感覚小説集

日比谷野あやめ

ブローデン・ホライズン

「と、言うわけでこの時期には日本だけでなく、世界中のありとあらゆる国民が視力を失っていたわけだな」


 教室に先生の声が響き渡る。皆6時間目の授業で疲れ切っているのか、窓から冬の冷たい風が吹いてくるにも関わらず、聞いている限り規則正しい呼吸の人が多い気がする。なんで体育の後に歴史の授業なんてするかな?身体を動かす授業とただ聞くだけの授業なんて相性が悪いに決まってる。しかもこの話、小学校の頃から何遍も聞かされてるし。

 仕方ないので、机の上の「教科書」に載っている「世界地図」を弄ってやる。ここがオーストラリア、ここがアフリカ大陸、そしてここが日本。やっぱり大陸とか島国の方が物体として掴みやすいから覚えやすい。その中の国ってなると小さくて手で掴みにくいから、正直覚えるまでに苦労した覚えがある。パズルみたいに自分で当てはめていくのだ。でも、最初に掴んだピースがどの大陸か分からないと組み立てようがなくってさ……本当に地理って嫌い。

 「世界地図」は飽きたので、次のページの「地球」をいじる。それにしても、この「地球」というのはつくづく変な星だ。てっきり土地しかないと思っていたら、なんとこの地面は「海」という大きな水の塊?みたいなものに囲まれているらしい。そのおかげで、綺麗な球体のはずの「地球」は触るとぴちゃぴちゃと音がして、私の手に合わせて多少形を変える。しかも海の水というのは普通の水とは違いしょっぱいらしい。まぁ、ちゃんと地続きになっているから、足を踏み外したら最後!みたいなことにはならないらしいけど。決められた生活区域から出ない私たちには関係のない話だ。地理だってそうだ。私たちはどうせ自由には動けない。世界中の土地を学んだって意味がない。


「じゃあ、今日はここまで!号令!」

「起立、気をつけ、礼、ありがとうございました!」


 そうこうしている間に予鈴がなった。やっと終わったよ〜。さあて、今日は何しようかな。今日はテスト前で部活も無いし、カフェで新作のパフェでも食べるかな?それとも家に帰ってリズムゲームでもしようかな?とにかく、家に帰って大人しく勉強っていう選択肢はないよね!


「ただいま〜」

「あ"、お、おかえり、なざ、い」

「……今日、お母さんいる?」

「き、きよう、おやつは、りんご、らよ?」

「そ、わかった」


 どもった声で、家には姉しかいないことがわかった。私の姉は障害者だ。人類の約90%が視力を失ったこの世界で、姉は人の言うことをうまく理解できない。聴覚情報を脳内で処理することができないのだ。耳が悪いから、発音も上手くすることが出来ず、コミュニケーションの問題から徐々に学校にも行けなくなった。さっきみたいに、会話が噛み合わないことも日常茶飯事で、そういう時は適当に会話を終わらせてしまう。正直、姉と話すのは面倒くさいし。誰とも満足にコミュニケーションが取れないのは、可哀想だなとは思うけど。


「あ、あ、……」


 姉が、何か言いたそうな息遣いをしている。話す前の呼吸、息を吸って舌を持ち上げようとする気配を感じて、私はさっさと自分の部屋に退散した。






 ブーッブーッブーッ!

 携帯のバイブ音が鳴る。もう朝?早く起きなきゃ。私は眠い目を擦って、ベッドから降りた。なんだか、違和感がある。おかしい。一体何が?ブーッブーッブーッ!とバイブが鳴り響いている。そうだ、目だ!いつもは目の前が真っ暗だ。昔風に言うと「黒」なんだけど、今はなんだか違う色?になっている。何の色かはさっぱり分からないけど。とにかく違う。目を閉じているだけで他の色が見えるなんて……。私は、ある日の集会を思い出した。


「もし、突然、視界に『色』が付いたら……」

「もし、目を開けた時に何かが『見えた』時は、落ち着いて、そこから動かないようにしてください。そして、周りの人に助けを求めてください」


 暑い夏の午後、体育館に集められたのを思い出す。もしかして、と思う。知るのが怖い。思い出すのが怖い。だって、知ってしまったら思い出してしまったら、今の自分の状態を肯定してしまうことになるから。


