裁決

 裸足のまま紀子は冷たい道路の上を歩く。ハッと息を吐くと白い。冬が来た。紀子が裕也を殺している間に冬が来た。赤くなった手のひらを暗い夜空に翳して、紀子は熱い身体を鎮めた。

 案外殺人とは呆気のないものだった。憎い相手だからか、哀しみはない。だけど、なぜか彼の息が止まったことを確認した瞬間、紀子は少し泣いた。ハラハラと流れるような涙を流した。血に濡れたヒールは先が折れてしまい使い物にならなくなったので、泣きながら裕也の会社の窓から路地に投げ捨てた。

 自分でもこの殺人は遅すぎた復讐だと思う。小学生なんて、まだ責任なんて言葉の意味もろくに知らない時期だ。人を虐げる恐ろしさも悲しさも痛みも憎しみも知らない。

 だけど、紀子は裕也を許すことができなかった。今日この会社まで来たのは、彼に幼少の頃、紀子をいじめた記憶があるかどうかを確認するためだけだったのだが、憔悴した彼を見た時、「今ならこいつを殺せる」と思うと、次第に怒りがふつふつと湧き上がり、止めることができなくなった。紀子は記憶に蓋をするほど彼のことを忘れたがっていたのに、対して裕也は紀子のことなど歯牙にもかけずに最後まで思い出すことはなかったのだ。そのこと事態が紀子には許せない。

 彼の一言で、紀子はどれだけ傷ついたかわからない。絶望に心が染められる時、心が折れる音がすると言う。たしかに紀子はその音を聞いた。ポキリよりもカチリに近い音だったと思う。

 相変わらず体は熱く、深呼吸を繰り返し、紀子は自分を落ち着かせる。

 その時、背後からぎゅっと誰かに抱きしめられた。

「見つけた」

 この甘い声を忘れるはずがない。この声は久保だ。紀子は彼女の身体をきつく縛る腕に手を置いて、自分も甘えた声を出す。少し震えてしまう。

「……びっくりした。どうしたの、久保さんったら。こんなところで」

「君が僕の会社から出て行くのを見かけてね」

 少しどきりとした。だが、まさか今まで紀子が殺人を犯して来たころには気づくまい。

「ばれちゃった? あなたがいないかこっそり覗いて来たのよ。会いたくなっちゃって」

 久保が紀子の髪に顔を埋めながらくぐもった笑い声を上げた。

「嘘ばっかり」

 紀子は振り返って彼の姿を見ようとするが、抱きしめる彼の腕がそれを許さない。さきほどからそっと彼の腕を解こうと抵抗しているのだが、彼女の細腕では敵わなかった。

 ぐりぐりと頭を紀子の首元に押し付ける久保は、小さく呟くように言った。

「……もしかして裕也を殺して来たのかい。岡崎を殺した小城裕也のことだよ」

 今度ばかりは耐えられなかった。紀子は一瞬体の動きを止めて、すぐに力一杯もがき始めた。しかし、彼が紀子の首に歯を当ててきたので、動きを止めざるを得なかった。

「しばらくじっとしていて。僕の言葉をよく聞いてくれ」

 彼がぼそぼそとした声で言った。紀子は言う通りに静止した。

「そうだ。長い間、人と話すことがあまりなかったから、ちゃんと言葉を話せているか不安だから、ちょうどいいし会話の練習相手になっておくれよ」

 一気に頭の中のあらかじめ考えていたセリフを吐き出すように、彼は言った。

「うん。そうなんだ。人と話すのは久しぶりなんだ。君のような事情を知っている人と話すのも初めてだから。今までずっと久保に眠らされていたから、とてもとても不安なんだ」

 久保が、いや、久保じゃない? 紀子は彼をなんと呼べばいいかわからなくなった。今、紀子を抱きしめるこの男を、彼女はなんと呼べばいいのだろう。

 久保ではないのか?

