竹取語物

怪鳥三号

竹取語物

 そこのあなた様。……何をきょろきょろしていらっしゃるのですか、此処には私がお声をかけさせて頂いているあなた様以外、誰も居ないではないですか。―――そう、あなた様です。

 いや、いきなり呼び止めて失礼致しました。しかし何しろまだ夜も明けぬ刻限に、こんな鬱蒼とした杉林の奥に立ち入る方というのは珍しいものでしょう。加えて、つい一月ほど前にも大きな地滑りが起きましてね。殊更に人が寄り付かなくなってしまったのです。

 ……ああ、そのように構えないで下さい。斯くの如き人気の無い場所だからといって、あなた様に危害を加えようなどという気は更々ありません。加えて言うと、私には男色の気など毛頭御座いません。ましてや、私にはあなた様に危害を加える術もございません。仮に私がそのような不埒な事を考える輩だったとしたら、このように誰もが避けて通る深い林の中で待つものでしょうか。例え小夜すがら待っていたとしても、現れるのは獣くらいのものです。

 話が逸れてしまいました。どうも人と話す事などもう幾分も久しく、つい言葉ばかりが逸ってしまうものでして。気を悪くなさらないで下さい。

 ええ、それであなた様に突然声をかけさせて頂いたのも、正直申しましてそういう訳です。宜しければこの死に損ないめに幾許かの時間を頂けないものかと。礼の一つも満足に用意できませんが、猿楽などでもそうは無いような物珍しい話をお聞かせ出来ましょう。如何でしょうか。

 ―――有難うございます。つきましては、そこに手頃な岩があります。ああ、そちらではありません、あなた様の後ろの茂み近くに……そう、それです。どうぞ腰を休めつつ耳を傾け下さい。

 さて、先ずは……私の出自から語らせていただきましょう。これでも私の父はなかなかに名のある公卿で御座います。しかし私を授かった母は、権力らしきものも無いただの女でした。果たして両親の間に如何様な顛末があり、逢瀬があったのかは私の与り知らぬ所ですが、確かな事としましては、既に父には名のある妻が何人もおり、その間には両の手にも及ぼうかというほどの子が儲けられていたという事です。そのような父にとって、公家との縁も接点も無い女との間に出来た子などただ疎ましいだけだったでしょう。或いはそのような情事に至った事までも恥じたかもしれません。それでも確かな地位に就くほどの人間であった私の父は、起きた事を無かった事にだけはしませんでした。覚えている限り、私は別段貧しい暮らしをさせられる事もありませんでしたが、代わりというように父という存在が私の暮らしの中に無かったのは、つまりそういう事だったのでしょう。ですが私は別に不満を持ってもおりませんでした。父の不在の理由については、母の切れ切れな説明などから幼心に察しがついておりましたし、母も母できっちり届いてくる金子のお陰で手も塞がらず、たった一人の家族であった私を可愛がってくれたのです。

 私の身近には已まれぬ理由によって父を失った子も多く、私は父の姿を求める必要も感じる事なく育ち、やがて大人になり町へ出て料亭の下働きをするようになりました。私には不相応なほど立派な料亭でしたが、店主殿の話によると、それまで働いていた者が二人辞め、いよいよ回らなくなって来た所に私が仕事を求めてきたそうで、まさに渡しに舟だったとのことです。どうやら私の名と店主殿の弟の名が同じという話で、働くようになった経緯もあり、加えて真面目に下働きをしているうちに店主殿に気に入られたようでした。食べる物は料亭の残りで賄えるので木賃宿に泊まっているという事を私が言ったところ、料亭の離れ―――店主殿の住処にある一室を無料で貸して下さったほどです。調理の腕前はあまり無かった私ですが弁舌の才はあったらしく、客同士が揉めて一触即発となった状況を幾度となく収めるなど地道に六年ほど働いた所で、店主補佐の肩書きまで頂くようになりました。ともかく、何ら得手も後ろ盾も無かった私にしては順風満帆に過ぎる生活でした。あなた様も斯かる町へと出向かれる機会があり、『きざしばな』という名の料亭があればよしなにお願い申し上げます。