「あかり〜?起きてるの〜!?」


 どこからか母親の声が聞こえてくる。目覚ましはまだ鳴ったまま、これは紛れもない現実なのだと私に思い知らせる。怖い、怖いけど、これ以上黙っているわけにもいかない。私は、10年ぶりに目を開けようと、瞼の上に力を入れた。


「あかり!いい加減起きなさい!」


 ねぇ、お母さん、人間って極度の恐怖を感じると声が全く出なくなるんだね。目の前には、肌色と黒色の化け物がいた。頭と首と胴体、それくらいは理解できるけど、人間の構造を大体にしか捉えていなかった私にはあまりにも「生」の人間はグロテスクだった。「髪」と呼ばれるそれは細長くて、黒い虫が何匹も何匹も頭の上でのたうち回っているようにしか見えなかった。風で揺れるたびに、束の中の一匹が脱走して、顔にかかるのを見ただけで鳥肌が止まらなくなった。呼吸している肉体に合わせて伸び縮みする首の皮膚の皺の間から、鋭い牙が生えてくるのではないかと思い、私は後退りする。


「何?どうしたの、あかり?」


 顔は直視すまいとしていたのに、声をかけられて思わず見てしまったのがいけなかった。芋虫みたいな唇、粘土みたいな頬、顔の筋肉があちこちに動き、至る所に皺を作る中で全く動かないドアノブのような鼻、そして、顔の上半分でまるで別の意思をもって別々に動いているゼラチン状の白の黒の器官、「目」が私を探して縦横無尽に動いていた。


「こ、来ないで!!!」

「何?どうしたの?」

「だって、化け物が見えるから!」

「化け物?……あんたまさか、『見える』ようになったの?」

「……怖い、怖いの、あたし怖いよお母さん。なんか、何でも見えちゃうんだもの。色なんて見たことなかったのに、今じゃこんなに、たくさんあって、何が何だか分からないよ……!」

「あかり……大丈夫よ」


 化け物……もといお母さんがこちらに近寄って、私に触手……ではなく「腕」を伸ばしてくる。そして、その先はさらに枝分かれしていて、私の頭を鷲掴みにした。側から見たら、なんて感動的な光景なのだろう。しかし、私には自分がこれから捕食される未来しか見えなかった。


「ブローデンホライズン症候群」それがこの病気の名前だ。視力を失ったはずの人間に、再び視力が戻る。生まれつきの人もいれば、私みたいに後天的に目が見えるようになってしまう人もいる。再生する原因は不明だが、とにかく視力が高く、平均片目で2〜3と言われている。暗闇(私たちにはそれが普通)からいきなり何でも見える状態になるので、とにかく日常生活で立っているだけでも辛い。私は自分が思ってる以上に物事を美化していたようだ。暗闇に浮かぶ物体くらいの認識しかなかったものがいきなり具体的に目の前に現れる。自分だけ異世界が見えているかのようだ。普段はなるだけ目を瞑って過ごすが、目を瞑っていても瞼を透かす強烈な太陽光が私たちを襲う。私は1ヶ月外に出ることができなかった。学校はもちろんやめた。たくさんの人が蠢いているだけで吐き気がする。あんなに仲良くしていた友達でさえ、内臓が直接足をつけて歩いているみたいに見えていつも通りに接するなんて到底無理だった。


 しかし、このまま学業を疎かにするわけにもいかないだろうと親に説得され、ナイトスクールに通うことになった。親は夜なら多少は恐怖心も薄れるだろうということで、定時制の学校を探してきてくれたのだ。確かに夜は割と見えないため、以前の視界とほとんど変わりがない。本当に安心する。見えるということは本当に疲れる。以前では気にならなかった人の視線や、表情、景色が頻繁に移り変わるのも刺激が多すぎて疲れる。一方で夜は人の活動も落ち着くし、何より太陽という自分の世界の神秘を全て曝け出してしまう告発者がいないので、本当に息がしやすかった。ただ、ナイトスクールということは、多少はやはり人とコミュニケーションを取らなければならないので、そこだけが少し心配だった。


「はじめまして、あかりさん、でしたっけ?」

「はい」

「私はあかりさんのクラスの担任の村井といいます。これからよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 最初のホームルームは真っ暗な教室で2人きりから始まった。てっきりたくさん人がいるかと思っていたので、わたしは拍子抜けした。それにもっと驚いたのは、先生を見ても何も怖くないことだった。今まで人間の視線を感じるとそれだけで全身を舐めまわされているような気持ち悪さが襲ったのに、今はそれがない。


