秘密3

 紀子には「久保」だと名前を教えたが、本名は「山下」という名だった。虚言癖というのだろうか。もう二度と会わないと思われる関係の浅い他人には、山下は偽名を名乗ることにしていたのだ。

 人生とは生きている人間一人につき、たったひとつしか与えられない唯一の物語だ。山下はそのたった一つの人生を無駄にする気はない。小さい頃から「人生を謳歌する」と声高らかに唱え続けてきた男だった。そんな山下が大学生の時、とあるミステリー小説に出会った。殺人鬼が偽名を名乗って主人公たちに近づき、味方のふりをしながら殺人を犯し続ける、という物語。それを見て、山下はその犯人に憧れた。山下は殺人鬼に憧れた。様々な偽りの名を駆使して何重にも重ねられた豊かな種類の顔を持つ怪人に魅了された。

 人は、名前の数だけ違う側面を持つ。家族と話す「山下幸喜」。友達と話す「山下」。先生の質問に答える「山下君」。好きなあの子の前の「山下くん」。その時々で微妙に話し方や態度が変わる。と言っても結局は「山下」という人格が根本にあるからあまり変化はないが。

 しかし、もし山下がこの殺人鬼のように、まったくの他人の名前のもとに、まったく架空の人物像を想定して、そして完璧に演じてみたら? そしてそんな自分のことを、それこそが自分の性格なのだと他人が信じたら? それはもはや他人にとっては「山下」という男ではなく、山下とよく似たまったく別の人間と認識されるのだろう。もしそれが可能なら、山下は「山下」という一人の人生の中に、様々な他人の人生(人格)を生む事ができるのではないか。そして、その人間が経験するはずだった、山下の知り得なかった未知の物語の断片を知る事ができるのではないだろうか。言い換えれば他人の人生に踏み込むことができる、ということだ。

 一つの体で、多様な経験を得る。山下はそれこそ「人生を謳歌する」ということなのではないかと考えた。

 そして、彼はそれを実行した。山下は、偽名を使う事で、自分に様々な人格を付与した。

 名前を持てば持つほど、相手にいくつもの人柄を要求された。

「金田くんっておもしろいね。お笑い番組とかよく見るの?」

「おい、浜野。お前グルメ系の店詳しかったよな。どっか美味い店教えてくれないか」

「……赤切さん、どうしてそんなこともできないの? 頭が悪いのは仕方がないとしても、やる気がないのはどうなのよ。もういい加減にして」

「ちょっとー。ゆーくんこれ教えて! 今度テストに出るの! ゆーくん都内のあの有名な大学卒業したんっしょ? お願い! あとでなんか奢るからさー」

「でも今期のアニメは不作でしょう。女性向けが多くて僕にはついていけません。マツダ氏はいかがですか」

「……ってうか、片山って誰?」

 山下はクラリと頭が揺れる感覚を味わった。知らない人間。架空の人間を自分が演じることの陶酔が心地よい。

 山下が誰かの仮面を被り、舞踏を終え家に帰り、ベッドに腰掛けてたった一人になるとする。一見すると、一人の男が自室に座って黄昏れているだけに見えるだろう。しかし、実際は違うのだ。彼にとって、この情景は孤独ではなかった。なぜならこの山下という体のうちには、実に多くの人間(人格)が住み込んでいるのだから。

 自分は一人ではない。そのことを自覚した時、胸から喉まで満たされるほどの幸福感に彼は溺れた。死んでしまうのではないかと思われるほど、息苦しくなった。

 山下が「山下」でなくなるという非日常の感覚。相手を騙しているという背徳感。そしてそれを完遂して帰路に着く安心と達成感。それら全てを総合した愉悦。二の腕が、首筋が、頭の裏側が痺れるほどの悦に震える。

 楽しい。

 山下はいつの間にか、自分が山下という名であることを忘れる時間が増えた。次第に演じた数だけ自分の記憶が掠れることが多くなった。メモ帳に見知らぬ筆跡のメモが増えた。意識のない空白の時間が増えて来た。そして、山下の意識が完全に溺れ沈んだ頃、久保が浮かび上がってきたのだ。

 久保は沈む山下を見て笑う。

 山下という体は、多重人格者だった。

 山下という人格は、精神の深く遠い所まで沈んでいってしまっていた。

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