「久保は僕らにとって『統率者』的存在だった。彼は僕らの複数の人格をコントロールし、やがて複合してまたひとつに『統率』しようとしていたんだよ。だけど、それは許されざるべきことだ。なぜならそれは元々のこの体の所有者である僕を無視した行為だからだ。出来上がった複数の人格を混ぜ合わせばどうなる。そこには僕の居場所がない。僕はたしかに自分の人生を充実させるためにいくつかの新しい人格を付与することで経験の幅を広げた。だけど久保がやろうとしてたのはもはや殺人だ。僕という人間を殺して、久保は新しい人間を産み出そうとしてたんだ。それじゃあ意味がない。僕は人生を謳歌するんだ。僕が主体であり、僕の意識を尊重することが前提にないといけない。だから僕は自己防衛のために、少しずつ、彼に気づかれないように反逆を始めた」

 彼は紀子の首を甘噛みする。全然嬉しくない。紀子は少し鳥肌が立った。これは、久保じゃない。

「少しずつ起きる練習を始めた。長い間久保に眠らされていたからね、他の奴らに気づかれないように夜中に起きることにした。最初の頃は家の中で練習を重ねて、次第にその範囲は家の外にまで広がった。嬉しかったよ。当たり前のことができる自分がまだ存在していたことを確認できてさ。そして体を慣らしてきた僕は、今度は『内』の方でも仕掛け始めたんだ」

 そう言った彼はくくく、と気味の悪い笑い方をした。

「何をしたと思う? 久保に眠らされていた他の人格を少しずつ殺したのさ」

 ゾッと二の腕が震えた。

 正確な意味は紀子には分かりかねたが、背後にいる男が異常な殺人鬼であることは理解した。

「毎日少しずつ、少しずつ減らした。もう今回のことで、あまり人格を増やしても、次第に他人格に取り込まれる可能性があることがわかったしね。必要ないものは片付けなければならない。その過程で誤って起きている時に他人も殺してしまったんだよ。僕の中の他人格ではなく、現実に生きる他の人間をさ。夜中の起きる練習をしていた時に間違って、寝ぼけていたのかな、やってしまってね。その時、潮時かなって思ったんだ。そろそろ実際に久保に反逆してやろうってね。ちょうど君と出会う前日の夜のことだったかな」

 では、あの合コンの日、久保(?)は殺人したことを知らずに、血に染まってしまっていた手で紀子に触れたのか。

「あの合コンのあと、ちゃんと友達に連絡した? その様子じゃしてないよね。二次会のカラオケの時、久保が少し長い間抜けた時があったでしょ。その時、俺が気づかれないように起きてさ、前の晩に用意しておいた死体を目立つ場所に置いたのさ。あの後君は久保と死体を置いた場所と反対方向に帰ったから気づかなかったけど、たぶん友達の、えーと、ゆきなちゃんだっけ? が見ちゃったんじゃないかな。ゆきなちゃんいい仕事してくれたよ。ちゃんと通報してくれてさ。でも、久保の野郎さ、ゆきなちゃんのがんばりを全部無駄にしやがったんだよ。次の日の朝のニュースを見て、きっとその事件と自分の関係に気づくかなって期待してたんだけど、あいつ仕事に熱中してて、全然気づかなかったんだからな。まぁ、メモを見て違和感を感じるくらいには効果があったみたいだからいいけどさ。それに、ここで予想外な特効薬が効いたから、良しとしよう。……君のことだよ。睡眠薬を飲ませて眠った君のことなんだよ」

 睡眠薬。あぁ、紀子が久保の家で泊まった日のことか。あの、人生で初めて会社を無断欠勤してしまった日。あれは薬による症状だったのか。

「ほんとは久保が帰って来たところで君が目覚めてくれる予定だったんだけどね、薬の作用は人それぞれということ。でも、君が彼の手帳を持って帰ってくれたことはよかった。あれは彼にとって心の拠り所だったからね。あれがないと、彼の精神は不安定になるんだ。君にもあるだろう、そういうものが。ケータイに依存する少年少女のように、彼もあのおんぼろの手帳に依存していたんだよ」