「『見える』ようになってから、どれくらい経つんですか?」

「1ヶ月とちょっと、です」

「そうか〜、1ヶ月って1番辛い時期ですね。僕なんか、1ヶ月経ったぐらいじゃ、まだまだ引きこもりでしたよ」


 先生が口角を上げる。顔を上げ、どこか遠くの空を見上げているようだ。というのも、先生はこの暗い中にも関わらず、何やら色のついたメガネをかけていたので視線がどこにあるのか分からなかったのだ。そうか!視線が分からないから、あの不規則な動きが見えないから気持ち悪くないんだ!


「あの、先生、その……メガネ?みたいなのってなんて言うんですか?」

「ああ、これ?これはサングラスって言うんですよ」

「サングラス?」

「ええ、太陽のメガネっていう意味で、大昔の人々は太陽が眩しい時はこれをかけていたんです」

「太陽のメガネ……」


 なんでも、完全に見えなくなる訳ではなく、世界に溢れている色が多少減るのだそうだ。だけど、私にはそれで十分だった。それに、これをかけてもらえば、また友達と話せるかもしれないと思うと胸が高鳴った。


「あ、でも濃い色のサングラスをかけ続けると、瞳孔が開いて目が無防備な状態になってしまうんです。ですから、ずっとこれをかけて生活するのはあまりやらない方が良いですよ?」


 考えを見透かされていたのか、先生が優しくアドバイスをしてくれる。自分の目など心底どうでも良いのだが、目が無防備な状態で紫外線を浴びると、それだけでガンの発生率が高くなってしまうらしい。


「僕がサングラスをかけているのは、ホライズン症候群の人が視線を1番怖がるからです」

「私だけじゃないんですか?」

「そうですよ。目って気持ち悪いですからね。ギョロギョロしていて、一つの生物みたいじゃないですか?」

「はい、とても怖いです」


 それだけじゃない、この世界が隅々まで見えてしまうのが、自分の中の理想の世界がどんどん剥がれ落ちていくのが怖い。世界の本当の姿を知ってしまうのが怖い。喉まで出かかったけど、なんとか抑えた。さっきみたいに優しく諭されるのが1番キツい。


 なるべくなら、ずっと人の視線なんか感じない暗闇の中にいたいですよねぇ、と前置きして、先生はとんでもないことを言い出した。

「でもね、あかりさん。信じられないかもしれませんが、あなたはそのうち視覚に頼らなければ生きていけなくなりますよ」

「え?何でですか?」

「あかりさんは今、15歳ですよね?」

「は、はい」

「今は見えてなかった時間のほうが長いかもしれませんが、そのうち『見える』時間のほうが長くなっていく。そうするとね、人間って不思議なもので、この世界に適応するようになるんです」


 言われた意味が分からなかった、というより分かりたくなかった。こんな毎回毎回ネタバラシを喰らうような世界に慣れるくらいなら死んだほうがマシと思った。


「その時に、暗闇でしか生きられなかったら困るでしょう?だから、徐々に慣らしていくんですよ」

「……」

「混乱してますよね。視力があるせいで毎回毎秒新しいものに触れていますし、生活リズムも狂っていますでしょうし……。でも、少しずつでいいので、あかりさんなりの生活を、人生を安定させるお手伝いをさせてください」


