虚空を仰ぐ

のーと

スペース

不安は、確信に変わる。もう立っていられない。視界の端から黒いモヤが走ってきて全体を覆う。ついに重力に負けて気合いの入ったポニーテールは音楽室の床にへばる。私から見える世界はモノクロより少し色がある程度まで落ちて止まった。少しの達成感に抱かれながらこれ以上遠くならない周囲の声をぼけーっと聞く。倒れた瞬間はとうに通り過ぎていたようで、ざわめきが聞こえだしていた。さっきまで隣で歌っていた同級生があわあわしていて、先生がピアノから顔をあげたのが手に取るように分かった。仲間たちが各々私の顔色を想像するのに十分なリアクションをとる中私は安心して目を閉じた。


音と視界とが闇の中から脱出すると担架に揺られているのに気づく。保健室につかなければ起きないほど私は消耗しきれていなかったようで少しがっかりした。やっぱり夢中になるのって難しい。

ゆっくりゆっくり思考を進めている途中で気持ちよかった左右の揺れは収まった。扉が開かれ清浄な白いシーツに優しく転がされる。

それから暫くはその姿勢のままじっと固まっていた。少し経って自由なことにやっと気づいて脱力する。ため息は張り詰めていた私のガス抜きになってくれたようだ。

自由に気づいて再度身体に指揮権を張り巡らそうとすれば身体が思ったより重たいのに気付かされる。それでも思いどうりにしようとするから全ての動作に「よいしょ」が伴ってその度頭はほとんどまっさらに戻される。

ええと、何考えてたんだっけか。

あぁ、そうだ。なんで私が倒れ込まなくちゃいけなかったのか。

よく保健室にお世話になっているから最近はできるだけ健康に気を使っていたはず。その証拠に今日は朝ごはんを食べたし昨日もしっかり23時にはに寝た。いつも私に足りなかったもの、今日は完璧に仕上げてきたつもりだったのに。あぁ、でもそういえば。

今日は味噌汁を飲まなかったな。


窓から注ぐ水色の光が部屋をぼんやりさせる頃玄関の開閉を布団の中から見送った。

それは私がイチゴジャムをトーストに塗り始めるおよそ1時間半前のこと。

高校は家から近いところを選んだから起きるのは7時半でいい。それを知っている私の身体は今日に限って7時40分まで2度目の起床を遠慮した。中学の頃はもう少し早く動きはじめていたはずなんだけどと、若干の失望に自惚れる。

一方お母さんは私が中学生だろうと高校生だろうとルーティンを変えることはない。静かに家の色々を済ませてしまって速やかに出ていく。

だからお母さんは知らない。高校生の私は味噌汁を冷めさせてしまうこと。いただきますを言う相手のいない私がどれほど自分勝手かを。

冷めた味噌汁は嫌いだ。

甘いジャムをパンとほうばりながらラップ下でまつ味噌汁を威嚇してみる。最終的には威嚇と呼べる勢いは無くなり迷いだけが残ったのだが。時計の針を言い訳にして乱暴に支度をすませてバタバタ家を出た。



原因を嗅ぎつけて回想を閉じる。そうか、味噌汁飲まなかったのがダメだったのかなぁ。まだよくわかっていない頭であえて考える。こんなゆるゆるな結論を許してやれるから。


この熱中症の理由を近い過去から探すのに「味噌汁」しか思い浮かばないほど、それを原因と確信できるほど、今までの私の日常に変化は無かった。だから合唱団の有志のポスターをスルーできなかった私は高校入学後初めての例外で。それに浮かされて結局は倒れちゃうような今日は誰がなんと言おうと楽しかった。私の手の中で体温計の示す温度は数値化されて私の救いになった。久しぶりの熱の証明だった。

高校では部活に入っていないし歌うのもお風呂で鼻歌ワンマンライブを開催する程度。だからクラスの合唱とは比べ物にならない音圧の中、一部になったつもりで歌う私の夏は去年よりも少し長かった。高音が上手く出ない悔しさも、音が重なる気持ちよさもぐちゃぐちゃになって虚ろが埋まっていくのを感じた。


回復したと少し自分を騙して上半身を起こし、もう一度重力に抗ってみる。両足でしっかり立ってみる。保健室から先生が出ていった隙に履き直したばかりの上靴のまま虚無を孕んだ美しい青空の下に出る。いつもは寂しい青春の夏空に対峙する。元々無いものが奪われたようなそんな感じがいつもよりは軽かった。


いつもより早く家に着いたから味噌汁はまだ片付けられていない。冷蔵庫から出して充実した疲れに浸る喉に流し込む。

それは、今までで1番冷えていてよく馴染む味噌汁だった。




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虚空を仰ぐ のーと @rakutya

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