Chapter 3-2

 シオンは気が付くとショッピングモールの人ごみの中にいた。買い物客でごったがえすドーム状の建物の中で、突然こんな場所に放り込まれたように感じたシオンは驚いてすっ転んでしまう。


「わ、す、済みません!」


 倒れた拍子にぶつかった人は迷惑そうにシオンを一瞥しただけで去っていった。シオンも気が動転していてそれ以上は何も言えなかった。


「シオン?」


 声に振り返れば、心配そうに彼を見る母の姿がある。彼女を見た瞬間シオンの中で全て合点がいき、驚くほどあっさりと落ち着きを取り戻した。不思議な感覚だった。一瞬、自分が何をしていたのか分からなくなってしまうなんて。こんなこともあるんだとシオンは苦笑して、母の元に歩み寄る。


「どうしたの、急に転んだりして。何かに躓いたの?」


 どう答えたものかとシオンは考えあぐねて、結局はぐらかすことにした。無理やりはにかんで言葉を濁す。


「うん、まあ……。そんなとこ」


 気をつけなさいよという母の言葉に、わかってるよと返してこの一件はなんとか収まったようだ。そのまま変わらぬ足取りで目的の店を目指す。母の買い物に付き合ってここまで来てみたがシオンには特に欲しい物はなかった。買いたいCDや本がないことはないが、今月の小遣いの残りを考えれば諦めるのが賢明であった。それに荷物運びか何かを手伝えば本一冊程度のサービスはしてもらえるかもしれないという淡い期待もある。


 何の不安もなく、シオンは店の自動ドアを潜った。


     ※     ※     ※


 ラファが帰宅すると妻はそのお腹をさすりながら彼を迎えた。にっこりとほほ笑む彼女を見て、ラファは喜びから彼女を抱きしめた。


「ちょ、ちょっとあなた、あんまり締め付けられるとお腹が……」

「あ、ああ、すみません! ……でも、本当によかった」


 ラファは慌てて腕の力を緩める。あまりの嬉しさについ加減が利かなかったようだ。苦笑しながら、ラファは心の底からの安堵を覚えた。かつては銃を握っていたといい、何の財産もなく彷徨っていた彼女と結ばれることに周囲の人間は悉く反対の意を示していた。修験者として彼女に出会った時にはまさかこうなるとは思ってもいなかったが、自分が助けた女性がこうして人並みの幸せを得られていること自体にラファは喜びと、自身の行いの正しさを実感していた。


     ※     ※     ※


「なるほど、失われた世界とその可能性か」


 右目に千里眼という物事の本質を完璧に見抜く特殊能力を持つが故に、ミステリアスアイの異名を持つ大魔法使い赤羽サツキにとってこの程度の幻術を見破るのは造作もなかった。


 サツキは事務机から立ち上がり、ソファで呑気に寝息を立てている辰真を叩き起こす。ソファを無理矢理ひっくり返されて当惑しつつも、辰真はゆっくりと起き上がる。


 赤羽サツキの事務所というこのオフィスビルの三階に位置する空間は確かに、どこからどうみても彼女の理想の空間である。だが決して、今この場にいる赤羽サツキの経営する事務所などではなく、ましてやこのビルが彼女の所有物など持っての他なのだ。何故ならここはこの赤羽サツキと扇空寺辰真が生きている世界ではないのだから。


「………………」


 サツキの説明を聞いて尚、辰真は視線を中空に彷徨わせている。まあ、期待はしていない。


「つまり……、どういうことだ?」


 サツキはテーブルをひょいと持ち上げて思い切り辰真の頭に叩き付けた。期待はしていないが憂さ晴らしはさせてもらう。それにまだ幻術の影響が残っているようだから丁度いい目覚ましになるだろう。


「よーく思い出せ。元魔どもを振り切った私たちを襲った衝撃があったろう。あの空間が実はそういう作用の働く力場と化していてな。幻術の一種と同じ効果を持つ。この幻術によって私たちが閉じ込められたのがこの、既に滅びた世界というわけだ」

「滅びた? 幻覚とはいえ立派に機能してんだろ、この世界は」


 それに幻覚なら滅びてようがなかろうが関係ないだろ、とはサツキが怖くて口には出せなかった。


「まあ、幻覚だからな。ここはこの世界の私たちが暮らしていたが、もう滅びてしまった世界だ。この平行世界自体は実在していて、私とお前はここで共に仕事をする間柄だったようだな。しかし、滅びてしまった」

「ラグナロク……か」


 サツキは頷いた。この世界に訪れた災厄、終焉の魔神ラグナロクは情け容赦なくこの世界そのものを終焉りへと導いた。残されているのは世界の残滓に過ぎないだろう。全ては幻覚に過ぎず、蓋を開けてみればまともな生命はこの世界に閉じ込められたサツキと辰真だけだ。


「この世界を抜け出すことができれば、お前にも崩壊した世界を目の当たりにすることができるだろうな。幻術自体は単純なものだ。これは世界が滅びなかった場合の可能性を視せているに過ぎない。それに滅びていることは関係あるぞ」


 自分の呑み込んだ言葉を当てられて辰真はぎくりとしたが、サツキは特に何を咎めるでもなく続ける。


「既に滅びてこそいるが、私たちにはこの世界に生きていたものとしての身体がある。それはラファとシオンも同じだ。この世界か、また別の世界かは分からんが、あの二人にも自身と同等の身体が存在した世界がある。だが」


 サツキは一旦言葉を切った。


「今の私たちにこの世界を抜け出す術はない」

「大丈夫よ、サツキ、辰真。私に任せておいて」


 どこからともなく現れたのはイリスであった。サツキと並ぶ大魔法使いである彼女も、このような幻術はもろともしないのだろう。左右対称の金色のツインテールを揺らして、イリスはサツキと辰真の顔を交互に見やる。


「世界を渡る力を持つ私になら、この幻術を破ることができるわ。あなたたちとは違ってシオンとラファは幻術の真っただ中でしょうから、まずは二人を助けないといけないけれど」


 イリスは掌を広げた。眩い光がそこに集まって行き、球体を形成する。その球体の中に浮かび上がる二人の姿があった。シオンとラファである。彼らは死の灰に染まった世界の中で寄り添うように横たわっていた。目を覚ます気配のない二人は今まさに永遠に覚めない夢の中に閉じ込められている。


「イリス。……二人を、頼むぜ」

「ええ。待っていて辰真。絶対にこの世界から抜け出して見せるわ」


 イリスの姿は灰燼に帰すかのように光の粒となって消えていった。

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