ラベンダーの置き土産

栗尾りお

ラベンダーの置き土産

 「……遅いな」


 道路脇に止めた車の中で1人つぶやく。

 助手席の窓から家の方を見るが、まだ出てくる気配は無い。それどころか、耳を澄ますとドタバタと騒がしい音がここまで聞こえる。


 多分あと10分はかかる。いつもそうだ。あいつの遅刻癖は一生治らないんだろう。


 ポケットの中でスマホが震える。取り出すとバイトの連絡に混ざり、催促するメッセージが来ていた。


 「うわ、めっちゃ怒ってる」


 何度か送られて来たメッセージを確認し、取り敢えず「渋滞に捕まった」と嘘の報告を入れる。そして大きく息を吐いてからポケットに捩じ込んだ。


 ふと外を見ると、子供たちが車の隣を駆け抜けて行く。

 小学生、いや幼稚園児だろうか。長男らしき男の子が先頭を走り、それに続くように女の子を走る。その少し後ろを1番小さい男の子がよちよち走りで追いかける。


 「……泣きそう」


 ハンドルにもたれるようにして、子供たちを見守る。よちよち走りの男の子と先頭との間は徐々に広がっていく。歩幅も違うし筋力も違う。少し考えれば分かるはずなのに、先頭を走る少年には目の前の光景しか頭にないのだろう。

 しがらみを気にせず走る。そんな今を生きる彼がどこか羨ましく感じた。


 しばらくしてよちよち歩きの男の子が追いかけるのを諦める。楽しそうに追いかけていた顔は一気に歪み、耳をつんざく泣き声が休日の住宅街に響いた。

 普段から弟の世話をしているのだろう。前を走る2人はすぐさま向きを変え、男の子のもとに駆け寄る。すでに泣き止んだ弟をそれでも慰める兄妹。3人仲良く手を繋ぎ、歩き出す頃にはきっと笑顔になっているのだろう。


 泣くだけで周りが止まってくれる甘ったるい世界。目の前の平和な光景がそう見えてしまう俺はひどく歪んでいるんだろう。

 醜い自分を追い出すように再度大きく息を吐く。しかし少し窓を開けただけの車内では、重く濁った空気は出て行かない。


 しばらくして家の扉が開く音がする。顔を上げると背の高い女性が電話をしながら現れた。


 丸みをおびたショートボブ。丁寧に手入れされた黒色の髪は初夏の日差しを反射させる。シャツとデニムというありふれた格好。それなのに絵になるのは玄関前に咲いたラベンダーのせいだろうか。

