第5話 烏合の衆

 よく、

「烏合の衆」

 という言葉を使われることがありますが、

「規律やルールに縛られておらず、ただ集まっただけの集団のことだ」

 と言います。

つまり烏といいう動物が作る群れは無秩序でバラバラであるということからきているのであり、

「統制の取れていない集団を、いくら、優秀な指揮官であっても、まとめるのは難しい」

 という見方もでき、または、

「目的や意識に乖離がありすぎて、いくら優秀な人を集めても、組織として機能しない場合」

 などのことをいう。

 だから、組織を形成する個人個人が優秀であるか、どうかはあまり関係ない。

「集団として組織されているが、それがうまく機能せず、期待していた状態にならないことをいうのが、烏合の衆だ」

 と言えるだろう。

 そんな烏合の衆と言えるのは、歴史上にもたくさん存在した。この時代にこだわらずに、現代までを考えると、結構たくさんいたのではないだろうか。

 集団が、烏合の衆を形成していたとしても、指揮官が優秀で、作戦がうまく機能することで、

「烏合の衆でも、勝利することができた」

 ということもあるだろう。

「戦は、時の運だ」

 と言われることもあるが。相手に恵まれることもある。

 相手は、こちらが烏合の衆であるということを、見抜いたとすると、何を考えるだろうか?

 もし、士気が高揚であれば、

「相手は烏合の衆だ。こちらが負けるわけはない。これも神のご加護が我らにあったといことだ。このまま一気に踏みつぶせ」

 という形での叱咤激励であれば、戦意はあっても、戦に出ることに、不安を感じている人にとっては、この叱咤激励は、これ以上のものではないだろう。

 しかし、

「相手はしょせん、烏合の衆だ。簡単にやっつけることができる」

 と指揮官がそう思ってしまって、集団の士気を鼓舞することもせず、ただ、部下にやらせていればいいなどと、タカをくくっていれば、寝首を掻かれるような結果になってしまう。そこにあるのは、

「油断大敵」

 という言葉であった。

「ライオンは、ウサギを倒すのに、全力を尽くす」

 という意味の、

「獅子博兎」

 という言葉にも由来するのだろう。

 どんな時でも戦では何が起こるか分からないという意味に相当するのだろう。特に油断をしたために、相手の作戦にまんまと引っかかって、普段なら分かりそうなことも分からなかったということになるのではないだろうか。

 前述の、毛利元就による、

「厳島の合戦」

 にも言えることであった。

 このお話は、安芸の国の厳島で、毛利元就と、陶晴賢による戦が行われたが、元々は、安芸の国の大名である、大内義隆を、陶晴賢が下剋上において討ち果たしたことから、大内氏の実験を握った陶晴賢との決戦を迎えたことによって始まった。

 元々は、毛利元就は寡兵であり、大内の軍勢という大名の軍勢とでは、兵力にあまりにも差がありすぎた。

 そこで毛利元就は、息子の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三人を従えて、厳島での決戦を考えたのだ。

 厳島というところは、その名の通り、狭い島であり、そこに、城を築いたという情報を、毛利方が、作為的に相手に流した。

 大軍勢で攻めれば、打ち破ることができると考え、一気に大群で上陸し、城を襲った。

 しかし、毛利元就は、陶晴賢が、城を攻めている間、嵐であったにも関わらず、少数の軍勢で上陸し、油断していた相手は、慌てふためいたと言われる。

 これは、織田信長が、桶狭間で酒盛りをしていた今川義元に奇襲をかける際に、急に雨が降ってきて、天候が悪くなったのを見て。

「天は我に味方した」

 と言ったというが、まさに、厳島に上陸した元就も、同じことを考えたに違いない。

 何と言っても、来るはずのない軍勢が押し寄せてきた。ここからが、元就の真骨頂なのだが、幾重にも考えられた作戦だった。

 まずは、陶軍が、全軍を率いて、厳島に上陸していたということだ。攻められれば、大混乱をきたし、狭い範囲で、統制が取れなくなってしまうと身動きは取れない。

 さらに、毛利元就は、この作戦を行うについて、村上水軍を味方につけていた。

 混乱している相手は、次第に自滅していき、そして、水軍によって取り囲まれたのだから、その時点で勝敗は決したといってもいいだろう。

 士気という意味でも、元就は、夜陰に紛れて上陸した時に、帰りの船を返している。つまりは、退路を断ったわけである。そうしておいて、

「勝利するしかない」

 という状況に追い込み、最高の士気を高めたのであった。

 陶軍としては、下剋上でのし上がっただけの陶晴賢は、言ってみれば、主君大内氏の敵でもある。元々の陶軍に、大内軍が加わっただけなのだから、これも、烏合の衆だといえるだろう。

