第2話 浸透し始めた"異常"

「ん…」


誰かに呼ばれたような気がして、私は目覚める。

いつのまにか寝てしまっていたようだ。チェスを中断してリーナがトイレへ行ってから早15分、未だに彼女は戻ってこない。

このままじゃ授業が終わっちゃうよ。雨の降りしきる外を見ながら盤上のルークの駒を傾けたりしていると、ドアがガラガラと音を立てて開いた。

戻ってきたかと思って顔を向けると、入ってきたのは先生だった。まずい、チェス盤を隠さなきゃ。

とっさに半開きになっていたリーナの教科書を被せる。遠目からはこれで大丈夫なはずだ。

前を向き直って先生を見ると、よかった。気づいている様子はない、が…なにやら神妙な面持ちだ。


「えー、現在、市内の各所で暴動のようなものが発生しているそうだ。で、職員会議の結果、安全確保のため本日の授業はこれで終了、全員帰宅するよう指示が出された」


一瞬の静寂の後―ドッと歓声が沸き上がる。5時限帰宅は高校生にとって、それこそフェスに匹敵するぐらい盛り上がる出来事だ。


「お前ら静かに!」


先生が結構な声量で怒鳴り、教室は再び静まり返った。


「安全のため、自力帰宅は禁止だ。保護者の方には通知してあるから、迎えが来たものから順次帰宅するように。もう来てるご家庭もあるから早く行けよ」


そう締めると皆は誰も彼もがご機嫌な様子で、カバンへ荷物を積めて帰り支度を始めた。

私も同様に支度し始める。この時間なら、見ようと思っていたアニメが録画しないで見られそうだ。今日はそれほど荷物が多い日ではなかったので、支度はすぐに終わる。学校指定の肩掛け用カバンを持って立ち上がり、少し身を乗り出して窓の外を見ると、たしかに結構な量の車が集まっている。


「ミカ、ちょっと」


眺めていると、後ろからカレンに声を掛けられる。


「カレン、どうしたの?」


振り返って歩み寄ると、彼女はけげんな表情をしている。


「リーナが戻ってきてないこと、先生に行っといたよ。探してくれるって」


「ありがとう」


私も先生に相談しようと思っていたが、カレンの動きの方が早かった。

だが、先生は数人の生徒から質問されているようで、もう少しこの中からは出ないだろう。


「…ちょっと気になるし、私の方でも様子見てくるね」


カレンにそう言って、私は教室を出た。


彼女はトイレへ行くと言っていた。最寄りは2階の女子トイレだ。

そこまで離れているわけでもなく、すぐにつく。入り口のドアを開け、中へ入ると―

入って右手、個室へとつながる通路に無言で人が立っており、私はギョッとしてしまった。


だが、その人はよく見ると…


「リーナ?」


薄暗いし、背中を丸めて俯いているせいで顔はよく見えないが、髪型、体格は間違いなくリーナだった。

私の問いかけは聞こえなかったのだろうか?もう一度名前を呼んでみる。


「リーナ、だよね?リーナ?」


何も答えない。普段のリーナはよくふざける人間ではあるが、こっちが本気で心配しているのにふざけつづけるようなことはしない。切り上げのラインはちゃんと知っている。それを踏まえると、今の彼女はふざけているならやりすぎだし、ふざけていないなら明らかに様子がおかしい。

耳を澄ませてみると、彼女の呼吸は荒い。


「どうしたの、具合悪い?」


変なものでも食べてしまったのか、それとも例の食中毒?