 ……ともかく、そのような日々を過ごすうち、さる公卿の御方が遠征の折にうちの料亭を訪う事になったという話を小耳に挟みました。私は当初、その話を他人事としか思っておらず、店主殿の料亭の名も随分と馳せてきたものだ、と快く思っていた位のものでした。ところが明くる日、店主殿が私を藪から棒に呼び出し、その公卿様の来訪時の接客をするようお命じなさったのです。私はすっかり動転致しまして、もっと適任な者がきっと居ります、作法も何も習った覚えの無い私では何をしでかすか見当もつきませぬ、と訴えました。しかし店主殿の御心は固まっているらしく、こう仰られました。お前には何か他の奴らとは違う気品や品位のようなものが感じられる、公卿様に伝を持ちここまで来た俺には分かるのだ、例えお前以外の誰を充てたところで、ただの良い接客以上の何かを示すことは出来ないだろう、と。

 私はその段に至って漸く思い出しました。かつて母がしてくれた、切れ切れの説明の中に私の父が公卿の身分であると語られていた事を。店主殿の頑とした態度は泰山が如く揺るぎそうになく、私自身も公卿という身分の人間に会えるという機会に何か大きな宿縁のようなものを感じ始めたため、その話を請け負う事にしました。

 来る御方が私の実の父であるかもしれない、などという事も考えなくはありませんでした。しかしそのような事は、路傍で拾った小石に三輪明神様が宿られているようなものでしょう。考えるまでもありません。例え私の父が来たとしても、それを私の側で判断する方法もありません。そこで私は、この機を単なる好機と考えるようにしました。近々店主殿が支店を構えるという噂も囁かれていましたので、この大仕事を無事に終えあわよくばという思いがありました。

 そしていよいよ公卿様が訪れました。私は公卿様とその側仕えの方々を料亭の入り口でお迎え致しました。しかし、その公卿様の顔を見た時、思わず私は言葉を失いかけました。確かに見覚えの無いお方でしたが、他人と思う事は到底出来ませんでした。何処が、と問われても分かりかねますが、欠けて二つになった器の如く、その公卿様の姿は私の中の片割れに音を立てて合致したので御座います。公卿様の方も、俄かに眉を動かしたかと思うと、少し慌てた様子で口元を覆い隠しておりました。私は、目の前にいる人物こそが紛う方無き己の父親であると確信に近い思いを抱きました。

 ともあれ呆け続ける訳にもいかず、私は僅かに上擦りかける声を宥めつけ、なんとか公卿様御一行を最上級の部屋に案内致しました。その間、公卿様は一言も発しようとはしませんでした。やがて、これまで働き続け、事前にどういった物を出すのか説明を受けてきた私でも思わず目を瞠るような、贅の限りを尽くした料理が続々と運ばれてきました。料理が卓に並べられる度、私はそれがどういった食材をどのように調理したのか仔細に説明致しました。本心はそれどころではありませんでしたが、働き詰めている内についた気質のようなものが私を突き動かしておりました。側仕えの方が料理に対して訊ねてきた時も、淀みなく答える事が出来ていたように思います。やはり公卿様は言葉を発さず、険しい顔つきで料理を眺め、時折私を横目で盗み見ておられました。

 説明も終わり、御用がありましたらお呼び下さい、と言い残し私が退室しようとした時、公卿様が初めて口を開き、斯くの如く問われました。

―――名は、何と申す。

 その視線は真っ直ぐに私を貫いておりました。怒っているようでも戯れているようでもなく、ただ真剣な様子が窺えました。周りの側仕えの方々が顔を見合わせるのにも構わず、公卿様の眼は私を鷲掴みにして離しません。ともすれば動転してしまいそうな胸の内を抑えつけ、私は丁寧に名乗り申し上げました。公卿様は一度、そうか、と頷き、舌の上で私の名を転がすような仕草の後、斯くの如く仰いました。

―――良い名を授けられたな。

 路傍で拾った小石に大物主大神が宿られていたような心地でした。最早この眼前の御仁が私の父親である事は疑うべくもありません。しかし、この期に及んで何を言えば良いのかも分かりませんでした。今更父を慕うには私は歳を重ねておりましたし、憎むにもその理由も思いつきませんでした。私に出来る事としましたら、ただ礼を述べて静かに退室するだけでした。