 戦意高揚が最高潮に達している毛利軍と、烏合の衆で、しかも大混乱になっている陶軍との間では、当然、勝利は見えていたといってもいいだろう。

 これがいわゆる、日本三大奇襲の一つと言われた、

「厳島の合戦」

 である。

 この合戦において、元就の用意周到さと、時系列を考えた作戦経緯。さらに、そこに、天候という運も重なったのだから、ある意味、奇襲と言ってしまうと、毛利元就に怒られるかも知れない。

「これは奇襲などではなく、勝つべくして飼ったのだ」

 と言えるからだった。

 用意周到という意味では、最初に、

「厳島に城を建てた」

 という情報を故意に流したという情報戦を仕掛け、相手を油断させたことで、その情報を鵜呑みにして、

「一気に攻める」

 という、狭いところに大軍を進行させることの愚かさに気づかないほど、油断させたということも大きかった。

 つまり、陶晴賢は油断から、

「獅子博兎」

 という精神を忘れてしまったのだろう。

 さらに、村上水軍を味方に引き入れることによって、相手の混乱を、

「逃げ場がない」

 ということで、恐怖のどん族に叩き落とすという、とどめを刺すことができたのだ。

 そして自軍に対しても、船を返してしまうという、退路を断つことで、最高潮の士気を高めることにも成功した。

 すべてのことが計算通りにいったのも、最初に立てた計画が、すべてにおいて、ピースがうまく嵌ったということだろう。

 ジグソーパズルで一番難しいのは、九割以上完成してからであって、どこか一つピースを間違えたりしていると、そこに築くまでにかなり時間がかかるということである。

 つまり、

「まずい」

 と感じてしまうと、もう時すでに遅く、収拾がつかなくなってしまうといっても過言ではない。

 逆にいえば、九割まできちんとできていれば、その先は自信をもって結果を導き出せばいいだけなのだ。もし、途中で間違いがあったとしても、取り返しがつくだけのものである可能性は高い。それを、厳島の戦いは証明しているのかも知れない。

 さらに、

「油断をしていると、相手の作戦に見事に引っかかる」

 という意味で、

「寡兵でも、大軍を打ち破れる」

 という作戦があることを示した戦法が実際にはあった。

 いわゆる、

「捨て身の攻撃」

 という言葉が一番よく似合う戦国大名というと、

「薩摩の島津氏」

 ではないだろうか。

 関ケ原の合戦において、石田三成率いる西軍についてしまい、味方がどんどん、壊滅していく中。的中の中に取り残されてしまった。

 そこで彼らの取った作戦は、的中突破であった。一気呵成に的中に飛び込んでいき、相手が怯んでいる間に、一気に駆け抜けるというものだ。

 被害は甚大であったが、さすが武士道というのは残っているようで、必死になって逃げていく島津軍を、追いかけることは最後はしなかったというから、それだけ悲壮感が漂った、潔い作戦だったのだろう。

 さて、お話は、ここではなく、島津氏が得意とする作戦であった。

 いわゆる、

「釣り信瀬」

 という作戦であるが、これは、

「寡兵が、大軍に打ち勝つ」

 ということを基礎にした作戦である。

 まず、軍を三つに分ける。一つは主力軍であり、あと二つは少数の兵であった。

 兵を分けておいて、まず、主力が、敵前に討って出る。すると相手は、

「向こうは寡兵である」

 ということが分かるので、一気に叩き潰そうと、何も考えずに、数にものを言わせて突っ込んでくるだろう。

 すると、こちらは、怯んだふりをして、一目散で後ろに退いていく。

 ただ、それも、作戦であり、最初に討ってでるふりをして、実は、途中で引き下がるということは計算済みであった。

 相手は、こちらが怯んだと思い、この期に一気にと思い、まわりを気にすることもなく突っ込んでくる。そこで、ある地点までくると、その両脇に潜んでいた別動隊が、姿を現すのだ。