 その大切な手帳を、私は軽い嫉妬心から持ち帰り、軽い気持ちで捨てた。

「依存先がない人間というのはどれほど弱いものなのか、君にも見せたかった。久保は人が変わったようにあの手帳を探した。その間に他の三人を蹴散らすなんて簡単なことだった。元々この身体は僕のものだ。長い間起きて体を支配していたからって、久保以外は大した所有権も持っていないからな。混乱した久保は体の中の『同居者』が次第に減っている事にまったく気づかなかったのは愉快を通り越して哀れに見えたよ」

 そこで一拍彼は置き、続きを話し始めた。

「岡崎と小城の関係にトドメを入れたのも僕さ。元々この二人は仲が悪くて、久保がそれを面白がってチャチャいれてたからね。普段は岡崎と行動し、たまに小城に好意的に接する。久保という存在を通してあの二人を無理に繋げて、より憎悪を深くさせようとしていたのさ。あの男はそういう趣味の悪いところがあった。久保は生まれて間もないからか、そういう人間の関係や感情の機微に興味があったようだ。……いや、もしかしたら本当はあの二人の仲を本気で修復したかったのかもしれない。まぁ、もはや真意を聞く事は叶わないがね。とにかく、昨夜は会社に来てその岡崎という男の机に落書きをしてやったんだ。あの神経質そうな男はきっとすぐに小城が犯人だと思ったはずだ」

 妬み嫉みは恨みへ変わる。恨みは伝染し、やがて殺意となって帰ってくる。

「死体を確認したわけじゃないけど、たぶん彼はもう小城に殺されてるんじゃないかな」

 だから、紀子が裕也に会った時、彼はあんなにも憔悴していたのか。彼は泣くように繰り返し言っていた。岡崎の声が僕を責めて来る。

「そしてその小城も君が殺してくれた」

 そう言うと、彼は紀子の頬に指で触れた。この指は間違いなく久保の指だ。だけど、感覚が違う。久保に触れられた時と違い、紀子の身体がその動きに拒否反応を示す。

「紀子、君は今回の事件に於いて最も予想外な動きを見せた異分子だった。久保を狂わせ、小城にトドメを刺し、僕の秘密を唯一知る重要な参考人。

 紀子。ねぇ紀子。僕の秘密を知っているのは君だけだよ。共有しよう。僕も君が小城を殺したことを言わない。君も僕のこれまでの久保との関わりも、多重人格であることも言わない。一緒に隠し合いながら、生きていこうよ」

 ぞわりとした。嫌だ、と心の底から叫び声が上がる。

 紀子は「やめて」と叫んで渾身の力で彼の腕の中で暴れた。今までどうしても解けなかった彼の腕が紀子の大声に驚いたのか、びくりと震えた。その隙に紀子は抜け出した。息を荒くしながら彼を振り返り、目を見開く。

 初めて二日ぶりの彼の姿を見て驚愕した。そこに立っているのは間違いなく久保だった。背格好も、顔立ちも、匂いも何もかも久保と同じ身体がそこにはある。だけど、同時に間違いなくそれは久保のはずがないと確信もした。血走らせた目に酔ったように緩く空いた口元、歪んだ重心のせいでアンバランスに見える体、皺だらけの衣服。そして蛙のように大きく飛び出した二つの眼。

 なによりも中身が違うと感じた。今までの彼の話からもわかるが、あの体は「器」だったのだ。様々な人格という色水を入れ替える、その受け皿。

「あなたは誰なの」

 彼の首がくきりと音を鳴らした。

「山下だけど」

 知らない名だ。やました。「まつだ」でも「かねだ」でもなく、もちろん「みちこ」でもなく、やました。そんな名はあの手帳には記されていなかった。

 それを見て山下は「あれれ」と首を傾げた。耳を指で掻いて困ったように笑う。

「ねぇ、君があの手帳を盗んだんだよね。だから君は知っている。そうに決まっている。僕の秘密。久保の秘密。あの手帳は僕たちの言葉だ。聖書なんだ。あそこには全てが記されている。あの手帳こそ僕という人間の全てを保有した記録庫なんだ」