 私と父との出会いは斯くのようなものでした。そして、私はそれ以後父の姿を見る事もありませんでした。


 それ以来、私の日々は大きく変わりました。父が何かを言ったのか、それまで私を弟分として可愛がって下さっていた店主殿の態度が一変し、まるで命の恩人か何か、尽きせぬ大恩を受けた相手へと向けるものとなっておりました。同時に店主殿の羽振りも異様なほどに宜しくなっており、新たに立った支店の裏に豪奢な家を建てさせ、私に支店の主となりそこに住むよう言いました。それまでの店主殿との暮らしも私にとっては寂静たるものと申しても過言ではなく、些か後ろ髪を引かれる思いもありましたが、しかし一個の店の長というのは大望でも御座いました。私はその話を受け、遂に自分の店を持つようになったのです。

 新しく構えた店では目立った出来事こそ起きませんでしたが、しかし着実に売り上げを伸ばし続けました。一年が経ち、五年が経ち、十年が経ちました。儲けた子も次第に大きくなってきたそんな折り、父も既に歳を喰っているであろうと、私はふと思いました。

 まさか私如きが易々と会って話を聞ける立場でもないでしょうが、せめて壮健か知りたくなりました。幸いにも店を任せられる跡継ぎが居り、多少の金子も御座いました。私は妻子と店を後任に任せ、都へ出る事にしました。思えば都に出ることさえ初めてでした。

 渓流を渡り、山道を通り、幾つかの村落を越えました。いよいよ都も近づいてきた頃、私は一際大きな宿場町に差し掛かっていました。私は大きな宿に泊まり、なんともなしに白拍子に都の公卿様について何か知らないかと訊ねてみました。すると、随分と変わった話を聞く事が出来ました。

 その白拍子自身も人伝に聞いたらしいのですが、なんでも隣の大きな町には月さえも光を忘れるほどの絶世の美女が居るそうなのです。当然世の男達も放ってはおかず、幾人もの男が求婚をしたそうです。そしてその中にはさる公卿様―――私の父も居りました。

 ですが私の父の求婚は失敗に終わったようでした。いえ、それどころか、いずれの男も総て失敗したとの話でした。聞く所によるとその美女は、話の中でしか聞かないような珍品ばかりを要求し、それを持ってきた男とのみ結婚すると言ったらしいのです。父に命じられた品もまた同様で、蓬莱仙島にあるとされる銀の根と金の茎と白き玉を実とした木の枝を要求したようです。

 変わった女もいるものだ、とその時は思いました。正規の公卿の求婚であれば、斯様に無理難題に過ぎる代物を要求せずとも、求婚の心の真偽など確かめられると思ったのです。しかし夜が明けその事を思ううち、果たして父がそうして大恥をかかされた女というのがどういった輩なのかが気になって参りました。絶世の美女であるという事に対する下心が無かったといえば偽りとなりますが、それよりも数多くの女を思いのままにしてきた父を逆に手玉に取った女という、その一点が私の関心を強く惹きつけたのであります。

 幸いにも、その女がいるという町へ寄った所で都へ辿り着くまでの道からそう外れる訳でもありませんでした。特にその女の顔を見て如何にするつもりもなく、或いは私がこれまで知りえなかった父の一欠片でもそこに残されているかもしれないと漠然ながらに思っておりました。

 私は宿場町を出、件の町へと向けて歩き始めました。空は怪しいほどに晴れやかで、街道脇に生えている木々からは泣き叫ぶような蝉吟が響いており、私は夏の到来を否応無しに知りました。ふと道ですれ違った女性に母の面影を見つけ、母の日々から消えていった父の姿を、子である私が追い求めていると知ったら彼女は何と言うであろうか不安にもなりました。しかし私の決心も、その一時の迷いでは揺らぎもしませんでした。

 道の途中、私は小さな宿に泊まりました。私と同様に町の間を旅する人の憩いの場らしく、他にも旅の途中の客が数名いました。同じ道を行く者同士、私達は共に酒を酌み交わす事にし、終夜語らう事にしました。しかしその最中で、おかしな出来事があったのです。

 始まりは一人の初老が厠へ行ったことでした。その男は暫く戻ってこなかったのですが、彼自身も相当飲んでいた事もあって我々は別段気にしませんでした。やがてその男が戻ってきた時、妙に嬉しそうな顔をしていたのです。