 スニーカーのつま先を何度か地面に叩きつけ、小走りでこちらに駆けてくる。

 動くたびに見える薄紫のピアス。夏の日差しに負けないくらい眩しい肌。子供のように輝く大きな瞳。

 玄関から車までの何気ない時間がコマ送りのようにゆっくり流れ、脳に刻まれていく。


 電話を終えた幼なじみの明日香はそのまま助手席の扉を開けて車に乗り込んだ。


 灰色だった車内の空気が一瞬にしてラベンダー色に変わる。


 明日香お気に入りの柔軟剤。俺は強い匂いはあまり得意ではない。だが、この匂いだけは違う。それはきっと匂いだけでこいつの笑顔が思い浮かぶからなんだろう。


 「何でエアコンつけないの? プチサウナ?」


 「あ、悪い。いつもの癖で」


 慌ててエンジンをかけ、エアコンをつける。車の振動と共に前方から風が音を出しながら吹き出る。最初は生ぬるい風もすぐに冷たい風に変わっていく。


 風量を調節するふりをして助手席に座る明日香に視線をやる。

 鼻歌を歌いながらシートベルトをしていく明日香。この感じだと遅刻したことなど気にも止めていなさそうだ。


 「ほい、準備完了! 優次出発していいよ」


 「出発していいよって……明日香、これ絶対遅刻だぞ」


 「大丈夫大丈夫。だってプリンセス界のプリンセスのシンデレラだって12時には間に合わなかったんだよ。むしろ女の子が遅れることが正義みたいな感じあるじゃん」


 「お前1回怒られろ」


 「安心して。さっきの電話で既に怒られています」


 ニシシと笑う明日香に呆れながら俺はエンジンをかけた。少し速度を上げつつ、それでも冷静に式場を目指していく。


 だらしないがこれでも今日の主役なのだ。いくら遅刻しようが、いくら反省していながら方が、こいつが『花嫁』である事実は揺るがない。


 よく知った道をすすむ。子供の頃は王国のように感じていたこの町も大人になると、小さな町に変わる。

 さっき通り過ぎた子供たちぐらいの頃から明日香とは面識があった。暇さえあれば外に出て遊ぶ日々。今走る何気ない道ですら思い出が詰まっているのに、車窓から見える一瞬では感情に浸ることすら出来ない。