 先生は丁寧に頭を下げた。悪い人ではないんだろうけど……やっぱり私は、まだ心のどこかで折り合いがつけられないでいた。


 ナイトスクールは週に3回、陽が完全に落ちてから登校する。最初から授業をするわけではなく、しばらくは先生と一対一で施設案内やオリエンテーションを行った。


「ここは音楽室です」

「あれは何ですか?」

「あれはピアノです」

「へぇ〜……」


 ピアノって、鍵盤だけが浮いているかと思っていた。あんなに大きくて、しっかりとした作りをしているんだ。


「ここは多目的室です」

「あれは何ですか?」

「あれも椅子ですよ?」

「なんか、形は音楽室にあったのと似てますけど、何だろう?色が違う?」

「材質が違うんですね」

「材質……」


 材質の違いは触覚の違いで感じていたけれど、見た目もこんなに違うんだ……。ザラザラした感じとかツルツルした感じが見ただけでも分かる。


「ここは校庭です」

「これは何ですか?なんかちっちゃいのが動いてる」

「これはてんとう虫ですね。赤くて可愛いですよね」

「へぇ、人間以外にもこんな生き物がいるんだ。これは赤……」


「先生、あれは?」

「あれは月です」

「先生、これは?」

「これは杉の木です」

「先生、これは?」

「これは桜です。薄いピンク色で綺麗ですね」


 これは月、月は白、あれは木、木は茶色と緑、これは桜、桜はピンク色、これは椅子、これは机、これはカマキリ、カマキリは黄緑色……。

 ナイトスクールに通う間、私は先生に幾度となく質問した。先生は嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれた。得体の知れない物に囲まれていた世界に、名称とともに色と形が与えられていく度に、もっと知りたいという欲求に駆られる自分が不思議だ。それと反比例して、恐怖心はどんどん減っていった。私は本当の世界を知ることで、自分の中で作り上げたぼんやりとした世界が崩れていってしまうのではないかと恐れていた。しかし、一問一答を繰り返すうちに、その崩壊も楽しめるようになった。自分の中の世界が塗り変わっていく感覚は、意外性の連続で楽しい。わたしはありのままの世界を受け入れられるようになり、昼にも学校に通えるようになった。季節は冬から夏に移り変わっていた。


「ねぇ、お母さん!知ってる?空ってずっと黒じゃないんだよ!黒から夜明けにかけて白になって、水色になって、夕方になるとオレンジ?っぽくなるの!」

「……」

「ねぇ、お母さん!道路ってね、ただの灰色じゃないの!太陽に当たるとキラキラ光ってるんだ!何でか知ってる?いらなくなったビンとかガラスをコンクリートとして再利用してるからなんだって!」

「……」

「ねえ、お母さん!地面にはね、虫っていう生き物がいるんだよ!いろんな形で、いろんな色をしているの!なんか顔がムズムズする時あるじゃない?あれってハエがたかってるからなんだって!あたしはハエよりてんとう虫の方が好きだなぁ……」

「……」

「ねぇ!お母さん、人間ってね、すごい面白いの!手には爪楊枝で引っ掻いたような皺がたくさんあって、身体中には血管っていう紫とか緑色の管が通っていて……あと目!よく見てみるととても綺麗なの!中心がひまわりみたいでね、一人一人みんな違う色なの!お姉ちゃんの目はブルーでね、とっても綺麗なの!そしたらさ、お姉ちゃんすごく笑ってくれて……あ、笑うっていうのは」


「……あかり、ちょっといい?」

「え、何?」


 母は少し俯き、目を伏せながら話し始めた。相手のことを直視出来ないのは、後ろめたさがあるからだと「表情」の授業で先生が言っていたのを思い出した。


「あかり、外ではもうそんな話しないでね。お母さん、そんなこと言われても何も分からないの。あかりには見えてるんだだろうけど、私には何も見えないし、これからも見えないの。オレンジ?とか灰色?とかそんなこと言われても……あと笑うってどういうこと?正直言って気味が悪い。あんた、そんなこと言ったら、外で変な子だって言われるよ?」


 大きなため息。そりゃそうだよね。自分の娘がいきなり霊界とかあの世とかそういう世界の話をしてるようなものだもんね。気持ち悪いよね、私。現に私たち家族は、私が病気になってから近所の人に噂話をされるようになった。聞きたくもないのに、風が、空気が、壁が共犯者になって私たちに声を届けにくる。「あの子、目が見えるようになったらしいわよ」「かわいそうに」「見えるなんてかわいそう」「世の中には知らない方が良いこともあるのにね」「外の世界を好むなんて変わり者」「気持ち悪い」


「あかり!授業終わったよ!一緒に帰ろ!」


 頭の中で鮮明に響く悪口に混じって、ななみの声が届くまで3秒くらいかかった。


「……え?あ、あぁ……」

「どうしたの?元気ないじゃん!」


 ななみはこの学校で出来た初めての友達だ。彼女は私とは違い生まれつきで、外の世界のこともたくさん知っている。


「うん……ちょっとね」

「また何か言われたんでしょ?」


 彼女は私の顔を覗き込む。彼女は「生まれつき」だから、人の表情から感情を読み取るのがすこぶる上手だった。


「はあ、またそんな辛気臭い顔して!幸せが逃げちゃうよ?」


 彼女は口をへの字に曲げた。これは……怒っているんだっけ?