―――月が出ておるぞ。今宵の月はなんとも風雅にまんまるだ。あれほど煌々とした月はなかなか無いぞ。

 すると別の男が、それは酒の肴に最高ではないかと言いました。すると私や他の者達も口を揃えて月見酒じゃ月見酒じゃと囃し立て、早速酒と幾らかの肴を手に手に表へと出て行きました。昼間はあれほど暑かった夏の陽気な風も、夜の帳には凪ぎ抑えつけられ、なんとも良い夜で御座いました。そしてその夜陰に厳然と浮かぶ月の美しさといったら、思わず手に持った徳利を取り落とす者がいるほどでした。

 私は暫く呆けていましたようで、ふと我に返るまでにどれほどの時間が経っていたのかまったく分かりませんでした。気付けばまだ呆けている者や、宿の中から貰ってきたと思しき筵に腰掛け酒を呷る者達、その辺りにある手頃な石ころに座りただ月を眺める者など、三者三様な有様でした。私は筵の酒飲み組に入る気にもなれず、人の少ない側の石ころの上に腰を下ろしました。

 先程までは喉も嗄れよと言わんばかりに騒ぎ立てていた者達も、この異様に美しい月に中てられたのか静かに酒を呷っておりました。無理もなかろう、と私も思いました。物の怪の類でさえも騒ぐのを止め、ひっそりと静まり返ってしまうような、そんな月だったのです。ただの望月であればこれまでに幾度となく見てきましたが、この日の月は別物でした。我々が普段見ている物は月の皮を被った紛い物で、今宵見えている月こそが我々の目から常にひた隠しされ続けてきた本物であるとさえ思えました。

 そして、おかしな出来事はその最中に起こりました。誰もが月を前に粛々とする前で、遠く、私が向かう町の方から何かが月へと昇っていくのです。一度は見間違いかと思い、目を凝らして再び見たのですが、しかし間違いなく何かが昇っていくのです。周りの者達も口々に月へ昇るそれについて驚きの声を発しており、私一人が狐に抓まれている訳ではないのだと思い知らされました。目の良い男が、まるで多くの人間と籠のようだと言いました。なるほど言われてみればその通りで、さながら空から地上へ降りてきた姫を迎えに来た従者達のようにも見えたものです。

 誰もが口を開けませんでした。ただ呆然と、あまりにも現世とはかけ離れたその光景を眺めることしか出来ません。やがてその何かは月まで昇り、見えなくなりました。空には次第に普段の夜と同様の雲霞が戻り、恐ろしいほどに輝いていた月もひっそりと静まり、幻想的に過ぎた夜が何事も無かったかのように明けていきました。

 翌日、昼過ぎに目を覚ました私は宿を立ちました。しかし焦るような気持ちはすっかり鳴りを潜め、事ある毎に昨夜の光景を思い出していました。私如きがどれほど考えたところで、あの怪異の正体など分かるはずもありませんでしたが、しかし気にするなという方が無理難題でしょう。

 全てが霧に包まれたような心地の中、やがて私は大きな町に辿り着きました。当面の目標としていた、斯かる美女の住まうという町です。町に入って歩く内、私はそこかしこに兵の姿を見つけました。それも地方大名や町が抱えるような雑兵ではなく、正規な訓練を受けているであろうことが窺える整然とした軍隊でした。戦でも始まるのであろうか、と私は訝りましたが、兵の中に漂う微妙に怠惰な空気を感じ取る限り、どうやら戦は既に終わったか、或いは敗走した状態の兵士達のようでした。ですが、私が立ち寄った町では戦の話など話の種にも上りませんでした。試しに仕立屋で服を直すついでに訊ねた所、御門が送った軍勢だというのです。

 私は我が耳を疑いました。御門が送った軍勢が、何故このような一見何事も無い町にいるのか。いや、御門の軍勢が敗れる相手とはどのような軍なのか。それこそ鬼でも攻めてきたとでも言うでしょうか。

 しかし、仕立屋の話を聞くうち、私の想像の方が幾分も大人しいものであると知りました。なんでもこの町に住んでいたという、月から降り立ったという姫を守るために御門の軍勢は月の軍勢に立ち向かったと言うのです。ですが結果は御覧の通り、戦うどころの話ではなく、ただ一方的に姫が連れ去られてしまったとの事です。私はふと不安になり、この町に住まう絶世の美女の事を訪ねました。すると案の定、その女こそが件の月の姫だという事でした。