相変わらず息を荒げるだけで何も答えず、このままでは埒が明かない。より直接的にアプローチした方がいいか。

手を伸ばして彼女の両肩に置き、「おーい」と呼びかけながらゆすってみる。


「おーい、リーナ?ミカだよ、わかる?」


「ミ、カ」


やっとリーナは答えたが、搾り出されたようなひどく擦れた声だった。やはり具合が悪そうだ、このまま保健室へ連れていこう。

そう思った矢先、私の右腕をリーナが掴む。最初は支えにしようとしているのかと思ったが、段々と掴む力が強くなってくる。


「ちょっと痛いよ…どうしたの?痛い痛い、やめてよ」


止めてと言ったにもかかわらず、彼女は手の力を緩めない。本当にどうしてしまったのか、具合悪いだけでは説明がつかなくなってきた。

今の彼女、なんだか不気味だ。やることなすこと、リーナじゃない。


「ミカ」


もう一度、彼女が声を絞り出した。するとゆっくりと顔を上げ始める。

私は強く腕を掴まれているせいで動けないまま、その様子を見ることしかできない。


顔を上げたら、いつものリーナの、あの可愛らしい顔が見られるはずだ。ちょっと体調が悪いせいで笑ってはいなさそうだけど、「お腹痛いよミカ~おぶってって~」とか言ってくれる。そのはずなんだ。


顔が上がっていくにつれ、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。息が荒くなり、室内は涼しいはずなのに汗が頬を伝う。


どうしたの、リーナ。制服がビシャビシャになってるよ。血までついてる、すぐ保健室に行かなきゃ。ああ、胸元のリボンがズレちゃってる。先生に見られたら怒られちゃうよ、直さないと。


丸まっていた背中が伸び、彼女の顔が上がった。


「た、ぇ」


瞳孔が開ききり、焦点の定まらない目、くしゃくしゃに崩れた前髪、半開きの口から垂れ流される涎と、鼻血が混ざって床へ落ちていく。

私の知っているリーナの顔では、なかった。


「…っ!」


急に彼女が動き出した。私の腕を握っていた手が離され、両肩へ回される。彼女はそのまま私にのしかかり、押し倒されてしまう。


「きゃっ!」


床へ倒れた衝撃に脳を揺さぶられ、視界がぼやける。倒れる時に先に背中が床に付き、そこで勢いをある程度受けとめたおかげで頭への衝撃は緩和された方だったが、それでも結構な痛さだった。数回の瞬きでやっと視界がはっきりすると、すぐ眼前に彼女の顔が迫っていた。

そして、なんと彼女は私にキスを―口を被せた。あまりの急な出来事に、これまでの異常な状況が合わさって、私には拒否感しかなかった。

やめて、と大声で言うも塞がれた口からはくぐもった音しか聞こえない。

彼女は両肩をがっしりと掴んでおり、一向に放す気配がない。それに加え、彼女の体全体が周期的に跳ね上がり、ゴポン、ゴポンという音が口を通して体内から聞こえてくる。何かを吐き出す気だ。しかもこのまま!?


何としても逃れようと必死でもがく。体をよじらせ、彼女の手を掴んで、引き離そうと渾身の力をこめる。今の彼女は普段とは比較にならないほどの力を出している。たまにやった彼女との腕相撲ではいつも私が勝っていたが、決着のつく直前のわずかな時間だけ感じた彼女の全力が、今は常にかかり続けている感じだ。