 もっと時間があれば。


 いろいろ話したい気持ちを押し殺して、アクセルを強く踏んだ。


 右折左折を繰り返し大通りに出る。急ぐ気持ちと裏腹に車の進みは悪い。LANEでついた嘘もあながち間違いにはならなそうだ。


 「あ、お腹すいた」


 「え?」


 「ほら、あそこにコンビニあるじゃん」


 プレイリストの曲を楽しんでいた明日香が急に前方指差す。指差す先にはアイスが描かれた幟が立っていた。

 遅刻確定の明日香に寄り道をしている暇なんてない。それでも本能を貫くのが俺の幼馴染だ。


 「状況分かってる?」


 「いいじゃん。生命活動の維持には欠かせない行為だよ」


 「ただの買い食いだろうが。ウエディングドレス着られなくなっても知らないからな」


 「あー、それは困る。あれマジで綺麗だったでしょ? 優次電話の向こうで泣いてたもんね」


 「泣いてねえし。勝手に話作んな」


 「でも早く見せたいなー。どんな反応してくれるんだろう」


 ニシシと聞き慣れた笑い声がする。

 コンビニを通り過ぎることは出来た。しかし一瞬見えた照れた横顔に胸が締め付けられる。


 自慢したい時。勝ち誇った時。照れ隠しをする時。強がっている時。仲直りした時。励ましてくれている時。決まって明日香はこう笑う。


 目を閉じていても簡単に想像できる。それ程までに明日香との日々が俺の中に深く刻み込まれていた。


 「ん? 優次、今の右じゃない?」


 「え、マジ⁈ うわっ! ミスった!」


 「おいおい、頼むよー。浮かれる気持ちは分かるけどさー」


 道を間違えた俺を明日香が楽しそうにからかう。


 まずい。意識が完全にどこかにいっていた。今運転中だ。ただでさえ遅れているのにこれ以上トラブルで遅れたくない。

 それに結婚式当日に事故起こすなんて、そんな笑えないことしたくは無い。


 気合を入れるように深呼吸をする。

 すると、忘れかけていた。ラベンダーの香りが鼻先をかすめる。


 「そういえば、この辺りの式場にしたんだな。てっきりラベンダーが見える場所でやると思ってた」


 「あー、富良野とかねー。そこでやりたかったってのは正直ある。でも遠いじゃん? 親とかに無理させたくないなーって。友達もこっちの方が集まりやすいでしょ?」


 「たしかにそうだけど」


 「というわけで明日香ちゃんの夢は叶いませんでしたー。残念!」


 「次は――」


 慌てて口をつぐむ。しかし、一度出てしまった言葉は戻らない。誤魔化す余裕もなく、ただ黙り込むことしか出来なかった。

 絶対に言ってはいけない言葉だった。普段の俺なら頭に浮かんでも口にすることはなかったのに。

 明日香なりに悩んで悩み抜いて出した答えのはず。その答えに俺が文句を言う資格はない。それに次の式の話なんて――


 「……うん、2回式を挙げるのもいいね! じゃあ次の挙式は富良野に決定! 式代全部、優次の奢りねー。よし、300万くらいの儲けかな? ラッキー!」


 「え、ちょっ! え? 待って⁈ 俺が奢るの⁈」


 「全部冗談だってー。お主もまだまだじゃのー。それより事故んなよ。世界で1番可愛い花嫁乗せてるんだから」


 分かりやすく運転が乱れる俺を明日香はニシシと笑う。


 ちょっとした冗談を俺が本気にして、それをからかわれて、たくさん笑って、たまに喧嘩して、お互い謝って、また笑って。


 いつからだろう。そんな当たり前をずっと続けていきたいと思うようになっていた。


 兄の背中を追うようにして有名大学に入学した俺たち。しばらくは夢のような生活が続いていた。

 そのままいけば安泰が将来が待っていたんだろう。


 しかし俺は次第に楽する道を選んだ。


 地獄のような受験勉強が終わり、新しく始まる大学生活に心を躍らせていた。

 大学、バイト、サークル。今までとは比べ物にならないほど人脈や行動範囲が広がり、自由に使える金や時間が増える。勉強から解放された俺が誘惑に染まりきるにはそう時間はかからなかった。

 

 全部の授業に出る必要はない。誰かからノートを借りればテストを乗り切れる。4年の間に単位を取り切ればいい。


 楽をすることを追求した先輩からの言葉を真に受けて遊び尽くす日々。金が無くなればバイトに入り、それでも足りなければ親にせびる。


 『大丈夫、俺天才だから。この大学にも合格できたし』


 問い詰められる度に使っていた誤魔化しも、次第に心が痛くなっていた。ふとした瞬間によぎる不安。それを塗り潰すように遊びに没頭する。幾重にも塗り潰された心は気付けばひび割れていた。


 何度も俺に注意する明日香の言葉を無視して最低限の出席に最低の履修を続ける。最初は感じていた卒業ギリギリの生活へのスリルもなくなり、どうすることもできない現実だけが残った。

 中退し大卒の切符がなくなった俺には未来を好きに選べる権利はない。悩んだ挙句バイトを掛け持ちし、謝罪代わりに給料の一部を家に入れる。

 やっていることは自己満足。それが分かっているから心にいつも穴が空いたままだった。


 お手本のような道を進む明日香と道を外れた俺。


 人を好きになるのは自由と誰かが言っていた。たしかに『好きになるのは』自由なんだろう。だが、その先はどうだ?


 結婚して幸せに満ちた生活が始まる。俺は稼ぎが少ないから共働きで生活していくんだろう。

 共働きが出来る間はいい。だが、明日香にもしものことがあったら? 子供が産まれたとしても養っていけるのか。いつまでフリーターとして働けるのか。

 幸せな光景を食い荒らすほどの不安が頭の中を埋め尽くす。


 想いを寄せる俺にもう1人の俺が何度も尋ねてくる。


 「お前なんかが好きになっていいのか」と。


 俺じゃ明日香を幸せに出来ない。本当は分かっている。しかし止められないこの気持ちも本当だ。


 最初からこの場所に生まれなければよかった。ただの知り合いなら憧れで済んでいたのに。


 「……いいのかな」


 隣から小さな呟きが聞こえた。


 ちらっと横を見ると少し俯いたまま微笑む姿が見えた。

 口元は笑っている。しかし呆然と一点を見つめる目はどこか悲しげだった。


 「憧れだった人の『お嫁さん』って言う特等席。そんな世界にたった1つしかない所に私が座っていいのかなって……」


 嘘偽りのない彼女の本音。曲が終わり次の曲に移る一瞬の静寂がとても長く感じる。


 「ごめん、私らしくないよね! ヤバっ、今更路線変えるのかー」


 車内に流れる微妙な空気に気付き、すぐに明るい笑い声で誤魔化す。それでも一度開けてしまった感情は止まることはなかった。


 「でもさ、割と真面目に思ってるんだよ。私よりピッタリな人がいるんじゃないか。何かあった時、お嫁さんとして支えてあげられるのか。いつまで理想のお嫁さんとして頑張れるのか。まだまだあるし、思いつくたびに感じるんだ。私なんかでよかったのかって」