 なんとも呆気ない幕切れだ、と私は頽れそうになりました。先日の望月の晩に見たものこそ、その女の帰還だったという事なのでしょう。少々とはいえ遠回りまでして来たというのに、とんだ骨折り損となった訳です。

 町の者達はそれこそ、揃いも揃って狐狸妖怪に化かされた後のような有様でした。話に聞いただけでも信じがたい話の、その渦中を目にしたのだから当然かもしれません。事実、あの夜の出来事がなければ私も信じてはいなかったでしょう。私はそんな呆けた町を歩き、人伝に聞いたとある家を探しました。月の姫が住んでいたという噂の家です。既に斯かる女がいない事は重々承知しておりましたが、だからといって何事も無しでは癪で御座いました。やがてその家に辿り着きますと、確かに何処かしら違和感を覚えました。詳しくはなんとも言いがたいのですが、それこそ尋常ならざる空気とでも申しましょうか。昨晩まで月の姫がいたという事実も漠然と信じられました。

 私は正面から門扉を叩き、父の名と、その息子であると告げました。姫がまだいたのなら門前払いもされかねませんが、いなくなった後でなら話くらい応じてくれると思ったのです。事実、閉ざされていた門扉はゆっくりと開かれ、歳を召された翁が顔を覗かせました。変に取り繕うつもりもなく、私は正直にここまで来た経緯を話しました。生別れの父がおり、その形跡を見たいがためにやって来ただけで、害をなす気も下卑た興味本位の訪問でもないと、そう強く念を押しました。翁は幾許かの逡巡の後、家に上がるよう言ってくださいました。

 翁本人から聞いた話は、それ以前に私が聞き及んでいた話とそう差異はありませんでした。蓬莱の玉の枝を取ってくるよう言われた父は意気揚々と旅に出たが、しかし裏で職人を雇って長い時間をかけ蓬莱の玉の枝の贋作を作らせ、それを本物と偽って出したが、給金を出さなかったがために職人が詰め掛け露呈した、という顛末でした。息子である私が聞いても、自業自得の話で御座います。私は父に代わって非礼を詫び、そしてわざわざ話を伺ってくださった事に礼を述べました。そして踵を返したところで―――なにやら不思議な色彩を放つ瓶が目に留まりました。高さは膝ほどもない小さなもので、中には琥珀色とも紫藤色とも金色とも取れるような、およそ私の乏しい表現では表せない色の液体が入っておりました。

 その時の私は―――魔が差したとしか言いようがありません。翁は私に出してくれた茶の湯飲みを片付けるため部屋の外に行っておりましたし、私は大した収穫の無かった事に落胆しかけておりました。そして目の前の瓶に入っている液体が月の姫が残していった物であるという事は疑いようもありませんでした。

 迷いは無かったように思います。飲用して何が起こるかもわかりませんでしたが、今手を出さなければ二度と目にかかる事さえ適わない代物である事は違いありません。私は両の掌で器を作り、そっと瓶の中の液体を掬い上げました。手応えらしき手応えも無く、温度さえも感じませんでした。本当に液体を掬っているのか疑問に思うほどで御座いましたが、迷っている間にあの翁が戻ってきては何もかもが御破算だと思い、覚悟を決めてその液体を口へと流し込みました。

 思えば、この決断が私の総てを変えてしまったのでしょう。

 一瞬の強烈な苦味を感じ、思わず噴き出しそうになりました。そこを無理やり堪え、目を瞑ってゆっくりと嚥下致しました。液体は喉を通る時に初めて私に感触を与えてきました。焼け付くような、まるで喉が溶けていってしまうような強い痛みでした。私は悲鳴を上げました。いえ、実際には悲鳴どころか声さえも出ていませんでした。焼け付いた喉が私に声を発する事を許さず、ただ悲鳴の意だけを無音のままに咆哮致しました。

 その後の事は、あまりよく覚えておりません。喉の痛みはやがて胸、腹、次第に手や頭にまでも広がっていき、全身という全身を溶かすかのように焼いていったように思いますが、しかし一番記憶に残っていますのは喉の痛みで、他の痛みを感じる頃には意識が半ば薄れていたように思います。

 あまりの痛みに翻筋斗を打ち、床を転がりました。ですが霞む意識の中、このままここに居てはいけないと思い、半ば這いずるようにしてその家から逃げ出しました。どの方角へどのように進んだかも記憶にはありませんが、気付けば私は町からも逃げ出し、街道沿いの林の中へと転がり込み、枝垂柳に抱きつくようにして気を失いました。