腕を一筋の汗がつたっていく。いつの間にか、全身から汗が噴き出ていた。


なんとか離すことはできているが…息が苦しい。口をふさがれているせいで呼吸が十分にできない。早く引き離さなければこちらが先に力尽きてしまう。

一気に決めなくてはダメだ。鼻で精一杯の空気を吸い込むと、腕に全身全霊を振り絞って力をこめる。

彼女の食道をせりあがってきていた何かが、おそらく喉元まで来ているだろうというタイミングで―やっと口が離れた。


解放された口で荒く息をして、必死に酸素を取り入れる。その一瞬に力が弱まると、彼女はまた私に迫った。

顔をそむけることで避けられたが、彼女はまだあきらめる気がない。何が何でも私に取りつこうと、必死で顔を振り回し、力を込め続ける。

その姿はもう見ていられない。


「リーナぁ゛!!もうやめてぇっ!!!」


足でもがいてみると、彼女が腰を浮かせ、顔を突き出すような姿勢に変わったことで隙間が生まれ、足を動かせることに気が付く。

この状況なら、一つの方法が使える。膝を折って右足に彼女の股の間をくぐらせ、上履きの底が彼女の腰に当たる位置へ足を動かす。


これをやれば、彼女は間違いなく怪我をする。でもこれ以外に状況を打開できるすべがない。

腕は疲労感が蓄積してきており、長くはもたない。このままではいつか押し切られてしまう。


…ごめんなさい、リーナ。


折りたたまれていた右足を一気に伸ばし、彼女を思い切り蹴飛ばした。彼女は吹き飛び、やっと私は解放される。

肩で息をしながら顔だけ上げると、勢いよく吹き飛んだ彼女は大きく頭をぶつけたようで、僅かに痙攣しながら壁を背に、足を延ばして座り込んでいる。

だが、その痙攣が次第に収まると、また動き出した。壁に寄りかかりながら立ち上がろうとしている。

私は急いで立ち上がり、トイレから出た。


ドアを開けると、すぐ外に生物の先生がいた。後ろには数学の先生もいる。


「ミカ!大丈夫か?何かあったのか?」


生物の先生はさっきの私の叫びを聞いていたようで、心配した表情で私に駆け寄る。

私はまだ荒い息を整えながら口を開く。


「リーナの様子が…おかしいんです。私にのしかかって、急に、何が何だか…」


生物の先生は私を一瞥し、異様な状況を察したようだった。髪は乱れ、シャツはくしゃくしゃになり、息を荒げているのだから。


「わかった、リーナは私たちで見ておくから、君は玄関へ行って迎えを待ちなさい」


そう言われ、私は教室に向かった。置いてきた荷物を取るためだ。


リーナのことは気になったが、私には何もできなかった。


ふと気が付くと、いつの間にか教室へと付いていた。中には誰もおらず、電気も消えている。

置いてあったかばんを取り、次は言われた通り1階の正面玄関へ向かう。


歩いていると、様々な考えが頭をよぎる。

リーナの様子は明らかに異常だった。正直なところ正気とは思えなかった。

でも、いくら異常だったとはいえ、私は大切な友人を蹴飛ばした。おそらく、怪我もさせている。

その事実が胸のあたりへトゲのように刺さり、心臓の辺りがズキズキするような感覚がする。

リーナに何と言って謝ろう?いや、それよりももっと恐ろしいのは、リーナともう会えないようなことになってしまったら?


