告白10

 紀子は裕也の勤める会社のエントランスにやってきた。場所は合コンの時に久保から貰った名刺でわかった。時刻は十時過ぎ。会社員たちもまばらとなっており、すでに受付嬢はいない。帰り際の会社員のうち、裕也の同僚らしい人たちに彼の所在を訊ねたが、みんなまだ彼は中で作業をしていると言っていた。あいつが残業をしているのはたいして珍しくないからしばらく待ってみな、と言われて待ち続けて長い時間が経った。

 紀子は暗い社内を見上げる。エントランスは吹き抜けになっているが、明かりは既に消されており二階は闇に覆われて見えにくい。ふと、ガラスに写った自分の姿が目に入った。全身を黒で包んでいる自分は闇に溶け込んでいて、ただ白い顔が宙に浮かぶ生首のように見えた。しばらく自分の姿をしげしげと見ていた紀子は、何を思い立ったのか、履いていたハイヒールを脱いだ。

 ハイヒールをゴミ箱に捨て、彼女は音もなく走り出す。

 紀子の頭の中は真っ黒に染められていた。胸が熱く、高鳴る。

 階段を伝って二階、三階と上っていく。四階で明かりの点いた部屋を見つけた。中を覗き込むと、ひとつのデスクがぼんやりと薄く灯っていた。そこに、ひとりの男が突っ伏している。

 男は憔悴していた。肩を深く落とし、身体の重心を椅子に預けてしまい、彼の身体はほとんど自重を支えられていなかった。この前はきっちりと整えられていた髪も、今は力なくだらりと垂れ下がり表情を隠している。

 紀子はそっと近づいた。少しずつ近づく。自分の息を殺し、身体の全身に神経を張り巡らせる。足先が地に着く度にぞくりとする。指先が少しずつ裕也に近づいている気配に痺れるような痛みを訴える。彼の真後ろに立った時、紀子は全身の震えを止めることができなかった。彼女は止めていた息を初めて吐いた。

「ふっ」

 その微かな音に裕也は気づいたようだ。たいして驚きもせずに、のっそりと悠慢とした動作で首を回してこちらに振り返った。やがて、紀子と目が合う。身体を動かさず、首だけ動くその姿は首長竜を思い出させた。

「あぁ、君か」

 スッと目が紀子の足下に下がる。

「今日はヒールを履いていないんだね」

「ええ」

 彼は紀子が自分の会社にいることに疑問を抱かないのだろうか。

「ねぇ、小城さん」

「なぁに」

「私のことを覚えていませんか」

「二日前」

「違う。もっと昔、あなたの記憶もおぼろげな時代」

 裕也はまた首をぐにゃりと動かす。奇妙な動きで不気味だ。

「小城さん、小城さん。私をよく見てくださいよ」

 きっと見覚えがあるはずですから。私のこの醜い顔をよくご覧になってください。

「そもそも……君の名前すらちゃんと覚えてないのに、わかるはずないじゃないか」

 そう言って裕也は机に頭を突っ伏した。

「そうかしら」

 紀子はその背中を蹴った。

「昔、私はあなたにこうされたのよ。……ハイヒール、履いてこればよかったわ」

 そのまま裕也の背中に足を置き、体重を乗せる。ずりずりと裕也の体と机が擦れた。

「……まるで、首を絞めているようだね」

 彼はそう言ってくぐもった笑い声を上げた。ぎょろりとこちらに目を向ける。

「ねぇ、君は知っていますか。人の首を絞める感覚を。その時に見せる首を絞められた男の表情を。あれはなんとも言いがたいものですな」

 紀子をじっと見ていたその眼は、次第に焦点を合わす機能を失くしてしまったかのようにゆれて回転を始めた。

「お願いします。僕にもっと話しかけてください」

「なぜ」

「………さっきから僕を男が責めて来るんです。あなたが話している最中は何にも言わないのに、あなたが黙って僕が話しだすと、彼も饒舌に僕のことを責め始める。自分が何を言っているのか彼の言葉に覆われて聞こえない。ただただ僕が悪い子なんだって責めて来る。そんなわけないのに。それなら証拠を見せて欲しい。いいや、それではなんとも馬鹿がする代弁のようで格好悪い………」

 ぶつぶつとそう呟く男を見て、「この男はきっと誰かを殺したんだ」と紀子は確信した。

 大きな暗い感情が紀子の胸を揺らす。

 やっぱりこの人は何も変わってなかったのね。きっと、何人も昔の紀子のように彼の言葉に傷つき、虐げられ、殺されたんだ。でも、今までのこいつは初犯を犯すだけで、常に傍観者を気取っていた。この気弱で臆病な男自身が直接手を出す事はなかった。

「そう、少しは成長したのね。自分の手を血で濡らせるようになったのね。やっぱりあなたは世界で一番信用できない男ね」

 紀子はさらに体重をかけ、そのまま彼の背中に乗り上げた。ふと、思いつきのまま飛び上がり、彼の頭の上に着地する。鈍い音がデスクを揺らした。足の下にある頭がグニグニと温かいゴムのような感触がして気持ちが悪い。