 おかしい、彼は狂っている。紀子はそう確信した。この男は夢と現実の区別がついていない。さきほどの言動からも彼が異常な精神構造を持っていることがわかる。たしかに手帳は紀子が盗んだ。しかし、彼は紀子が正しく手帳の内容を理解できなかったことを知らずに、それからのことを勝手に妄想している。紀子が手帳の秘密を全て解き明かしたと思い込んでいる。また、紀子はそれでも彼に協力的な態度であると勝手に期待しているのだ。だから、「お互いの秘密を共有しよう」と彼は提案しているのだろう。

 勘違いでも自分勝手とも違う。彼はそうあるべきだと紀子に強要しているのだ。

 紀子は今頃のように後悔した。手帳を好奇心から盗んだのがいけなかった。あれが全ての原因だ。

 恐ろしくて、怖くて、堪え難いほど紀子は目の前の男が気持ち悪いと思った。だけど、紀子では彼には勝てないことも、今までの短いやり取りから推測できた。

 でも、それでも紀子は首を振った。絶対に彼の言葉に屈してはいけないのだと思った。

「……知らなかったわ。あなたのことなんて、あの手帳にはなにも書いていなかったのだから」

 怯えたような震える声を絞り出すと、ハアァ、と白い息がふんわりと口から漏れて、落ちて、消えて行った。

 山下は「あ、そう」と小さく呟くと、紀子の手を引いた。

「なにするの」

 紀子はその手を振りほどこうともがくが、万力のような力が手首を絞めた。

「痛いからやめて」

「痛くしてんのさ」

 そのまま紀子は引きずられるように山下に連れられて歩き始めた。

「信用してたのにな。悲しい。これじゃあやっぱり僕は一人か。でも、たしかに人生やり直そうって時に、秘密を知っている人がいるのはまずいよね。僕、全部君に話しちゃったし。寂しがりの僕だけど、案外一人というのも悪くないかもしれない」

「なにを言っているの」

 山下はぐるりと首をこちらに向けた。暗闇の中、青く光る白目と、その真ん中のどこまでも暗く深い真っ黒の穴が紀子を見返した。

「僕ね、人生をやり直すの」

 そういうと、紀子の腕を握ったまま、彼は走り出した。紀子は引きずられるように彼に追いつこうと足を動かす。紀子にとって辛い速度だ。何も履いていない裸の足が地面と擦れて痛い。引かれる腕が引きちぎれるかのような痛みを訴える。足が縺れる度に全身が悲鳴を上げる。「待って」と泣いて頼むが彼は聞いてくれない。

「色んな人の人生を楽しもうと思って色んな人のフリをしたんだけど、失敗だったからさ。だめだね、いつの間にか夢中になっちゃって、作り上げた人格に飲み込まれちまうや。これは大失敗だった。僕が主体でなければ楽しむもなにも、ないのだから」

 そう言って急に立ち止まり、ぐるりと紀子を握った方の腕を大きく振った。突然のことに対応出来なかった紀子は前方に思いっきり投げ飛ばされた。足が天を向き、頭が地を見下ろしている。顔を上げると魚類のように目を大きく開かせた山下が笑いながら紀子に大きく手を振っていた。紀子は宙を飛びながら背後を振り返った。そこは光に満ちあふれていた。人々の作り出す黄色と赤の幾重にも重ねられた人工の夜の景色。まだ眠れない男と女たちの狂騒が潮騒のようにさざめく人間の生きる街。その間にぽっかり空いた細い溝。細いレールがまっすぐ走る、狭くて暗くて誰もいない間隙。

 紀子はそこに落ちた。

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