処刑器具の嗤い

脳幹 まこと

処刑器具の嗤い


1.

 その天才の名はサルトゥヌスという。


 サルトゥヌスは塩屋――名前の通り、良質なサールを売る商人の生まれであった。彼は子供の頃より文章の読み書きをし、大人に交じって討論が出来たとされている。

 その聡明さを以てすれば、親と同じ商人にしても、他の職業にしても大成することが出来たであろう。

 実際、彼が父の手伝いに入ってからは塩が飛ぶように売れるようになり、庶民から「高等民」――実質的な貴族階級へ仲間入りをしていたのである。


 彼の商売上手の秘密は「人々の求めている感情を嗅ぎ当てる」という天賦の才にあった。

「サラリーマン」という語の由来になっている通り、塩は当時は給料代わりとなるほどの価値を持っていた。

 彼の手にかかれば、塩は単純な調味料の域を超え、薬にでも、魔除けにでも、崇拝の対象にでも、何にでもなった。客の心理・欲望を的確に読み取り、理想的なタイミングで適切な説明をすることができた。

 購入者にとって、目的は単なる塩ではなかった。むしろ彼が唱える「魔法」、今でいうカウンセリングやコンサルティングの部分こそが本当の商品だったのだ。


 しかし、サルトゥヌスが十六歳の頃、運命は予想外の方向へ動き出した。

 両親に連れられて、初めて公開処刑を目撃した彼は強い衝撃を受けた。

 そしてそれ以降、彼は取り憑かれたように処刑見学をするようになった。その中で様々な処刑方法、その際の罪人の様子、観客の様子を確認していったとされている。


 彼の興味は、家業でもなければ、当時流行の兆しを見せていた哲学や数学でもなかった。処刑場で見た光景――ライオンに襲われる罪人を見て、負けじとえる両親の姿だったのである。


2.

 古代ギリシアでは処刑は見せしめとしての意味の他、一般大衆も享受出来る「娯楽」としての側面もあった。

 これは我々が東京ドームでライブを見て興奮するのと同じようなことだろう。倫理の在り方は時代によって常に変化していくものだ。


 サルトゥヌスは自分の才覚をある程度理解していた。彼にとっての問題は常に「自分の力をどのように用いるか」であったのだ。

 そして、一人一人向き合って理知的に心を掴むよりも、大勢の人間の心を一度に野獣に変える方に、強い魅力を感じたのである。

 それが処刑器具に結びついたのは、前述した話からして不自然ではないだろう。


 ファラリスの雄牛を作った人物が「試運転」の生贄となったことは有名な話であるが、サルトゥヌスの処刑器具の初の生贄は、彼の親戚だった。

 貧困の末、とある高等民――つまりはサルトゥヌスの家に盗みを働いた罰として、彼特製の処刑器具で二週間近く海老反りの姿勢を強制されたのち、溶かしたブラミーニュ(銅とスズを混ぜた合金の一種)を全身にかけられて悶死した。


 はじめての処刑を終えた後、彼はこう言った。

「これには、改善の余地が多数残されている」


 彼は高等民になれるほどの財産について、両親に半分を渡した後、残りの半分をすべて「処刑器具の開発・演出」に充てるようになった。


 両親は息子の行動に対して怪しく思っていたところはあったが、止めはしなかった。

 自分たちを選ばれし存在にした立役者の邪魔をすることは、様々な観点からデメリットが大きすぎたのである。

(二十歳の時点で、サルトゥヌスからは買うが、彼以外からは――それが彼の父であっても――買わないという状態が出来上がっていたとされている)


 こうして彼は、ゆっくりと怪物になっていった。



3.

