夏の桜

維 黎

Re:First Love

 夕刻。

 教室。


 細かな事は覚えていなかったが体操服か水筒か。おそらく何かを忘れたのだろう。

 ガラリと扉を開け一歩踏み入れた教室は、夕焼けの赤が差し込む不思議な空間で。

 しかし真っ先に視線が捉えたのは教壇後ろの黒板。

 赤みを強く帯びたピンク。

 中央に大きく開いた5裂の花弁が描かれていた。

 そして――。


 教室の中央の席。

 座って黒板の花を見つめているだろう三つ編みをした少女。

 後ろ姿からはその表情は知り得ないことだったが。

 何故だか少女が泣いているだろうことがわかった。


『――あ』


 思わず漏れた声に少女が振り向いた。

 涙を流していなかったけれど。

 哀しみに憂うその瞳をした顔は確かに泣き顔だった。

 中学生の少年が、同級生クラスメートで同い年だとしても哀しみに暮れる少女にかける言葉なんて持っているはずもなく。


『――今中……くん? どうして?』


 問われる声にすぐには応えられなくて。

 今となっても、結局その問いに応えたのかどうか思い出せない。

 遠い記憶ではあっても、それでも彼女がぽつりと続けた話は鮮明に覚えている。


『お母さん――日日草ニチニチソウがとっても好きだった。だから私に【夏桜かお】って――』


 何も言えないどころか身動き一つしなかった時間は数秒か数分か。

 再び黒板に向き直った少女に届かないほどの小さな声で。


『――夏桜』


 と、噛みしめるようにつぶやいた。


 それはドキドキと息苦しく、チクチクと痛みを伴って。それでいて心地よい。

 男友達との遊びや少年マンガに耽っていた当初は、恋なんていう繊細な思慕は偏った知識からの想像でしかなく、自分の身に起こっていることがまさにそれなのだと気づいたのは、夏桜が夏休みを前に転校していったあとだった。

 その時に彼女の母親が亡くなって、母娘二人暮らしだった彼女は遠くの親戚に引き取られることになったのだと、担任から聞かされた。


 夏休み前の終業式が終わり。

 夕日が差すにはまだまだ早い時間ではあったが、一人教室で。

 真ん中の席に座って黒板を見つめる。

 そこには鮮やかな花は無く。それでも少女の振り向いた顔は思い出されて。


 チクリ、とひとつ。







 妻を亡くして20年がたった。

 勤めあげた会社を定年退職し、悠々自適の生活を送りつつも、子供もなく趣味も無しとくれば、若い子から見ればお年寄りと呼ばれる年齢であったとしても隠居生活をするにはまだまだ元気だった。

 そんな時、町内のお知らせに料理教室の案内が載っていた。

 ほぼほぼ外食かスーパーの総菜ばかりの食生活だった為、ここらで自炊の料理の一つや二つ、習ってみるかと思い立った。

 月二回。街のふれあい会館で行われる料理教室に初めて参加してみた。 

 自分でも驚いたことだったが、思いの外楽しみにしていたらしく受講時間より少し早めに来てしまった。

 しかしながら教室の扉は開いていたので特に考えも無くふらりと入ってみると。

 その教室は学校の理科室を思い起こさせる長方形の長いテーブルが四つほど。それぞれに丸椅子も四つが据えられている。

 そして黒板に鮮やかなピンクの5裂の花弁。


「あ、受講の方ですか。始まるまでもう少しお時間がございますので、どうぞお好きな場所にかけてお待ちいただけますか?」


 自分とは違い、肩口で切りそろえられた髪は黒々としていて艶やかで若々しい。

 おそらく講師だろうと思われるその女性と黒板の花弁を交互に見ていた為か。


「あぁ。これ、わたくしがチョークで書いた物なんです。実は自己紹介の時の定番なんですの。ニチニチソウって花はご存知ですか? この花は別名――」

夏桜なつざくらとも呼ばれていて、お母さまが好きだった花なんですよね。さん」

「え? どうしてそれを――」


 40年以上前ほどには息苦しくもならず、鈍い痛みもなかったが、以前とは違って暖かな想いが心地よく広がっていくのを私は感じていた。




――了――














 

 

 

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夏の桜 維 黎 @yuirei

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