三船槙一/43歳

フカ

第1話




 床に転がって上を見る。ロフト物件の高い天井、北向きだけど日中はたっぷりと光が入る。

 フローリングに横たわったまま僕はまぶたを開けたり閉じたり、足のほうにある窓から晴れた昼間の空を眺めて、雲を数えた。そうするうちに記憶がよみがえる。小3のころのやつだった。なんでだっけかは覚えてないけど、クラスでいきなりサッカーボールで三角ベースをすることになり、ルールを知らない僕は震えた。微妙な天気の湿る空気が、体をぬるりと撫でてゆく。まだ順番は回らないからクラスメイトの挙動を目に焼き付けて、絶対にミスらないように思考を巡らせる。ただ、あとふたりで僕がボールを蹴らなくてはいけないのに、もしも一塁に出てしまったらいつ走ればいいいのかが、いつまでもわからなかった。みんな一塁で死んでいた。


 塁に出られなかったら死ぬ。やっぱりお前はごみなんだとクラス全員が思いを強固にする。塁に出れたらもっと死ぬ。野球クラブに入っているからと、矢野が突貫で作った内野は、二塁への距離だけすごく長い。50メートル12秒の僕は、絶対に二塁まで行かれない。


 そうするうちにボールが飛んでくる。蹴る。変なふうに当たったつま先のせいでサッカーボールは斜めに飛んで、僕は一塁に出てしまった。

 次の岡村が蹴った球は、高く空に飛んだ。

 そして僕はなぜだか、リレーの走者がバトンを受け取るようにして、岡村がここにくるまでじっと待っていた。

 一塁へ着いた岡村は、なんで走らねえの。理解ができない不満を、顔と声にそのまま出している。


「はあ」目を開ける。いつのまにか閉じていた。

 吸って、吐いてと呼吸を五往復すると、また目を閉じる。

 開けた窓からは風が入ってくる。


 次はきっと27歳ぐらいだろう。床や机に重なる自己啓発本。コンビニエンスストアで稼いだ深夜1200円の時給で、通い詰めた古本屋で飽きるほど買ったものだ。最初は引き寄せ、脳科学とまだ可愛らしいものだったけど、メモをしながら読んでいるのはもう陰謀論に近かった。見たこともない単語が連なる、荒唐無稽な理論を僕は、神はここにいたのだ、と信じている。握りしめたボールペンが熱を持つ。

 とめどなく流れてゆく文字列のなかに、パーセントとか割合、と見えて、僕は小学6年生になる。

 算数で躓いたのだ。どうしても、距離を速さで割ることを理解出来なかった。

 教師は、家で教えてもらって。机へ目線を落としたままで言う。

 あせた髪色をした母親は、あんたバカだからね。そう言って、そのままだった。父はブラウン管テレビの中でサーキットを周回している。

 まわるスポーツカーを見ながら、数学IIとAしかやらない、工業高校の黒い学ランに袖を通す。それでも、インテグラルってなんだよ。長い袖から指だけ見える。爪が伸びている。机を叩くと長くなった爪が、カツ、カツと音を立てる。


「わ〜」カーブを描く反比例のグラフが曼荼羅のように重なって、僕を圧倒しはじめたから開眼して、上体を起こす。脚の間に体を入れて背中と腕と首を伸ばした。太ももの裏がずいぶん硬い。と、30歳の僕がトレーニングをしはじめた。

 四畳半の畳はささくれていて、よく裸足に刺さっていた。今日は月曜日だから、脚を鍛える。スクワットをして、ランジをして、一通りが終わったら腹筋もしてプロテインを飲む。安いプロテインはとっても甘くて、飲むのが一苦労だ。

 一年ほど早回しで過ぎ、鏡の中には背の低いちょっと筋肉質な僕がいた。僕は筋肉より、やっぱり背丈が欲しかったなあ。鏡の中の僕が言う。だよね。返すとトレーニングウェアからスーツに変わる。瞬間、笑ってしまう。肘の部分がぴかぴかだ。


 摩擦でそこいらじゅうが傷んだ、1万9800円のスーツセットで地べたに倒れていた。どこだここ、と思うと体に痛みが走る。ありとあらゆるところが痛い。朝日なのだか、夕日なのだか、とりあえず低い太陽は出ている。身じろぎをして、徐々に体をずらしていくと自分の部屋だった。スーツのポケットがかたい。びっくりするほど苦労して、やっと取り出した会社貸与の携帯電話の電源は、すっかり切れている。

 立ち上がれない。骨がぜんぶ抜かれたみたい。這うようにして床を進んで、敷きっぱなしの布団の横の充電コードへようやくたどり着く。指がおかしくて、なかなかポートに刺さらない。何十回目かで嵌ったコードが電気を流し始めるのを待った。そして気がつくと夜になっている。


 携帯電話の電源を付け、出てきた日付に驚愕した。昨日まで九月だったはずだ。十月二日になっている。

 高校を卒業して、入った半導体の工場で、若いんだからいいよなアと回されたのは営業だった。慣れない社会の中にいる、家ではあまり喋らない父とは似ても似つかない、声の大きな壮年の男性たち。スポーツも、ギャンブルも、女性とも縁がなかった僕は、上がる話にも縁がないから何を返せばいいのか、毎回頭を捻り潰してようやく細々と返事をするのが精一杯だった。

 次々に届く新規メールや不在着信の通知の山。それも昨日の日付で止まる。田舎だ。未成年が何日か無断で会社に来なくなれば、ばっくれたんだと解釈されてみんなすぐに忘れる。僕はたった一年でだめになった。

 引き戸を開ける音がする。乱暴に開けて、閉めて廊下を進んできたのは父だった。

「起きたんか。今日はめし作れよ」

 開けっ放しのふすまの向こうで父はそう言う。僕の就職が決まるとすぐに出ていったから、母親はもういないのだ。家のことは僕がみんなしていた。


 悪夢から覚めてきたように、体に汗が浮いていた。額や鼻先がぬるついている。脇に置いたハンカチで肌をぱたぱた押さえた。鳴き声がする。ちきき。足元に置いた棚のなかで、ケージのむこうからはむ太が見ていた。

「やあはむ太。もうちょっとだよ」つぶらな瞳で、はむ太は僕をじっと見つめる。

 僕は再び床に体を預ける。

 36歳の僕が、階段を上っている。






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