 そして、後ろに下がっていた本隊が、踵を返して襲い掛かってくる。

 つまり、相手は三方から挟み撃ちにされるというわけだ。

 相手は一気に叩き潰そうとして襲い掛かってくるのだから、しかも、人数的に有利だと思っているので、陣形に守りの体制などまったくないにちがいない。あったとしても、防御の体制は取っていないだろう。そうなると、三方からの挟み撃ちは、完全に全軍が浮足立ってしまうことになりかねない。

 完全な、

「形勢逆転」

 というわけだ。

 相手に援軍が飛びこんできただけで、相手は浮足立つのだ。これは、いつ来るか分からない援軍が来たわけではなく、最初から計算していたことなので、作戦のうちである。十分に寝られ。さらに戦法として訓練を重ねた熟練した作戦なのである。

 相手は、向こうが寡兵だということで油断した時点で、すでに勝敗は決していたといってもいいだろう。

 ただ、これは、成功すれば、褒められる作戦だが、失敗する可能性も大きい。

 もし、相手が油断しなければ、相手の方が兵力は上なので、どうすることもできないだろう。

 それどころか。相手も、別動隊を組織して、本体を挟み撃ちにしたつもりで、さらに、そのまわりから攻め込まれると、どちらが袋のネズミなのか分からなくなってしまう。つまりこの作戦は。

「諸刃の剣」

 だといってもいいだろう。

 とはいえ、油断を引き起こさせるのも、先述の一つ。油断を起こさせるという意味で、こちらが

「烏合の衆だ」

 と相手に思い込ませるのも、その一つではないだろうか。

 繊維がまったく感じられないように見えるのもそうだし、やり方としては、相手に、

「こちらが油断していると、相手に油断させる」

 という方法もあったりするだろう。

 また現代の戦争においてであるが、普通に考えて勝ち目のない相手とどうしても、戦争をしないといけないまでに追い込まれてしまうと、

「いかに、負けないか?」

 ということが重要になってくる。

 たとえば、日露戦争であったり、大東亜戦争のように、日本のような小国で、さらには資源に乏しい国が、世界の大国に挑むのであるから、勝つというよりも、

「負けない戦争」

 をする必要があるのだった。

 その方法としては、

「まず、初戦で、奇襲でもいいので、相手に衝撃的な痛手を与え、戦意を喪失させたまま戦争を行い、一気呵成に勝てる時にできるだけ勝っておき、その時点で、相手に和平を申し込む。このまま戦争を続ければ、相手が勢力を盛り返してくることが分かっているのであるから、いわゆる、勝ち逃げをするしか、小国が大国に勝つ、いや負けない方法はそれしかない」

 ということである。

 日露戦争の時はそれでうまくいき、できるだけの好条件で講和を結んだ。ただ、戦争賠償金を得られなかったことで、日比谷公園焼き討ちなどとうう事件も起こったが、それも仕方のないことであった。

 しかし、大東亜戦争の時は、せっかく、計画通りに行っていたのに、軍部や政府は、戦争のやめ時を見誤ったのだ。

「戦争は、始める時よりも終わる時の方が数段難しい」

 と言われる、

 話は変わるが、

「離婚は、結婚する時よりも数倍のエネルギーがいる」

 と言われるのと、同じなのであろうか。

 政府の役人が、当時の東条首相に、

「和平を持ちかけるなら今です」

 と進言した。

 この進言は、実に的確で、

「なるほど、今なら最高の条件で講和が結べるかも知れない」

 というものであったが、ソーリの頭の中には、

「何をいう。ここまで来て戦争をやめられるか」

 ということがあった。

 要するに。

「勝ちすぎた」

 のである。

 勝ちすぎるというのも、油断に繋がり、負けない戦争をしないとおけないのに、勝つ戦争に戦争自体の主旨が変わってしまったのだから、本末転倒である。

 ここがピークだということを分かっていないと、ここから先はどんどん、追い込まれていき、一度は最初に負けない戦争を始めていて、途中から、勝てる戦争に方向転換したのだから、意地でも引くに引けなくなったのだろう。