 「……」


 「いやー、ごめんねー。あと5分くらいで着くのに。いきなりどうしたんだって話だよねー」


 「……いや。その気持ち分かる」


 「えー、本当? 無理してない?」


 「ああ。痛いほど分かる」


 愛する人に幸せになってほしい。その気持ちが強ければ強いほど不安になる。


 だから何度も尋ねる。『自分でいいのかと』


 自分で選んだ道なのに正解なのか自分では分からない。その場しのぎで自分に言い聞かせても、すぐに不安は生まれてくる。


 素直に肯定してあげれば少しは不安もマシになるんだろう。ただ、その言葉をかけるのは俺ではない。


 







 とあるバイト終わりの日。いつも通り玄関を開けると見慣れない靴が並んでいた。耳を澄ますと談笑が聞こえる。


 来客か。にしても、この声どこかで聞いたことが。


 暗い廊下を足音を殺し進む。緊張よりなぜか懐かしい気持ちになる。壁に背中を付け、そっとリビングを覗いた。


 テーブルにコーヒーとクッキーが並べられている。滅多に使うことのないティーカップと皿。後ろ姿だけで両親のあからさまな気合いの入り方が伝わってくる。


 両親の向かいに座る人物。その光景から逃げるように俺は廊下に体を引っ込めた。


 見たのはほんの一瞬のはず。それでも焼きついた光景は消えない。


 一流企業に勤める兄。その隣で少し緊張した表情で座る明日香。

 会話の流れは知らない。だがリビングを満たす幸せな空気に全てを悟ってしまった。


 後頭部を壁につけるように上を向き目を瞑る。そして静かに長く深い息を吐いた。

 脳裏に映る明日香との思い出がウザい。いくら別のことを考えても次から次へと出てくる。これだから幼馴染は嫌いだ。この場所に生まれたくなかった。


 理性で全てを押し込んでからリビングに顔を出す。恐らくそれらしい演技とそれらしい言葉で2人を祝福したのだろう。今となっては記憶に残っていない。








 ドアを開けた途端セミの合唱に歓迎される。車から降りると初夏の風が頬を撫でた。

 見上げた空の青と入道雲の白のコントラストが美しい。このままどこかに行けたら。青草の匂いを感じながら、そんなことを考えてしまう。


 隣を見ると助手席から降りた明日香が大きく伸びをしていた。空に向かってつき上げられた腕が輝いて見えるのは、まだ恋心が残っているからだろうか。


 「いやー、ありがとね。優次がいてくれて本当助かった」


 「別に。これくらいなら、いつでもやるし」


 「優男だねー」


 車の屋根に頬杖を付き、からかうようにでニシシと笑う。

 髪、服装、仕草、表情、視線、匂い、音。何気ない日常の一コマに過ぎないはず。それでも、ここから見える全てがいつもより鮮明に感じる。

 きっとこの光景は二度と見ることはない。それでもふとした瞬間に何度でも思い出すんだろう。


 毎日この笑顔が見たい。こいつのために生きてこいつの隣で死にたい。まだ間に合うのだろうか。こいつを連れてどこか遠くへ。

 2メートルにも満たない距離。手を伸ばせばが届くのに車に隔たれたこの距離が酷く遠く感じる。

 

 耐えられなくなり、逃げるように後ろを向く。そして車にもたれスマホを取り出した。


 「時間やばいぞ。喋ってないで早く行け」


 「えー、つれないなー」


 後ろからセミの鳴き声に混ざりガサガサと荷物を取り出す音が聞こえる。

 今は冷たくあしらわれて不貞腐れているが、そのうち鼻歌でも歌い出すんだろう。荷物をまとめ終える頃には何に怒っていたか忘れているかも知れない。どれだけ喧嘩しても次の日には何食わぬ顔で話しかけてくる。そういうところは昔から変わらない。


 ふっと暗くなった画面に我に帰る。


 後ろ向いたはずなのに気を抜けば明日香のことを考えてしまう。ここまで来てもなお、縋っている自分に笑ってしまいそうになる。


 バタン!