不安に不安が積み重なっていく。足はどんどん重くなり、ついに階段の前で歩みが止まった。

リーナが死んでしまったら?長い入院を余儀なくされたら?私のせい?それともあの異常の原因となった何かのせい?いや、怪我させたのは私だ、じゃあ―


「しっかりしろ、ミカ!」


急に肩を叩かれて、私は我に返った。

目の前にいたのは数学の先生だ。顔を上げると、彼は真っ直ぐと私を見つめていた。


「先生、私、リーナを」


「リーナなら心配いらんさ、ちょっとケガはしてるが命に別状はなさそうだ。ただ様子はおかしいから、救急車を呼んである」


先生は肩をポンポンとやさしく叩きながら、穏やかに伝えてくれる。少し不安が和らいだ。


「そうしょぼくれるな。ダチと喧嘩なんて俺はしょっちゅうだったぞ?」


先生は軽快に笑ってみせる。

そこに神妙な面持ちの生物の先生がやってきて、数学の先生に話しかけた。


「救急車は遅れると言ってましたよ、今日は異様に多くて手が回らないと」


「仕方ない、2人は俺が病院まで送ります。タンカ頼めますか」


「わかりました、少し待っててください」


生物の先生は早足で階段を駆け下りていく。

私の方を振りむいた数学の先生は、スッと真面目な表情に戻り、静かに口を開く。


「今日はいろんなところでおかしなことが起きてる、今は帰ることを優先するんだ。リーナには事が済んだら謝っとけばいいさ」


「さあ行け」と付け加えて、先生は私を振り向かせ、背中を押す。

数歩踏み出した後、振り返って先生を見ると、ニッと笑ってサムズアップをしてくれた。

私は軽く頭を下げ、正面に向き直り、階段を下った。



1階に降りると、私はひどく喉が渇いていることに気が付いた。それに、先ほどのことが思い起こされる―リーナに口づけをされたこと。

唇の裏にはねとねととした粘り気がまとわりついていて気持ちが悪く、洗い流してしまいたい。


自販機に硬貨を入れ、一番上の段にある500ml入りのミネラルウォーターを買う。私は水道水が口に合わないので、飲むのはいつも買った水だ。友達からは「高級じゃん」ってよく言われる。

洗面台に近づき、まずはボトルに口を付けないでミネラルウォーターを口に含み、口内をゆすいで吐き出す。そうしてからボトルに口を付け、中身を飲んだ。

しばらくの間飲み、口を離すと無意識に「ふう」と声が出た。喉の渇きは結構なもので、もう半分近く飲んでしまった。そのままキャップを強く締め、カバンの中へと放り込む。


正面玄関の中や外では、雨の為に屋根の外に出られない生徒が迎えを待ってそこらに座ったり、壁に寄りかかったりしていた。


「タサン、悪いんだけど車乗せてくれないか?うちの親、電話にも出ねえんだよ」


下駄箱に寄りかかってスマホを弄っていた男子生徒が、隣にいた大柄な男子生徒に呼び掛ける。


「うちもダメだ。めっちゃ混んでるってよ」


「おかしいな、お前んち、そんな遠いわけじゃないよな」


2人は顔を見合わせる。よく見ると待っている生徒は結構多いようだ。

私のところは来ているだろうか。確認するため、靴を取って正面玄関内から外を見られる位置へ行く。


正面玄関から正門の間、普段は業者の車が止まっている、車が20台ほどは入れる程度のスペースはすべて埋まっている。

では、正門の向こう、車道側に目を向けると…柵の向こうに、見慣れたグリーンの塗装の軽セダンがあった。おそらく父の車だ。


バッグから赤色の折り畳み傘を取り出し、濡れたアスファルトの上を小走りで走り抜ける。正門を出てグリーンの車に近づくと、中には父と妹の姿が見える。車に間違いはないようだ。

運転席には父、後部座席の右側には妹が座っていたので、空いていた後部座席の左側に乗り込んだ。


「お姉ちゃんおかえり!」


妹は満面の笑みで私を出迎える。


「ただいま。お父さん、早かったね?」


「ああ、先に小学校の方から連絡があってね。1時間くらい前に上がらせてもらったよ」


父はギアをパーキングからドライブに切り替え、前の車を避けて左にハンドルを切り、ブレーキを離し、車を正門前に並んだ車列の中から出しながら答える。

周囲を見回す父の横顔が目に入る。特徴的な唇の上で切りそろえられた髭は、色白な肌とワックスでまとめられた髪と合わせて、まるで一世を風靡したあの有名な歌手のようだ。たまにうちで白いタンクトップ一枚でいる時の姿は、もうモノマネの番組に出してもいいんじゃないかと思う。


「お父さん、おやつ食べたい!お菓子屋さんよってー」


「悪いけど、今日は我慢してな。外は色々起きてて危ないらしい」


「えええーっ!?」


エレナは父の返答に大声を出すと、むくれてしまった。

頬を膨らませ、わずかに瞳へ涙をためているのは愛おしいが、このまま駄々をこねられると父も困ってしまう。


彼女の頭へ手をやり、やさしく撫でる。


「お菓子なら私の部屋にちょっとあるから、それを分けるよ。今日はお家でゆっくりしよう?」


エレナは少しの沈黙の後、小さく「わかった…」と呟いた。

未だ不本意な表情ながらも納得はしてくれたようだ。


ふと窓の外を見ると、パトカーがサイレンを鳴らして対向車線を駆けていった。あれは学校すぐ前にある交番のだろうか。



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