 戦争継続を主張した自分の責任転嫁をしたいというのもあったであろうし、何よりも、天皇の戦争責任と、天皇制自体の、国体維持ができるのかどうか。そのあたりも難しくなってしまうだろう。

 そんなことを考えていると、戦争は泥沼化してしまう。ここでの敗戦の一番の原因は、

「勝ち過ぎたことによる戦局を見失った」

 ということで、油断と言っていいのか分からないが、東条英機たるものが、アメリカの軍事力を過小評価していたとも思えない。

 ひょっとすると、民衆の戦争への高揚と、さらには、それを煽るマスゴミによって、

「もう自分ではどうすることもできない」

 というほどに、世間が戦争遂行するしかないと思ったに違いない。

 もし、あそこで講和に持ち込んでいれば、日本の滅亡はあの時点ではなかったかも知れないが、果たして群衆が黙っているだろうか?

 日比谷公園の焼き討ちくらいでは済まされないに違いない。

 それは、国家というものの興亡を考えると、あの時に、戦争をやめるという選択を、一国の首相ができたのかどうか。実に難しいところである。

 今も昔も、戦争における、世論とマスコミというものは、敵に回してはいけないものだ。そのことを一番分かっていたのは、当の、東条英機だったのかも知れない。

 だからこそ、情報統制によって、戦争遂行に突き進んだのだとすれば、その方法は戦争を始めてしまった以上、やめることができないという中で、できる最大の方法だったのかも知れない。

 一つ、不思議なことがあるのだが、史実の中にある

「本能寺の変」

 という事件があるが、この事件を、

「歴史上の不可解な事件」

 として言われている。

 もう一つの大きなものとしての、坂本龍馬暗殺事件と比較されることになるのだろうが、その一番不可解なこととして言われるのが、

「黒幕は誰か?」

 ということである。

 言われている話としては、

「朝廷黒幕説」

「室町将軍黒幕説」

「羽柴秀吉設」

「宗教団体設」

 さらには、

「長曾我部元親設」

 というものもあった。

 朝廷というと、一つ気になるのが、信長が建立した安土城において、天皇を招き、宿泊できるところを作っているが、それが信長の住まいよりも低いとことにつくられたということで、

「信長は天下統一のために、朝廷を従わせようとしているのではないか?」

 と言われていることであた。

 しかし、考え方を変えると、

「自分が天皇よりも上だということを、家臣たちに示すことで、自分の権勢を絶対のものにすることで、平和を武力によって統一するという「天下布武」を実践しようとしているのかも知れない」

 ということである。

 もし、朝廷がたくらんだとしても、信長を倒して、光秀を担いだとして、権威が朝廷に戻ってくるとも考えにくい。

 その次としては、足利幕府という考えである、

 なるほど、十五代将軍、足利義昭は、信長の力によって、京に戻り、将軍につくことができたのだが、その権威を信長に示そうとしても、信長は靡かない。

「副将軍にしてやろう」

 と言われても、所望するものは、

「堺の港」

 というだけだった。

 確かに堺の港は、商人の力が強く、他とは違った、

「特区」

 としての、体制がつくられていた・

 商人を味方につけておけば、経済的に困ることはない。しかも、鉄砲を手に入れるには、堺の町を手中にしておくと、直輸入もできる。

 信長は、堺の町で、鉄砲鍛冶を育成することも行った。自国製造と、輸入の二本立てである。

 しかし、さすがの信長も、それよりも前に、イギリス人の手によって、蝦夷地に鉄砲が伝わっていたということを知る由もなかった。

 しかし、せっかく将軍にしてもらったのだが、自分にすでに将軍としての力がないことを悟った義昭は、自分の考えにことごとく逆らっている、信長が鬱陶しくなった。

 そこでまわりの諸大名や宗教団体に声をかけ、

「信長包囲網」

 を築き、まわりから殲滅しようと考えたのだ。

 だが、信長に逆に屋敷を包囲され、津法された。それでも何度も同じことを繰り返した義昭が、光秀を利用したと考えるのも無理はないかも知れない。

 そもそも、信長と義昭の間を取り持ったのが、光秀だったのだ。

 その次に考えられるのが、羽柴秀吉設である。信長の死をいち早く知り、岡山から、一気に京に取って返し、山崎の合戦で光秀を討ったということだが、これは、少し考えれば、おかしいと思うところが山ほどあるということが分かるのだ。