 そして私の目覚めは―――再びの激痛と共でした。目の前が紅葉のように真っ赤に染まったかと思うと、胸に大変な痛みを覚えました。

 何事かと動かぬ頭を振り絞って確認致しますと、私の胸には鋭利な小刀が柄の部分しか見えぬほどに深々と、冗談の如く突き立っておりました。

 此度こそ、私は大きな悲鳴を上げました。とにかく胸に刺さったこの刃物をどうにかしようと手を伸ばした時、今度は右の腹に強い衝撃を感じました。蹴られた、と思いました。その時に何故そこまで頭が回ったのかは分かりません。落ち着いて考えたなら、小刀が深々と突き立っている時点で人の仕業だという事は分かるものです。そして人気の無い林の中でそのような事をする目的などは一つで、物取りに相違ありません。

 果たして確かに私の周りには、夜の闇に潜むようにして物取りと思しき男達が三人で群れておりました。彼らは胸を刺された私がまだ動いている事を露骨に残念がっておりました。間違いなく殺す気だったのでしょう。

 胸の小刀は骨の隙間を縫うようにして見事に突き刺さっており、男達がそういった事に『慣れている』事を私に教えました。普通なら刺された瞬間にはもう動けなくなっていてもおかしくないのですが、おかしな事に私は痛みすらも殆ど感じなくなっておりました。

 しかし、突然といえば突然の出来事に私も混乱していたのでしょう。自分の胸の小刀に手をかけ、力を込め一気に引き抜いてしまったのです。堰を切ったように真っ赤な血が流れ出し、私の身体が熱を失っていくのが分かりました。ですが私は構う事無くその小刀を振りかぶり、がむしゃらに男達目掛けて振り回しました。とにかく助かるために必死だった事が幸いしたのか、或いはもう私にそんな余力など残っていないと男達が油断していたのか、私の振るった刃は男の一人の眼球へと突き刺さりました。私は更に無我夢中に手を動かし、男の目の奥底を掻き回すように抉りながら強引に引き抜きました。その男はおよそ人間離れした悲鳴を上げながら地に崩れ落ち、私はそれを見届ける事も無くすぐさまその隣の男へと襲い掛かりました。二人目の男は手に細い棍棒を持っており、それを横に払うようにして私へとぶつけてきました。避ける事も思いつかなかった私は、それを左の肩で受けながらも男の喉へと小刀の先端を突き刺しました。空気の漏れるような音と共に男の口から血の泡が沸き立ちましたが、私は許さず引き抜いては突き刺し、また引き抜いては突き刺しました。それも喉に限らず、鼻や唇さえも。一体何度突き刺したのかも分からなくなった頃、男の顔は最早見る影も無いほど崩れきっておりました。その段に至って、私は殴られた左腕を確認しようと顔を傾けました。

 そして、私の眼前でその腕が鮮やかに斬り落とされました。不思議と、痛みや驚きの心は沸きませんでした。ただ、ばっさりと斬られた左腕が地に落ちるのをぼんやりと見届けました。

 私がぬらりと振り返ると、最後の男が血糊の付いた長刀を振り上げていました。私の血糊です。私の左腕の血糊です。

 そう思うと突然おかしくなり、私は思わず笑い出してしまいました。同時に身体が私の意図せぬままに動き、振り下ろされる刀を潜るように前へと出ました。手に持っていた小刀は既に刃毀れどころか半ば捻じ曲がっておりましたが、私はそれを自身に突き立てられていた場所―――胸目掛けて真っ直ぐ突き刺しました。突き刺した瞬間は薄い皮を破るようにすんなりと入ったのですが、しかし刃が曲がっているためかその奥まで綺麗に入りませんでした。そこで私は頑張る事と致しました。ぐるりと回転させながら突き込んでみたり、力を込めて左右へ大きく揺らしてみたり、半ばまで刺さった状態で柄の部分を何度も叩いてみたりしました。しかしどうにも収まりが悪く、なかなか納得がいくようには刺さりませんでした。すると、私は手近な所に長刀があるのを見つけたのです。私は思わぬ僥倖に感謝しながらそれを引き抜くことにしました。ですが長刀は随分と深くまで突き立って、いやむしろ反対側まで貫通している様子でしたので引き抜くにはかなりの労力を要しました。ゆっくりと力を込めて真っ直ぐ引き抜くうち、私の胸元からは夥しい量の赤い液状の物が流れ出ていました。その温かさに励まされるように私は力を更に加え、漸くその刀を引き抜くことに成功したのです。そうこうしている内に私から流れ出す液体も止まっており、随分と身体が軽くなったように感じました。

