あの頃

帆尊歩

第1話 「教室で、恋に落ちた瞬間まで」の物語

「じゃあ、先生、お母さんとちょっとお話があるから」

「えっ、先生、私がいないところでママに何か告げ口するの?」

「違うよ。本人に言えないことを、教師は父兄に言わないといけないことがあるんだ」

「ええー、言えない事ってなに?」

「秘密」

「ずるい」

「大丈夫よ。何を言われてもママは驚かないから」と彼女が娘をたしなめる。

「驚かないって、悪いことを言われるという前提じゃん」と言いながら女生徒は渋々教室を出て行った。


残った彼女は、懐かしそうに教室を一通り見て回ると、真ん中の列、前から八番目の机に座った。

ここはかつて、彼女が座っていた机だ。

僕はその斜め後ろの席に座る。

ここはあの頃、僕が座っていた席だ。

「ここ、あの頃の教室だよね。こんなに綺麗だったっけ」

「ああ、うちも改装に次ぐ改装で、綺麗にしないと、生徒が集まらないんだ」

「学校経営も大変ね。だからといって、寄付金とか要求してこないでね」

「僕に言うな。理事長に言えよ」

「それに学校って、改装って言うの?」

「じゃあなんていう?」

「改装か」


「娘には、言ったのか。お母さんもこの学校の卒業生だって」

「言ったよ。と言うか率先してうちに入る事を薦めた」

「やっぱり子供には、自分の卒業した学校に行かせたいとうこと」

「そこまでは」

「でも、多いよ。親が卒業生って。父兄の中に知り合いがいるんじゃないかって、思ったけれど、意外と会わないんだよな。まさかその第一号が君とは」

「それはこっちの台詞だよ。娘の担任がまさか君とは。そもそも、うちの教師になっていたというのも驚きだけどね」

「僕が、高校の教師。それも母校の教師になったらおかしいか?」

「君が教師なんて、先生と呼ばれるなんて、絶対におかしいよ」と言って彼女は笑った。

その笑い方はあの頃と同じだった。

彼女と僕は、この学校で同じクラスだった。

うちの高校はどういうこだわりか、クラス替えがなく、教室も三年間一緒だった。

私立だったせいか、独特のこだわりがあったようだった。

教師として就職しても、そのこだわりが分からない。

だから彼女とは、同じグループだった。

でも恋に発展することはなかった。

と言うか、グループの均衡を乱す行為は、暗黙の了解でしない事になっていた。

私立で校則が厳しい事もあったが、せっかく気持ちの良い仲間の輪を、破壊することに抵抗があった。

「先生、うちの娘はどうですか。良い子にしていますか?」わざとらしく、父兄のように彼女は尋ねてくる。

「ええお母さん。良い子にしていますよ」と、僕も担任の教師のように答えた。

そう言い合って、二人で吹き出してしまった。

まさかこの教室で、こんな会話をすることになるとは。

「でもあの頃の君そっくりだよ」

「そうなの、例えば?」

「うーん、うまく言えないけれど、受け答えとか、反応とか、立ちふるまい。初め違和感があった。誰かに似ているなって」

「あたしのことなんか、すっかり忘れていたって事だ」

「そんなことないさ。現に今日、その謎が解けたよ。君の娘だったとは、親子というのは似るんだな」

「そうなんだ」と彼女は安心したように頷いた。


「今は幸せなのか」

「えっ・・・。幸せ、だよ」僕は彼女の微妙な間を感じた。

「あの頃は分らなかったんだ」

「何を?」

「君のことが、好きなのかどうか。恋なんて物は、あの頃の仲間内では存在していなかった。でも、君の娘を見ていると、あの頃の君に、僕は恋をしていたと思い知らされる」

「それは」

「誤解しないでくれ。君の娘じゃない。本当にあの頃の君だ」

少しの間が開いた。

「今更そんなこと言うなんて、反則だ」彼女は強く言い切った。

そして机から立ち上がると、黒板に向かった。

チョークを手に取ると大きく。


君に、恋している。


と書いた。

「卒業式の朝、誰もいないこの教室で、あたしはこう書いた。そして慌てて、消そうとしたけれど、黒板消しがなくて、手で消した。その時の感触は今でもこの手に残っている。君への恋を消した瞬間だったから」

「僕は卒業式のあと、この黒板にこう書いた」と今度は僕が席を立って黒板まで行った。


さようなら。でも僕はすぐにその文字を消した。


「あの卒業式のあとも、すぐに消した。

確かにあの日、黒板消しがなかった。僕も手をチョークの粉だらけにして消した。消さないともう会えなくなってしまいそうで、恐くなったんだ」

彼女は教壇の端で立ち尽くしている。

「でも、今の僕なら、こう書く」


君に恋している。


彼女は何も言わない。

そして僕も何も言わない。

ただ二人して、もう一度あの頃のそれぞれの場所の机に座った。

そして、二人で黒板を見つめた。

そこには、大きく

(君に恋している)とそれぞれの文字が上下に並んで、チョークで書かれていた。

そして二人して、それぞれの机から、いつまでもその黒板の文字を眺めていた。

まるであの頃に戻ったかのように。

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あの頃 帆尊歩 @hosonayumu

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