契約

佳原雪

魔法使い

この暗い洞窟の中で仲間とはぐれてから、いくらかの時間が経っていた。尋常の人間であればとっくに死んでいるようなこの状況で、命があるのは私が魔法使いだからに過ぎない。みんなは無事かな、と思う。無謀なことばかりする男の子が二人に、無口で芯の強い女の子が一人。こういうとき、大丈夫かなと考えるのは癖のようなものだった。彼らは自分と同じ魔法使いで、危ないと思ったら引き返すことを知っている。いつも命を大事にしなさいといっていた自分がこれでは言い訳が立たない。ぴちゃん、としたたる雫が音を響かせ、水の匂いはどこまでもついて回る。どれだけ歩いたか知れない。どこまで行けば出口かもわからない。私は暗い洞窟を歩き続けている。眠ることも、立ち止まることもなく。



手をつく壁は滑らかな石だ。水の匂いはますます濃くなり、私はざらざらとする質感の下り道をゆっくり進んでいく。暗闇は厚ぼったい幕のようだ。自分以外には誰もいないということが感覚を増幅させる。刺激の少ない暗闇に慣れた目がありもしない信号を拾い、チカチカとした曼荼羅を描く。頭の中にあるだけの思い出が目の前の現実に重なってくる。心を満たすあらゆる声が思考に重なって、自分が誰なのかわからなくなっていく。ジャリジャリと土を踏む足音がすこし後ろから聞こえる。闇の奥から私を呼ぶ声がする。柔らかい懐かしさが背をさすっている。暗闇が温かい。水の匂いが濃く香り、私はそこに誰かが微笑んでいるのを見つけた。ああ、辿り着いたのか、と何の根拠もなく思った。黙ったまま床を指さすので、促されるままに石の上に腰を下ろした。違和感を感じなかったわけではないが、歩き通しで疲れていた。暗い中にずっといたので目も痛んでいる。目を瞑れば、もう周りを睨んでいる必要はなくなった。石の上はひんやりしていて心地よく、身体に込めていた力を抜けばそれはとても柔らかく感じた。



ちゃちゃむという音で目が覚めた。欠伸をしても視界は一向に晴れず、まだ頭が眠っている錯覚に陥る。手の甲で目を擦り続けていると、眠気の幕を超えて『おい』と低い声が響いた。身体を殴りつけるような質量のある声だった。

「無駄なことを止めろ、ここは暗い。目など役に立つものか」

「うん……うん、そうね、マギー……」

自分を起こすものなど一人しか居ない。なればそれは彼だろう。反射的に恋人の名前を呼んでから、なにか、なにかがおかしいなと思った。眉をギュッと寄せて暗闇の向こうに透かし見た姿は、知っている誰とも違うように感じられた。むっと広がるのは穀物に似たにおい。向かいの席からはちゃむちゃむと何かを食べる音。視線を下げれば、服の身頃の辺りがごく僅かな光を反射してしゃらしゃらとスパンコールのうろこみたいに揺らめいた。輝く服を着て、知らない誰かと食卓に着いていた。両端の見えない石机の上には相手の側にだけ食事が満載されていて、ぼんやりとしたシルエットだけを目が拾う。私がぼうっとしていると、目の前にいるそれは馬鹿にするように鼻を鳴らし、口を拭ったようだった。

「『マギー』。その名前は知っている、似ているように思ったか? ある意味では間違っていない。あれは呪わしい生まれの大男だった。ああ、なんだ、連れ返しに来たのか? わざわざこんな所まで? そういうのはたまにいるが、執着もここまでくるとみものだな」

低い声は老人のしゃがれた声を思わせたが、子供が癇癪を起こすときの、地鳴りのような質量をもっていた。肌がビリビリとするのを感じながら、私は奇妙な晩餐を眺めていた。顔をもう一度擦り、私は何をしていたんだっけ、と思った。マギーは、私の愛しい恋人はどうしたんだっけ。連れ返しに来たのかって聞かれたけど、どこかへ行ってしまったのだったっけ? 確かに彼を愛していると今でも自信を持って言えるのに、長いこと会っていなかったような気がする。

「ここに、彼がいたの?」

「ずっと前に。ふん、今更来ておいて返せといったところでどうなる。意見が通る道理はないな。だが、その傲慢な性根は一周まわって愉快だ。思い出話をしてやろうか。あれは柔らかくて食い出があったからな、なかなか忘れられるものでもない」