 背中にドアが閉まる振動が伝わる。


 「じゃあ私行くね」


 「明日香!」


 呼び止めるつもりはなかった。無駄だと分かっていたから。傷つくだけだと分かっていたから。

 だが気づいた時には、俺の視線の先に明日香の後ろ姿があった。


 「どうしたの?」


 不思議そうに見つめる明日香の髪を乾いた風がなびかせる。願わくばずっと見ていたかった。

 しかし思うようにはいかない。


 風が止み静寂が流れる。


 ここで想いを伝えれば楽になるのだろう。ただ伝えた先で明日香は笑ってくれるのか。どうせ自己満足なら明日香には笑っていてほしい。


 「……兄貴のこと好き?」


 「うん、好き……世界で1番愛してる」


 繰り返し言葉を選んだ末の質問に、静かで落ち着いた声で答えが返ってくる。


 少し上がった口角。頬はまだ赤い。だがそれを恥じる様子はなく、優しく前を見据える。

 その目に写っているのは俺なのか。それとも未来の景色なのか。分かるのは幸せに満ち溢れていることだけ。


 でも、それだけ分かれば充分だ。


 「……そっか」


 「何? もしかして聞いただけ?」


 「……ああ、聞いただけ」


 「はぁ? ふざけんなよー! 今の凄い恥ずかしかったんだから!」


 「あははっ! ごめん、ごめん」


 慣れない拳を振り上げる。届くはずがないと分かっているのに、後ろに下がりバカして笑う。

 やっていることは中学生レベル。しかし叶わない想いを伝えるよりかは、ずっとマシだった。


 一通り笑い合って一息つく。そして少し怒った表情の明日香を再度真剣に見つめる。

 

 「明日香」


 「何⁈」


 「結婚おめでとう」


 明日香が愛した人と一緒になる。

 今の俺が望める1番の幸せだ。兄は優しいし頼りになる。稼ぎもあるからいい旦那さん、ゆくゆくはいいお父さんになるんだろう。そんな兄を明日香が隣で支える。絵に描いたような幸せな家庭だ。


 幸せが始まるこの瞬間、俺はちゃんと笑えているだろうか。


 「ありがと。優次もいい人見つけなよー」


 「ありがとう」


 ニシシと笑った明日香が再び振り返る。そして一歩踏み出した。


 普段気にならない足音が大きく感じる。道を進む足は止まることはない。大きく感じた足音も次第にセミの鳴き声に染まっていく。

 見慣れた後ろ姿が遠のいていく。届かないと分かっていながら手を伸ばしてしまう。


 行き場を失った手をごまかすように車の屋根の上に置く。


 明日香は振り返る事は無い。それを知りながらもなお無理やり微笑んで彼女を見守る。


 これでいい。これでいいんだ。明日香の幸せが俺の幸せだから、明日香の幸せを笑って見ていたいから。


 心の中で何度も言い聞かせる


 駐車場から式場まで歩く、たったそれだけの時間。気の遠くなるような時間がようやく終わる。気づけば屋根の上に置かれたては固く握り占められていた。


 「……行ったか」


 明日香が式場に入るのを確認してからすぐ車に乗り込む。気が抜けたのか、自然と大きなため息が出た。全身に込められていた力が抜けていくのを感じる。


 ひとまず明日香を送る仕事は終わった。次は家に帰っていろいろ準備をしてから親を乗せてここに来る。今日は無理やり入れられた夜勤もあるから、どこかで仮眠を取っておきたい。

 やることはまだある。早くここを出発しなければ。でも呼吸をするたびに感じるラベンダーの香りが集中力をまぎらわせてくる。


 なかなか動かない俺を急かすように、車内の温度がじわじわと上がっていく。ここに来るまでは冷房をついていたはずなのに。

 やはり夏の日差しは厄介だ。さっきまで気持ち良いと感じていた青空が急に恨めしく感じる。


 少し窓を開けようとしていた手が止まる。


 ラベンダーの香りを逃したくない。理由はたったそれだけだった。


 本来なら消し去ってしまうのがいいんだろう、全て忘れて前に進むのがいいんだろう。

 幸せそうなあいつの笑顔。堕落した自分への怒り。隣にいられない事実。

 息を吸うたび、それらが変わり様のない現実だと突きつけられるから。


 それでもこの香りだけは。この気持ちだけは消したくなかった。


 叶わない未来と知りながら、残された些細な期待にすがる。そんな自分に呆れつつエンジンをかけた。

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