 サルトゥヌス躍進のきっかけは、彼が二三歳の頃に起こった民衆の反乱であった。


 王・アウリフォーンは典型的な芸術家気質であり、カリスマで民を従えることは出来ても、平等や安寧とは無縁の人物だった。

「常にどこかと戦争をしている」と揶揄され、反対派には容赦のない制裁を下すといった有り様だった。

 彼の魅了を押しのけた勇士達が果敢に立ち向かい、王は非情なまでの戦力差でそれを制圧した。

 そして「絶望と歓喜の日」と称される八月二日、のべ二四八名の処刑が行われることになり――サルトゥヌスはその演出を一任されることになった。


 選ばれし高等民の中でも、彼の躍進は目を見張るものがあった。それは王の耳にも届いていた――処刑に対し異常なほどの熱意を抱えていることも含めて。

 両親はあまりに残酷な指示に対して愕然としていたが、王の勅命とあらば従うしかなかった。


 彼は迷うことなく、残酷極まる舞台装置を作った。

 一本の黄金の剣を壇上におき、「日が暮れた時に剣を手に取っていた者は、反逆の罪を不問にするだけでなく、高等民の地位すらも与える」と伝えたのだ。

 庶民から高等民となり、権力の堪え難い魅力を体感していたサルトゥヌスだからこそ考えついた発想だった。


 当然のことながら、処刑場は地獄絵図となった。武器を持たぬ罪人たちは獣のように互いを殴り、噛みつき、殺し合った。

 剣を手に取れたとしても、黄金で出来た剣は決して切れ味が良いわけではない。輝く鈍器として用いられ、泥沼状態を加速させた。


 その様子を観客たちは大笑いで見ていたのである。その中には「王の招待を受けた」罪人たちの親族も多分に含まれていた。



 終わりの時が来た。黄金の剣は血に塗れ、夕暮のように赤黒くなっていた。

 もはや誰一人として剣に手を伸ばせる者はいなかった。会場の誰もがこの祭典は終わったのだと思った。


 しかし、最後にとてつもないハプニングが待ち構えていた。


 剣の柄に、一羽のカラスがとまったのである。それは間違いなく持ち主の資格を有したのだ。

 その瞬間、大勢の興奮が爆発した。大音声だいおんじょうに関わらず、カラスが逃げ出すことはなかった。


 一連の物語のような処刑は、過去類を見ないものとして、多くの著名人が取り上げている。目撃した誰もがサルトゥヌスのショーに酔いしれたのである。


 彼らはオスのカラスを捕らえ、高等民としてもてなした。彼(?)が死ぬまでの数年間、大半の人間よりも良いものを惜しみなく与えたとされている。

 無論、これも「演出」の一環であったとは、全く想像もしていなかったであろう。



4.

 こうして、王に認められたサルトゥヌスは多くの場で手腕を振るった。

 アウリフォーンが国を統治していた十三年のうちに関わった処刑は数百にも渡るとされ、王と並んで恐怖と興奮を与え続けた。


 彼は地位や名誉を欲さず、ただ、自分の処刑器具を披露したかった。王にとってこれは好都合だった。

 彼にとっても娯楽のためならば援助を惜しまず、自身の試みを的確に・・・評価する王とは波長が合った。彼らは互いに利で結ばれていた。


 哲学にかぶれた結果、息子の行動を咎めた父親もまた、犠牲となった。

(当時、親殺しは極刑を意味していたが、王の庇護を受けたサルトゥヌスに法律は存在しないようなものだった)


 彼は親への感謝を込めて、とびきり残酷な趣向を凝らすことにした。 


 七本の綱があるのだが、そのうちの一本が多数のクーワント(手首・足首を切断する金属製の器具。家畜を処理する際に用いた)につながっており、これを切ると全身を切り刻むという仕掛けだった。

 彼はこれを「カタールテシウース」と命名した。「切る」「明かり」「作業をする人」という意味を足しあわせた彼の造語であり、現代風に意訳するなら「切り裂き工作員」といったところだろう。


 カタールテシウースの七本の綱のうち、無事に五本を切れば罪を免除する。

 これだけ聞くと大したことはないと思われるが、彼の卓越した調整技術により、綱を切るごとにクーワントが干渉しあい、不気味な唸り声を上げるのである。

 この唸り声は切った数が多くなるほど強まり、また禍々しくなっていく。伝記によれば、この声に耐えきれず途中で狂死した受刑者も少なくなかった。


 また「当たり」を切った場合でもクーワントが降り注ぐまでに時間差があり、希望に満ちた顔が失望、絶望に変わった瞬間を切り刻むという、実に趣味の悪いものだった。


 この処刑器具が「苦痛からの解放」を意味する「カタルシス」の語源となるのだから、時代というのは分からないものだ。



5.

 アウリフォーンが病により死去したことで、サルトゥヌスの栄光にかげりが見え始めた。

 後継となった王・テラーノンは、哲学の影響か平和主義を前面に押し出したのである。無論、両者の軋轢は相当のものとなった。

 サルトゥヌスが三八歳の頃、遂に「高等民」の位を剥奪されることになってしまう。彼は地方都市への移住を余儀なくされる。


 しかし、彼の需要がなくなるわけではなかった。表向きには消滅したように見える「過激な見世物」は、ただ裏へと移動しただけだったのだ。

 残酷を望む者たちが絶えずサルトゥヌスを指名し続けた。彼はそれに応え続けた。

 一部のアウリフォーン派の高官が、テラーノン暗殺を持ちかけたこともあった。先述した通り、彼の目的は処刑自体にあるため断ったのだが、「王にふさわしい【形式】を考えるだけで夜眠れなくなる」との発言もしている。



 そして四三歳の誕生日を迎える三日前の七月二十日――天才・サルトゥヌスは王の命により処刑されることになった。


 表向きの理由は「流行り病を持ち込んだから」とのことだったが、もちろんそのような事実はない。

「多くの賛同者を得、権力を大きくする彼に恐れをなし、脅威となる前に手を打った」という説が筆頭である。

(個人的には「彼を生かしたままだと、どんな惨たらしい【形式】が生まれるか分からなかったので始末した」という説を推したいが)


 処刑方法は「二匹の牛をそれぞれ正反対の方向に走らせ、その力で受刑者を二つに裂く」という、それなりに名の知れた動物刑であった。

 遺言を求められた彼はこう告げたとされる。


「蜂を駆除しても、蜂の蜜を求める者は消えない」



 その予言の通り、サルトゥヌスの死の僅か五ヶ月後、王・テラーノンもまた死することになった。

 皮肉なことに、徹底的な平和・非暴力主義によって、前王・アウリフォーンの時には難なく防げたはずの民衆の暴動すらも止められなくなったことが原因だった。

 彼は人の善性にばかりに気を取られ、残酷な処刑に狂喜する一面を勘定に入れなかったのだ。

 説得も虚しく、王は暴力によりたおれた。


 その後を引き継ぐ王は誕生せず、国の治安はみるみる間に悪化した。

 そして、隣国に滅ぼされるまでの数か月、国そのものが巨大な処刑場と化していた――

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