 三番目の男はと見渡すと、彼はだらしなく仰臥していました。肩を掴んで引き起こすと、世にも恐ろしい凄絶な表情のまま彼は絶命しておりました。実に残念でしたが、折角抜いた刀を使わずに終えるのも失礼なので、私はその男を分かりやすい形に変えてあげる事にしました。先ずは余分な腕と脚を付け根から斬り落としました。この刀はなかなかの業物らしく、大した力を込めずとも切断面も鮮やかに切り分ける事が出来ました。左の脚を斬りおとす時に間違えて臀部を打ち、骨の隙間に挟まって少々難儀も致しましたが、それ以外は恙無く済みました。私は男の形を眺め、今度は耳が気に入らないので斬りおとす事にしました。適当に振り下ろしてみてもなかなか巧く刃が入りませんので、仕方なく私は男の体を足で抑え、鋸の要領でゆっくり斬っていきました。しかし右の耳を斬り捨てた時点で、どうにも耳だけを斬った所でも不恰好になると見えました。私は一計を案じ、男の首を付け根から斬り捨てました。するとどうでしょう。男の身体は見違えるほど分かりやすい形となり、私はとても満足し、喜悦の笑みを浮かべていたように思います。

 ……私が正気に戻ったのはその時になってです。今自分が何をしていたかに漸く思い当たり、激しい嘔吐感に襲われ胸元に手をやりました。しかし、手に返ってきた感触はぽっかりと開いた傷口でした。

 私は驚きました。その傷は確かに私の命を奪う筈の位置を真っ直ぐに貫いており、足元に広がった血溜まりはどう考えても助からない量でした。更に私の左腕は肩の部分から先が無く、頭の天辺は硬質の物で殴打されたらしく不自然にへこんでおりました。仮に私がその状態になった者を見たとして、どうして生きていると思えましょうか。だというのに、私は確かにそうして動いていたので御座います。

 そして私は思い出したのです。斯かる月の姫が居たという家で、自分が一体何を飲んだのかを。あの液は、まさに人を神仙か何かへと変える不死の薬だったのではないのか、とそう思いました。いえ、そうとしか考えられませんでした。事実、私の身体はもはや一切の痛みから解放されており、また幾らかの時間を過ごしたところで意識が薄らぐ事も無かったのです。

 ―――しかしどうした事でしょう。私の身体が神仙のそれになったというのなら、何故このように醜い傷跡がまったく消え去る様子が無いのでしょうか。何故失った部位もそのままなのでしょうか。

 私は考え、一つの答えを見出しました。恐らくあの瓶の中の液体を総て、或いはもっと大量に飲み干す事で初めて真の不死となるのであり、私が飲んだあれだけの量ではまだ不完全なのではないか、と。

 そう思うと、不完全な不死である私は、ともすれば今この瞬間にも死んでしまってもおかしくないと思えました。とにかく、一刻も早くあの瓶の水を飲まなければならないと焦りを覚えました。私は醜い傷跡の事も忘れ、無我夢中で町へと走り出しました。何処か身体が歪んでいるのか、妙に走りづらく何度も転びかけました。

 如何に夜とはいえ、町の中にはまだ歩き回る者もおりました。それらは私の姿を見るや否や、この世の者ならぬ者を見たというように金切り声で悲鳴を上げるのです。私は内心舌打ちをしながらも、とにかく翁の家へと急ぎました。ですが騒ぎを聞きつけた御門の兵達が集まり出し、とうとう私は取り囲まれてしまいました。兵達は私へと手に持った槍や刀を向けてきました。どうやら私の姿は完全に妖怪の類にしか見えない模様で、私は歯噛みをしました。

 そのうち、槍を構えた兵達の後ろに灯りが付いたのが分かりました。何事かと目を細めますと、一呼吸の後に私目掛けて大量の火矢が降り注いできたのです。火矢の多くは私に当たる事無く地に落ち爆ぜましたが、その内の幾らかが私の身体や顔、脚に突き刺さり、たちまち私は全身を炎に包まれました。