「それではあなたは知っていますか。過去に虐げられた憎い相手が目の前にいる女の表情を」

 足下のゴムに問いかける。

「それは……とても魅力的な顔でしょうね」

 裕也は痛みに耐えながらも挑発的に言った。足踏みをして、彼が顔を上げようとするのを阻止する。

「……僕、あなたに何かしましたか」

「サッカーボールにされたわ」

 少し彼は目を見開いた。

「そんなことは……それだけはありません」

「いいえ、間違いありません。あなたは私の体に足を置き、笑って言いました。私はサッカーボールだと」

 男はぽろぽろと涙をこぼしはじめた。その様子はまるで幼子のようで少し可愛らしく、同時に醜く吐き気を呼ぶ光景だと思った。

「そんなはずありません。僕は心に誓ったんですから。人はサッカーボールじゃない。人は虐めるものじゃない。人は犯すものじゃない。人は媚びるものじゃない。人は嫉妬するものじゃない」

 十戒か何かだろうか。何にしても、その誓いの期限は近い。

「そう、でもきっと、私がボールになったのは、あなたがそれを誓う前のお話よ」

 紀子は彼の頭から下り、顔面を思いっきり蹴った。裸足で人を蹴るとは、これほど痛いことだと初めて知った。裕也はぼたぼたと鼻血を零しながら床に滑り落ちた。

「殺してやる」

 紀子は裕也の机にあったデスクライトを握り、彼の頭に二度ぶつけた。ライトがひしゃげた。

 「待って、待ってくれ」と彼は鼻血を頬に擦り、涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を紀子に向けて懇願した。

「殺すなら、僕の首を絞めてくれ」

 紀子はその言葉がおかしいと思った。こんな状況だけど少しだけ笑った。

「助けてくれ、じゃないの」

「それが僕にとっては救いになる。岡崎が僕に言うんだ。岡崎はずっと誰かの首を絞めたかったって。それは僕が彼にしてしまった。せめての償いに、彼の願いを君が変わって執り行ってほしい。そうすれば、僕の気持ちは少し救われる」

 そう、と紀子は笑った。

「岡崎さんには悪いけど。それじゃあだめね」

 岡崎は呆然とした。きっと、ここに第三者がいたら、その笑みを絶賛しただろう。細められた目、ふっくらとした白い肌、唇を濡らし口角を上げて、それを覆い隠す細い指。全ての動作が魅力的で、ひとつの絵画のように美しかった。しかし、彼女は自分の表情を見る事ができない。彼女は自分が最も美しかった時代を知る事は永遠になかった。

 しばらく裕也はそんな紀子に、殺人を懇願したにも関わらず、見惚れてしまっていた。その表情を訝しげに見ていた紀子は突然、何かを思い出したかのように廊下へ出て駆け出して行ってしまった。

 ど、どこに行くんだ。

 置いていかれた裕也は理解出来ずに呆然と立ち尽くす。なぜ彼女は走り出したのか。裕也を置いてどこへ出て行ってしまったのか。あの美しい君は、もうここへは帰って来てくれないのか。

「これじゃあ、僕は死ねないじゃないか」

 裕也はずっと悩んでいた。岡崎を殺し、自首も考えたができなかった。耳元で囁く岡崎の声は次第に音量を上げて、より暴力的な言葉を使うようになった。その声に導かれるままに、今まで蓋をしていた記憶を掘り返し、自分のしてきたことを目の前に見せつけられた。岡崎はそれら全てを冷静に見直して、裕也が犯してきた罪をひとつひとつ指摘していった。

 心から死にたいと思った。

 今までの自分がどれだけ未熟であり、どれだけ愚かであり、どれだけ常識知らずであり、どれだけ言葉の力というものを理解していなかったのを知らされた。自分のこれまでの行い全てが羞恥にまみれている。今までずっと「自分は正義だ。虐めていない。無関係だ」と言い聞かせていたのに、いざその膜を捲ると醜い自分の過去が裕也を見返して来た。

 岡崎の声が裕也に笑いかける。

「お前が死んでも、誰も救われない。もうお前が原因であった悪事は完遂され、終わってしまっている。そもそもお前のことを許す人間なんていないのだから」

 それでも、死にたい。これが本当の最後のわがままだから、最後の悪事にするから、誰か僕をこの恥ずべき罪から逃がしてくれ。岡崎の声から遠ざけてくれ。

 そう願っていたのに、紀子はどこかへ消えてしまった。

 こんな僕を殺してくれよ。僕を殺せるのは君だけなんだから。僕の被害者であり、僕の憧れの人。

「……誰もいない所に僕を連れて行ってくれ」

 僕がずっと求めていた孤独を、連れて来ておくれ。

「お待たせ」

 振り返ると、紀子が赤く光るハイヒールを片手に駆けて来た。その切っ先が裕也に向かって振り下ろされる。

 岡崎の笑い声がどこか遠くで響いていた。

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