを燃やし尽くすことこそを、〝憩い〟とした。

 この世の全ての業を癒すといいながら、肉を貪り、女を抱き、

 弱きものを搾取した本願寺も、延暦寺も、願正寺も……

 焼いた。焼いた。焼いたのだ。お主も知っておるだろう?

 天下統一を成し、未だに不満を持つ者を権威を持って打ち倒す。

 これを愉悦とすることの何が可笑しい。

 儂は信長様と同じことをやっているだけじゃ

 何一つ間違っておらんではないか」



利休は言った。



「しかし殿下は信長公ではございませぬ」



 カチンという金属と金属がぶつかるような音がした。

秀吉が自分の茶器を投げ捨てたのだ。乾いた音がする。

その茶器は美濃や近江の名器であったが、今はそんなことはどうでもよかった。


「利休、貴様」


利休は続ける。


「人の数だけ〝憩い〟の数がございます。

 そのことは真実でございますれば、なれど、

 殿下は信長公を超えると表明されたお方、であれば……

 信長公と同じ答えにはなりますまい」


 信長が憎かったのは〝乱世〟という社会構造そのものだ。

織田信長という男は悪鬼羅刹の如く〝乱世〟を憎んでいた。だから殺した。

生臭坊主も、足利幕府も、浅井朝倉も、本願寺も武田も、

燃やして、火縄銃を打ち、囲い、虐殺を行い、暴虐の限りを尽くした。

稀代の革命児は、日ノ本の憎しみを全て背負って死ぬつもりだった。

彼の人生はそれだけが全てで、それだけで良かった。

母親の腹の中にいた頃から、乳母の乳首を噛みちぎったその時から、

彼はそのためだけにこの世に存在していた。だから何もかもを燃やした。

憎み切れない社会悪を全て殺し、その報復を全て請け負って死ぬつもりだった。

織田信長という男は、破壊と創造の機能であり、神であった。


「殿下は信長様の野望を継ぎ、この国土を切り従えなさった。

 そのことはまさしく神に勝るとも劣らない所業……

 ですがあなた自身は機能となること自体は拒否なされた。

 欲に従い、その上を望まんとしておられる。

 信長公は南蛮の異教を寛容に受け入れつつ、

 古来の仏教と討論を行う機会も設け、

 その上で天下万民の為にはそれらは遠回りの道であると結論に至ったが故に、

 自らを第六天魔王とさえ自称した」


「黙れ」


「ですが殿下は違う。国の機能であることを拒み、

 宗派の優劣に対する責任を負わず、

 茶の湯を権威の道具として見れてはいない。

 手柄を上げ、金銀の限りを手に入れ、敵を打ち滅ぼしたとしても、

 心のあり処に穢れがあるのであれば、それを癒しとはいわず、

 ましてや殿下の財は、殿下の手に余る財である。

 殿下はわずかな財で心を豊かにできるという境地を否定し、

 にもかかわらず、自分の心を癒す財の使い方を知らのうございます」


 一休宗純が確立し、足利義政公が整えた〝詫び寂び〟の本質

後に〝和風建築〟の概念に繋がる銀閣寺や質素倹約の精神


「それらを受け入れることをよしとせず、

 されど神になることもなく、人としても業の限りを尽くし、

 権威の力で他を制圧する道具として、茶器を使い……

 それだけにとどまらず、異国の地を滅ぼそうとする……」


 利休の首が突然コクンと落ちた。急に重力を得た甲冑のような落下だった。

その演出の妙に秀吉は心底気持ちが悪い老人だと思った。



「殿下は信長様の代わりにはなれませぬ。

 殿下には殿下の〝憩い〟というものがありましょう。

 どちらにも迎合すればいいといものではありませぬ。

 茶器は〝飾り〟……強弱も貧富も美醜もありませぬ。

 朝鮮に出兵を致すことにも反対は致しませぬ。

 明の通貨がどうなろうと、殿下の家臣の不満がどうなろうと、

 それはあなたが抱えるべき問題にございます。好きになされればいい。

 〝数寄〟に寄るも酔狂、天下人が皆、信長公の様になるわけではありませぬ」



秀吉は度を超えた怒りに整頓が付かず、言葉に詰まっていく。



「私には私の茶の道があります。殿下には殿下の茶の道がございましょう

 それは〝憩い〟の為にある物であって、淘汰されるべきではない

 そこを持って信長公が淘汰をしたのは、神を名乗る傲慢と、

 そうまでして乱世を打ち滅ぼしたかったという信念あってこそなのです」


「……」


「殿下が今、財の全てを投じて私よりも茶の道を究めたとしても、

 私の〝憩い〟の〝時〟が消えるわけではありません。

 利害だけでは人は動きませぬ。いかに人使いの才がある殿下だったとしても、

 そこを超えてしまえば、人としての臨界を超えてしまう。

 考えが足りないまま、人としての臨界から外れるということは、

 それは天下人でもなに者でもありませぬ」


「利休」


秀吉が帯刀に手を掛ける。



「それは、愚か者の空虚な所業でございます」 



 秀吉の顔面から血の気が引く。

怒りで滾っていった血が、どうしてだか引いていった。

いっそ清々しい程の屈辱を受けたその老人は、刀を抜こうとした手を下す。



「もうよい」



 その後の豊臣政権の凋落ぶりは今更語るまでもない。

秀長が死に、秀次が死に、二度の朝鮮出兵に失敗し、

秀吉の死後、家中は分裂し、徳川の大タヌキに、石田三成も出し抜かれる形となる。



「……もう、よい。お主の戯言は聞き飽きた」



翌年、千利休は秀吉の命により、切腹をすることとなる。


堺や京を始めとするそうそうたる武将や文化人同士の交流を一手に引き受け、


相談役から政治討論、知略謀略の場まで、



「さらばだ利休」



血と権力と教養を吐き違え、


芸術を得ることで己の空虚な心を満たそうとした戦国武将たちを、


その掌で転がし、裏からコントロールをしようとした稀代の茶人、


千利休はその生涯を終えたのであった。






おしまい


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