 失っていた痛みを感じる心が戻ったような気がしました。生きながらに火を放たれるとは夢にも思わず、全身から立ち昇る肉が焼ける臭いが私を堪らなく混乱させました。

 私は火達磨になりながらも再び走り出し、翁の家を目指そうとしました。しかし構えられた槍に全身を貫かれ、前へ進む事も適わなくなりました。炎に遮られた視界の中、私の来た方向には槍を持った兵が一人もいない事に気付きました。私は破れかぶれで槍の先から逃げ出し、肉を抉られ皮を破り取られながらも元来た方向へ走りました。刀しか持たない兵達は、炎に包まれた私から火が移る事を恐れて逃げ惑いました。そうしてなんとか開いた道へ、私は命からがら逃げ出しました。後ろから雨のように降り注ぐ火矢に追い立てられ、私は町を出て街道を横切り小川に飛び込みました。冷たい水は私から燃え盛る炎を直ぐに取り払ってくれ、私はなんとか燃え尽きる事を避けられました。

 と、ふと顔に違和感を覚えて残った右手で弄ると、なんと私の眼窩には目玉が残っていませんでした。だというのに、私の目―――と思しき何か―――には確かに景色が映っておりました。益々私は混乱しましたが、とにかく小川から上がる事にしました。このまま流れ続けていくと、身体がずるずると崩れ落ちていくような気がしたのです。

 その時には随分と流されていたらしく、私は右も左も分からぬ状態でありました。自分の身体を無いはずの眼で見ますと、人の色とは思えぬ焼け焦げた黒の色に成り果てていました。これでは、また人目に触れれば妖怪と間違いなく思われてしまうでしょう。私は姿を隠すついでに、手近な杉林の生い茂る山の中へと入っていきました。そして少しでも高い位置へと登り、あの町の場所を探そうと思ったのです。

 杉林を奥に進むにつれ、私は近づいてくる生き物の気配を感じました。恐らく、焼けた私の身体から立ち昇る肉の匂いを嗅ぎつけたのでしょうか。やがて林の狭間から、一匹の熊が姿を見せました。

 私は天を仰ぎました。何故仏様は私に斯くも試練をお与えになさるのでしょう。人の身で神仙の領域を犯そうとした罰なのでしょうか。私は最早武器も持たず、素早く走る事さえ適わない状態でした。熊にもそれが分かったのかどうかは与り知らぬところですが、とにかく熊は見慣れぬ生き物である私の姿に怯えたのか、とうとう攻撃を行ってきたのです。

 私のどの部位がどのように引き裂かれ、どのように噛み千切られたのかなどは分かりません。ただ、文字通り私の姿は八つ裂きに近い状態にされ、動く事さえままならない状態になりました。顔も原型を留めてはいなかったでしょう。

 やがて熊にとっての脅威は無くなったのか、私はその場に打ち捨てられました。とはいえ意識だけは驚くほどはっきりしており、音も聴こえ眼も見え、喋ることも出来ました。しかし無残に引き裂かれた身体が立ち上がり、動く事はありませんでした。

 動けぬままにただ考えるだけをして時間を過ごしました。風雨に晒され私の身体は腐臭を漂わせ、やがて鴉が集まり私の身体を啄ばみました。不思議な事に私の頭の中身や身体の中身までもが喰われているというのに、私の意識だけはずっと保たれ続けていました。

 最早身体と呼べるような物も残らず、幾度と無く季節を巡るうちに私の身体だったものは地に還っていきました。それでも尚『私』はそこに留まり続け、動く事も適いませんでした。

 ……そのうち、私はふと疑問に思うようになりました。『私』は一体何なのだろうか、と。もはやかつての私を成していた物などは消え果て、腸という腸、脳という脳までも失っているというのに、それまでの記憶と共に『私』がそこに居る。

 なんともおかしな話です。私はこの思いつきだけで、既に一年ほどの時間は笑ったものです。


 どうです? あなた様も、この話で笑ってみては如何でしょうか。ああ、それこそ笑い続ける『あなた様』だけをここに置いて行かれても宜しいのではないでしょうか。そうすれば、もっと笑ってしまえる事もあるかもしれません。

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竹取語物 怪鳥三号 @kulasu

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