「ご、ごめん」

「なんで謝るのよ?」

「だって、怒ってるかなって……」

「ふふ、全然怒ってないよ!あかりもまだまだだね♪」


 今度は顎と口角を上げて、目を細めてる……。これは……?


「ドヤ顔……?」

「そう!正解!よく出来ました!」


 そういうと、ななみは私の頭を撫でてきた。ますます目を細めているので、これは楽しいとか嬉しいとかいう表情なのだろう。


「そんなよく出来たあかりちゃんには〜?私からご褒美をあげます!」

「ご褒美?」

「秘密の場所に連れてってあげる!もうすぐ日が暮れちゃうから急いで!」


 ななみが私の手をぐいぐい引っ張りながら走り出すので、仕方なく私も彼女に付いて行かなくてはならない。走るのは……まだ少し苦手だ。周りの景色が水彩画みたいにさーっと後ろに流れていくのがなんだか気持ち悪く感じる。でもまた歩き始めると元に戻るのが少し面白いとも感じる。周りの風景を溶かしながら、学校の裏の森をただひたすら走る。同じ風景が続くので、ちゃんと正しい方向に進めているのか不安になるが、ななみははっきりとした足取りで進んでいく。前から光が差し込んできた。なんだかオレンジになっている。もう夕方になったんだなぁ……。前は気温の変化で朝と夜を感じ分けていたけど、光で感じる時間のほうがずっと正確に思える。


「ほら!あともうちょっとだよ!」


 長い登り坂を越えると、森がなくなり視界が開けた。どこまでも続く空と、下に何か……ガラスの塊?みたいなものがある。太陽の光に反射してとても綺麗だ。


「ねぇ、あれ何?空の下にある、地面とは何か違う感じの床は何?」

「え、何言ってるの?あそこには海しかないけど?」


 え?あれが海?私は歴史の授業でいじっていたあの地球を思い浮かべた。ぴちゃぴちゃと手にまとわりついた「海」はこんなに硬そうな見た目をしているのか?


「ほら、せっかくだから砂浜まで行こうよ!」

「え、砂浜って何?」

「あかりって、本当に何も知らないの?砂浜っていうのは……う〜ん、なんで言ったら良いのか……。あ、陸と海の境目!私たちのいる地面と地続きになってる場所のこと!」


 私は海の陸の境目を探そうと下を覗き込んだ。私たちのいる森の地面とは違い、柔らかそうな質感の砂がたくさん敷き詰まっている場所が見える。砂浜を確認すると同時に、そこに打ち寄せている水が見えた。あれも海なんだろうか?


「てかさ、写真とかで見たことあるでしょ?海とか砂浜」

「それが無いんだよね。私、まだ『紙の本』を読むのに慣れてなくて……。未だに中のものを掴もうとしちゃう」

「あぁ、『普通の本』は無色透明の立体だもんね〜。まだ慣れないか」


 他愛もない会話をしながら階段を降りていくと、例の「砂浜」に着いた。歩く度に足が沈んでいく感覚は最初は気持ち悪かったけど、徐々に慣れてきた。ザザー……という静かな音と共に海が押し寄せてくる。あんなに硬いガラスみたいだった海が、こうして目の前に来ると柔らかそうな液体に見えるから不思議だ。


「うわ〜。夕日が綺麗〜!」

「うん、本当に」


 太陽はもうすぐその役目を終えて、海という寝床に帰ろうとしていた。その刹那の輝きは海だけでなく、私たちの顔をも赤く染め上げる。


「ねぇ、あかりはさ」

「何?」

「また、元の、つまり『見えない』自分に戻りたいと思う?」


 ななみが問いかけてくる。その表情は夕日に照らされてよく見えない。


「そうだな……。最初は見えるようになってすごく怖かった。知らないことが勝手に、当たり前のように自分の中に入ってくるから。でも」

「でも?」

「でも、今ではそれが楽しいと思う。自分の中のイメージと、現実の世界のイメージが混ざり合っていくのが楽しい。たまに、見なければ良かったなぁなんて思うこともあるけど、でも、それも『見え』なきゃ分からなかったんだって思うと、全部愛おしく感じるの」

