リミナルスペース放火殺人事件 後編




 早合点だった。

 あれからAは無人の住宅街をさまよい、霧の深い森をさまよい、砂漠をさまよい、地下鉄の通路のようなじめじめとした細長い通路をさまよい、ぽつんと光る深夜のガソリンスタンドを通り抜け、どこにでもあってどこにもない普遍に虚しい空間を歩き続けた。


 あの住宅街には、本当に誰一人いなかったのだ。車さえ通らない。

 薄暗い日差しを浴びてぼんやりと佇む家々が、連綿と続くのみだった。

 肉体よりも精神の疲労でぜえぜえ息を吐きながら、Aは住宅街を端から端まで歩いたが、どの方角も端は濃霧で覆われて終わっていた。



 疲労はある。空腹もある。

 だがそれ以上に、ここにいたくないという気持ちがどんどん強くなっていくのだった。

 最初は立ち止まらずに動くことを強制されたからだったが、今では自発的に次の空間、次の空間へと足が動くようになっていた。

 それはうんざりする嫌な気持ちとはまた似て非なる感情だった。


 寝る前の布団の中、スマホで惨憺たる殺人事件の記録を次から次へと夢中で読み漁ってしまったときの、謎の暗い興奮をAは思い出した。

 ここを抜けたら違う場所に出る、ここを抜けたら違う場所に出る、行為の中身よりもただその切り替わりの中毒になって一心に……。



 雪が積もった道路に足跡を残し、天井が剥き出して鉄骨が出ている家具販売店を通り抜け、照明が切れかかった薄暗いホテルの廊下を直進する。

 四人目の脱落が放送で流れてきたが、もはやAの耳には入らなかった。

 時間も場所も狂っている。狂っているのは俺の方かもしれない。


 そうだ!こんなこと現実であるわけない。

 これは俺が見てる夢なんだ。


 きっとさらわれたときに催眠術でもかけられて、悪夢の中に閉じ込められたんだ。

 ならば死ねば目が覚めて現実に戻れるのか?



 長い廊下の突き当たりにはエレベーターがあった。階数表示はなく、上るか開けるか閉めるかしかない。

 やがて最初の空間とよく似た白いタイル張りの部屋に着いた。

 中央にプールというより、膝が浸かる程度の浅い水路がある。


 端の通路をてくてくと歩いて幾つもの部屋を抜けていくと、はじめて分かれ道が出てきた。

 両端の通路の先は真っ暗で何も見えない世界、そして水路の先の光り輝いた世界。



 天国でも地獄でも、人に会えなくても何でもいい。ここじゃないどこかに行けるなら……。


 けれどAは、どれだけ投げやりになっても広く明るい世界への憧れを捨てきれていなかった。足を水路に下ろすと、ちゃぷちゃぷと音を立てて光の中に吸い込まれていった。


 落下音。






「全員脱落ですか。まあ当然でしょう」

 そう言いながら宇宙人と名乗るシルエットの人物はモニターの電源を消した。


「最後の人は惜しかったですね。上る前に少しでも深淵を覗き込んでいれば、出口に通してやったのに。詫び寂びが分かる日本人なら、liminal spacesの魅力も理解できると信じていたのですが……」


 水がしたたるような音。





 〇 〇 〇





 某県某市、山奥の廃工場で火事が発生した。地元の消防隊が駆けつけた頃にはほとんど全焼しており、中から黒焦げの死体が発見された。死因が絞殺による窒息死であることと、火元からライターが発見されたため警察は放火殺人と判断して捜査を進めているが他に犯人の手掛かりは出てこず、困難を極めている。

 また検死の結果、人体とは構造も成分も違う内臓や骨が複数出てきたが、死体の身元特定に結びつくようなものは未だ見つかっていない。


 廃工場はかつて石灰石の加工工場だったという。ここから多くのセメントやタイルが製造されて、日本全国や海外へ運ばれていった。


 権利者が行方不明になり、誰でも入れたその工場は火事の後警察によって封鎖された。

 今では立ち入り禁止のバリケードが強風の度にぶつかり合って、ガタガタと音を立てるのみである。




 完





 〇 〇 〇





【挿絵】最後の空間イメージ(blender作)

https://kakuyomu.jp/users/tentrancee/news/16817330667765503480



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リミナルスペース放火殺人事件 水長テトラ @tentrancee

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