声が止めば、水の匂いがさっと流れ込んでくる。私は柔らかくて食い出があったという言葉を冗談として受け取った。たしかに大岩と並んでも見劣りしないほどに大きかったが、鍛えられた身体はけして柔らかくはなかった。気がつけば、卓の上には今までとは違った皿が並んでいる。枝のような腕がむしり取っては齧り付く。ぺちょぺちょと柔らかいものをねぶる音がする。ぐちゅぐちゅと皿をかき回し、同席する相手はいつまでも食べ続けている。肩を流れる長い髪は草の根のように枝分かれしてばさばさだ。背の高い恋人を思い出しながら、彼を知っているというこの人は誰だろう、と考えた。黙った私をどう思ったのか、指をねぶるように口へ押しつけていたそれは、手近な器を引き寄せて面倒そうに持ち上げた。

「飲むか」

「どうも……」

闇の向こうから差し出された杯は頭蓋骨だった。器を掴むふっくらとした白い指先は僅かに波打っている。なかに半分ほど注がれた墨色のスープは森のキノコを思わせる臭いがして、私はマギーがずっと昔に死んでいたことを思い出した。



「……貰ったのにごめんなさい、これは返すわ。私、家に帰らなくちゃ」

ずっ、と音を立ててそれは取り返した杯を干した。よく目をこらしてみれば、胸の辺りにぬらぬらと流れる黒い汁が見えた。それも次第に黒や赤のスパンコールがさざめきながら吸い込んでいく。淀みなく次の皿をたぐる指が、ひったくるように掴んでは皿の中身を口へ押し込む。それが視線を向ける先、触らない皿がどろりと溶けて汁へ変わる。

「家。この期に及んでまだ帰る選択肢があるのか。連れ帰るものもなく? とんだ無駄足だな。無茶な話だと赤子でもわかる。長く上に留まっているせいで道理がわからなくなっているのか?」

立ち上がって引き返さねば、と思った。今は紛れもなく危ない状況なのだから、ここでまごついていては仲間達にも示しがつかない。机に手をつくと同時に、細かい埃が指先をさっと避けた。瞬きの間に向こうから手が伸びてきて私の腕を掴もうとする。急なことで反応が遅れたが、すんでの所で弾かれたように手が引いた。驚いて顔を上げると、骸骨のような細い左の指が宙を彷徨うのが、視界の悪い暗闇の中でもはっきりと見えた。

「……なるほど、道理がわからないはずだ。魔法使いだったのか。身を顧みずにこんな所まで来るわけだ。死は全てに定められた絶対の理だというのに、のうのうと生き延びるのはどんな気分だ? 愛した男と同じ所に送ってやるから、道理へ逆らうのをやめたらいい。指輪の石が惜しいというならいくらでも持っていけ。なに、ちょっとも経てばどうせここへ流れ着く」

皿のない私の手元に、じゃらじゃらと重たいものが落とされる。歪んだコインらしきもの、手の平大の重い塊、色つきの丸いのは宝石だろうか。それをどれでも持って行けという。もって戻れば人間一人が一生遊んで暮らせる額に替えられるだろう。だけど、だからこそ私は首を振った。魔法の指輪が私を生かすのは、額面通りの効き目だけじゃなく、そこに思い出があるからだ。

「マギーの……恋人の形見なの。これはあなたには渡せない。それに、子供達が待っている。帰らなくちゃならないの、どうしても」

いえば、少し空気が変わった。

「経産婦か? 意外だな。……子供がいるというなら見逃してもいいが、条件がある。その指輪を寄越した男と同じだけの数、その指輪をここへ送れ。なに、回収はこっちでやる。外して踏み壊せ。簡単なことだろう。子供にやらせたっていい」

そうしたら、それを奪わないでいてやる、と低い声はいった。子供にやらせても良い、という部分に反感こそ覚えたが、私は頷いた。それで契約は成った。



「志半ばで倒れてくれるな。やり遂げたら、永遠の命さえくれてやろう。本当にやり遂げられたとしたなら」

席を立った私へ、頼まれもしない手土産を包んだそれは薄く笑ったようだった。あるいはあざけっていたのかもしれないが、それも些細なことだった。私は古い土の臭いのする包みを抱え、教えられたとおりの道を進む。痒い感じがして身体を払えば、そのたびに身に纏うスパンコールが剥がれ落ちた。やることは頭に入っている。けして振り帰ってはならないという言いつけを誰が破ろうか。狭い隙間に身体をねじ込んで、出口を目指し歩き続ける。途中、契約の内容を反芻した。魔法の指輪は数に限りがあった、他のあらゆる全てがそうであるように。自分は仲間達の魔法を取り上げずに済むだろうか。あれの提示した指輪の条件に適合するというだけで、彼らが自分の大事な仲間であることに変わりはないのだ。私は冷たい小川で喉の渇きを癒やしながら、早く日光の下へ出たいと願う、はぐれた仲間達に今すぐにでも会いたいと、そればかりを考えていた。その先に行われる大規模な闘争を、未だ知ることもないままに。

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契約 佳原雪 @setsu_yosihara

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