「あかり……」


 自分でも驚くぐらい言葉がすらすらと出てきた。その時に悟った。私は、私が思っている以上にこの世界のことが大好きなんだ。もう、見えなかった頃には戻れない。戻らない。


「私、この世界のことが好きだよ。綺麗なことも、汚いことも、褒められるのも、陰口を言われるのも、全部全部引っくるめて全部好きだよ」

「あかり……」


 ななみが胸がいっぱいです!という感じで私の名前をつぶやいた。


「それ盛ったでしょ?」

「いや、今の感動はどこに行ったの!」

「本当のところは?」

「……盛ったかも」


 自分の言葉に耐えきれず笑い出してしまう。正直言って、陰口とかにはまだ耐えられそうにない。けど、その時はまたその時だ。今はただ、この景色があってくれればそれで良い。


「ねぇ、ななみ、そういえばさ、今日古典で『視野が広がる』って言葉やったでしょ?」

「なんだっけ?物事を知ることによって、多面的に捉えられるようになることだっけ?」

「そうそう。私さ、実はそれ、本当に見える範囲が広くなるって思ってたんだよね」

「マジで!?ウケるね?」

「だから、こうやって見えるようになったのも、もしかしたら勉強のし過ぎだったのかなあとい思ったりして」

「え、あかりって意外と可愛い!」


 ななみが指をさしてからかってくる。


「考えてみれば、不思議な言葉だなって。実際に見える範囲とか視力とかが広がったり高くなったりするわけじゃないのに、どうしてそういうふうに言うのかな」

「言われてみればそうかも!あかりってよくそういうこと気づくよね?やっぱり見えるべくして見えるようになったのか……」


 ななみは顎に手を当てて、うんうん唸っている。考え込んでいる……ってところかな?


「あ、思い出した」


 唸っていたななみが、突然顔を上げた。


「え、何?」

「ブローデン・ホライズン」

「え?何それ?」

「『視野を広げる』を英語で言うと、ブローデン・ユア・ホライズンって言うの!」

「あなたの、水平線を、広げる?」


 私はネット検索して出てきた言葉を淡々と並べた。


「そう、水平線を広げるんだよ!」

「ねぇ、水平線って何?」

「今目の前に広がってるじゃん!」


 ななみが指差す先には海しかない。どこが水平線なのだろうか?


「水平線っていうのは、海と空の境目のこと!どこまでも続いているように見えるでしょ?そこから取ったんじゃないかな?」


 夕日はもうとっくのとうに沈みきってて、正直海と空の境目はあまりよく見えない。けれど、さっきまでの、あのキラキラした海を思い浮かべる。


「そうか……ブローデン・ホライズン」


 ブローデン・ホライズン。私の、心の中の海にある、水平線を広げる。どこまでもどこまでも伸ばしていって、最後は一体どこに辿り着くんだろう?


「水平線、どんどん伸ばせたらいいね」


 ななみがポツリと呟く。


「でも、どこまでも伸ばしたら、もう2度と戻れない感じもするな……。ちょっと怖いかも」


 ザザー……と海が静かに鳴る。夜の海は習字の時に敷く真っ黒なマットみたいで、また質感が変わっている。海と空と陸の境目が闇の中に溶けて、また元の生活に戻ってしまうような気がして、なんだか怖くなってきた。


「大丈夫だよ!あかりは心配性だなあ」


 そんなわたしの不安をよそに、ななみは明るく答えた。


「……どうしてそんなに自信満々なの?」

「だって地球は丸いから。どこまでいっても、最後にはここに戻って来れる」


 そうか。単純なことだったんだ。地球は丸い。立体模型を弄っていた自分が、1番分かっていたことなのに。


「そうだね。地球は丸いから、大丈夫だね」

「そうそう!だから、恐れずにどんどん飛び出そう!」


 ななみがいきなり立ち上がって空を指差す。空には満天の星が幾億個も輝いていた。


 心の中の水平線を、どこまでも伸ばしていこう。どんどん進んで、世界中を旅しよう。いつか道に迷っても大丈夫。だって、私たちが戻ってくるのはきっとこの場所、この時だから。













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感覚小説集 日比谷野あやめ @hibiyano_ayame

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