1. マタイによる福音書 第七章第十三及び十四節

 数メートル先も見通せない濃霧に包まれた道を歩くような速さで馬車が進んでいる。

 霧で視界が遮られ、道を踏み外せば命の保障は無い御者に取ってランタンは必須だ。

 草木は枯れ果て、血と腐敗臭の匂いで満ちた生命の気配を微塵も感じさせない程に灰色で染められた道に人影が見える。

 彩色の抜け落ちた光景の中に、明らかにただならぬ様相をした男を見て馬を止めた。

 所々錆びて欠落ち、革で修繕された継ぎ接ぎの甲冑を覆い隠すようにボロ衣を纏い、削り取られてはいるが微かに装飾が残る長剣を携え、痩せこけた顔に何日も洗っていない、伸ばしっぱなしの髪と髭を靡かせている。そして微動だにせず既に事切れた息子の亡骸を抱いた男を一瞥し

「乗っていけ」

 ただそう伝えると、男は焦点の合わない目で感謝の言葉を伝え荷台に乗り込んだ。

「行き先は?」

 事情を察したのか、あまりの惨状に目も当てられなかったのか御者は振り向かずに行き先だけを聞く。

「聖ルドヴィア教会まで。」

男は掠れた声でそう告げると、初老の御者は僅かに頷き手綱を引くと馬車は進み出す。

 数年前に起きた傀儡聖戦。

 別世界で命を落とした者を「再誕者」として聖体と聖遺物を用いて受肉させる冒涜的所業によって齎された、聖戦とは名ばかりの厄災によって崩壊の一途を辿りつつある。

 我が子が祖国の為に命を賭し、神の御許に召されたのであればまだ幸運だ。

 多くの者は聖体の端正なる貌と聖遺物が齎す奇蹟によって魅入られ、平伏し、或いは我らを救済せんとする為に再臨されたのだと、感涙に咽び生を授けられたこの地に墜ちた狂信者となって共に穢している。

 その事実に耐えられず自ら命を落とす者も少なくなかった、今や教会へ向かう者の多くがそうだ。

 せめて息絶える時は魂が彷徨わないよう天が導いてくれる事を願い、同じ狂信者となる前に自害するのである。

 悠久の時のような静寂を打ち破るように御者は問いかけた。

「その剣と成りを見るにお前さん、ただの平民の生まれではないな。」

 男は俯いたまま問いに答える。

「この惨劇が起きるまでは、それなりに名のある家柄ではあった、今じゃ何も護れなかった落伍者だ。」

 男は積もった思いを吐き出すように続ける

「私には美麗な調べを奏で他者の心を震わす才も、迸る情熱を筆に乗せ感銘を与える才も無い、只剣を振るい、義によって祖国と教えに尽くす事しか能のない男だ。それでも私が愛する物を守れるならと身を粉にし、この身がどれだけ傷付こうとも祖国と家族の名誉を護り抜き、亡き父上に恥じぬ行いを剣に誓ったがこの有様だ。国どころか、息子に平和と未来一つ築いてやれなかった。何も護ってやることが出来なかった。大切な物が一つずつ、この手から零れ落ちるのをただ眺める事しか出来なかったのだ。」

 雨一つ振りもしない曇天の下、抱えた亡骸の顔に雫が滴り落ちた。


 死ぬ間際ぐらい、好きに話させてやろうと聞いていた御者が口を開く。

「 お前さんはよくやった、お前さんはよくやったよ。天と神が認めないなら俺が証人になってやる。」


 男は「それは頼もしい」と言わんばかりに力無く笑った。


「到着だ。」


 眼前に辛うじて原型を保っていた教会が見える。


「お代はいらん、浮いた金でパンでも買いな。」


 御者は心なしか優しげな口調で言う。


「ありがとう、貴方にも神の導きがあらん事を。」


 男がそう別れの挨拶を告げると堅苦しい事は気に食わんと言わんばかりに振り向かないまま手を振り御者は霧の中に消えていった。


「着いたぞネストロフ、お前の一番のお気に入りの場所だ。」


 まるでまだ生きているかのように美しい亡骸に語りかける。

――幼い頃、男は時折稽古や勉学の時間に抜け出してはこの教会で他の子供と遊んでいた。

 彼と違い身寄りのない戦災孤児の集まりだが、身分や生まれで差別せず隔てなく接し、小鳥の囀りや川のせせらぎ、そしてありのままの自然が齎す恵みの中で、孤児達と苦楽を共にすることに生を実感していた。

 父に見つかっては連れ戻されていたが、同じ男である父も幼い頃は彼と同じであった。

 英雄の冒険譚に憧れる年頃の少年を、檻の中に閉じ込めておく事等不可能である事は父自身が1番理解しており、寧ろペンと剣では学べない事を教えてくれる教会とシスターに内心感謝していたのだ。

 外が如何に危険で不安であることと、中流貴族としての職務に追われ中々話し相手になってやれず、自らそういった場を用意してやれない不甲斐無さに板挟みになっていた複雑な心境から、あまり強くは言えなかったのである。

 やがて男自身も結婚し家庭を築いた。男がそうしたように勉学や稽古に励む中で時間を見つけては教会で息子と共に祈り、自然の中で得た知恵を与え、孤児達に読み書きを教えていた。

 最早そんな時代もあったのか疑わしい程に寂れ、教会の枯れた大樹に願いを託し逝った屍達を見て再び亡骸に目を落とす。


「ネストロフ、情けない父で本当にすまない。お前に何もしてやれなかった、だがどうか許してくれるのであれば来世で最愛の妻オリガと共に巡り合い、又一緒に花冠を作ろう」

 亡骸を樹の下に、赤子をベッドに乗せるようにゆっくりと置き、一振りのナイフを取り出す。

 刀身が首元に食い込み、喉元を切り裂く瞬間に突如後ろから問いかける声を聞いた。


「――その微かに残った剣と甲冑の装飾、貴方はもしやセルジオ様ではありませんか?」



 

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