 例えば、

「どうして、秀吉が、最初に本能寺の変を知ることができたのか?」

 ということであるが、史実として残っているのは、

「対峙している毛利軍に向かって、光秀の密使が、秀吉の兵につかまって、持っていた密書を見られたことで、信長が討たれたということを知ったということだが、そんなに余りのも都合よく見つかるものだろうか?」

 ということであった。

「相手も見つからないようにしていたであろうし、捕まったとしても、その場で斬られて終わりではないかと思うのだが、それほど、当時は、一人でいる人間をいちいち調べるとう念の入ったことをしていたのだろう?」

 と考えると、確かに不思議である。

 しかも、そのあとの対応が素早すぎる。

 主君が討たれてショックを受け、これからの自分の行動を冷静に考えなければいけないはずなのに、いきなり、和睦してすぐに京に取って返すというのは、無謀ではないだろうか?

 なんといっても、討たれたということの信憑性がどこにあるというのか、信長が討たれたことで、ショックに陥った人間ができる反応ではない。

 もし、殺されずにどこかに逃れていたとすれば、いくら討たれたと聞いたとしても、確認もせず、戦闘をやめて、戻ってくるというのは、どうなのだということだ。

 そういう意味で、和議を結んでいたというのは、いい判断だったはずだ。というのも、逆に、

「最初から分かっていたことなので、行動も迅速だ」

 といえるのではないだろうか。

 さらに、もう一つは、歴史的に有名な、

「中国大返し」

 である。

「迅速な行動をどうしてとれたのか?」

 ということも重要であるが、それよりも、問題は姫路城である。

 大返しの最終、自分の城である姫路城(今のような天守閣ができる前の、砦のような白だった時)に落ち着いた時、

「場内にある、財宝その他をすべて、家臣に配れ」

 と命令している。

「もし、光秀との合戦に敗れれば、二度と戻ってくることのあい白だから」

 ということであったが、逆に、勝利ということを信じて疑わなかったからというのも言える。

「ただ、勝利を確実にするためには、部下の士気を最高に高めなければいけない」

 ということで、財産を配ったのだ。

 それは、

「光秀に勝利すれば、戦利品で、姫路城で配った分を補える」

 という考えがあるからだろう。

「負ければ、持っていてもしょうがないものであり、勝利すれば、元は簡単に取れる」

 ということであれば、財宝を配るのは、理にかなっているといってもいいだろう。

 しかし、この判断は、最初から負けるとはまったく思っていないとできないものではないか。

 実際に、勝利することになる、

「山﨑の合戦」

 では、池田恒興、細川忠興、中川清秀などの、摂津や山城の国の武将を抱き込まなければいけないはずだ。

 光秀が最初に思っていたように、まさか、それらの武将が秀吉につくとは思ってもいなかっただろう。

 何しろ、機内においての権力として強く持っているのは、秀吉よりも圧倒的に光秀の方が強い。しかも、細川忠興などは、自分の娘婿という立場ではないか。

 それなのに、秀吉のような、悪い言い方をすれば、

「成り上り者」

 に、簡単につくとは思えない。

 最初から、分かっていての先手を打った行動だとしか思えないではないか。

 光秀が支持されなかった理由はわからなくもない。信長を主君として、皆が仰いでいたというのも当然のことだが、何よりも、まわりに相談もせず、いきなり信長を討つという暴挙に出た場当たりな相手に、つくようなリスクはないだろう。

 光秀は本当に、思い付きで行動したのであれば、まだ見方も違っていたであろうが、そういうそぶりがあったとするならば、誰にも相談していないことに腹を立てたとしても無理はない。

ということは、本能寺の変は、

「光秀が最後まで悩んで決めたことではなく、最初から仕組まれていたことだ」

 ということになり、

「黒幕説」

 が叫ばれるのも、当たり前のことだといえるのではないだろうか。

 以上が、秀吉設というものである。

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