糸を編む

紅蛇

枝分かれする幾千もの物語の、ひとつ

 毛深族の娘がひとり、草原にいた。

 命あるものすべてが光を放つ昼間とは違う、かがやきがそこにあった。まるで夜空から、さらり、ひかり、と星の雨が降ったように。色鮮やかな草花は月明かりの色に染められていた。

 ——おばあさまがおっしゃっていた夜みたい。

 娘は毛で覆われた両腕をさすった。虫の羽音が時折、静けさの水面に波紋をつくっていた。

 家族のいる方角から梟が飛び去った気配がした。小川を超えた幾千もの先にある山脈で雪が降りはじめた。目にも耳にも誰かに言われたわけでもなく、娘は感じていた。手足は大地を包み込んでいるように。全身の穴が膨張していくように思われた。

 瞳孔は自らの影を恐れる必要がないことを教えてくれる。

 鼻腔は木々の間に棲まう獣たちも自分と同じように生きていることを知らせてくれる。

 鼓膜は川のせせらぎに棲まう魚たちも人と同じように子を持ち、守り、死することを語ってくれる。

「たべ、のみ、ねむり、うたう——」

 自らの体を覆う毛を恨んだおばあさまに、月はそう伝えた。

 

「アーツァ——ッ!」


 沈静を切り裂くような母の声がした。大地と一体化していた血液が体へ戻り、まわりはじめる。呼ばれるまで娘は、土に空に水になっていた。

 振り返ると丘の上に母がいた。大きく口をひらき、返事をしようとすると風が吹いた。ひゅう、さらら、丘をのぼるように風が駆け上がる。母の髪が手を振った。娘は言葉を飲み込み、手足を動かした。

 母の髪は明けることのない夜空の川の色をしていた。けれども太陽を浴びると黒闇ばかりの空に、色鮮やかな虹があらわれた。幼いころから娘は母に宿る虹を見るのが好きであった。

 それが月明かりの元では違う色になることを娘は初めて知った。

 風たちに背中を押されながら母のもとへ辿り着くと、彼女は瞳を湿らせていた。

「アーツァ、無理をしなくていいのです」

 羊のように尊い母の声が泣いていた。娘は母のあたたかさに縋りたくなる気持ちに苛まれながら、目を伏せた。

「いいえ、私はここにいます」

「あなたは息子ではないのに?」

 あなたには大きな胸がある。腰はくびれて、子を成す穴もある。それなのになぜ息子たちや父のように外にいるのか。唇を固く閉じてもなお、娘は母の言葉を聞いていた。

 静寂を吸い込み、顔を上げる。

 毛深族の者で唯一、澄み切った空色をしている目が曇っていた。母は純粋な毛深族ではなかった。そして、その娘も——。

「——私はここにいます」

 娘の決意は変わらなかった。

 

 ⁂


 毛深族は夜の見張りを交代でおこなっていた。娘も、息子も、毛深族の長であってもせねばならぬ大切な役割であった。

 太陽が昇る方角にひとり、太陽の沈む方角にひとり、川のはじまる方角にひとり、川の旅立つ方角にひとり。野花たちが目覚めるまで、獣たちから家族と家畜を守らなければならなかった。

 誰よりも毛深く、美しい黒髪の「大地の姫」と呼ばれた娘も、その役目を果たす日がやってきた。鷹のようにたくましい族長の父に見送られ、娘は見張り場へ向かった。

 娘の言いつけられた場所は、太陽の目覚めと呼ばれていた。そこは太陽がはじめに昇る方角であったため、初めての見張りに選ばれていた。

 羊のチーズと木の実の入った布袋を握り、娘は一際大きな丘に登った。少し欠けた月明かりでも、背骨のように並ぶなだらかな丘の列を一望できた。ここなら蝶が飛んでいても見つけられる。

 左手には森があった。空に届きそうな大木が指の数、頭を出していた。夜を跋扈する生き物たちはそこに住んでいた。何よりも恐ろしいのは狼であった。羊の香りを嗅ぎつけ、群れでやってくるのであった。

 薄暗い草原の中、娘はひとりであった。

 毛無族の者と会った日以来、娘は夜に出歩くことを避けていた。毛深族の誇りを恨んでしまった恥ずかしさを思い出してしまうからであった。

 だが、この夜は違っていた。見張りを任されるというのは、一人前の証であった。

 娘はその事実に、高揚した。腕を流れる赤い川が沸き立っていた。胸の中で女神をたたえる儀式が行われていた。太鼓を叩き、命の咆哮をあげる。大地の歌を天高く捧げるように。心の中に燃え上がる炎は弱まることはなく、嵐の雲のような煙が舞い上がった。毛深族にとって煙は女神への捧げ物であった。この地を包み、生きる糧を与えてくれる母なる女神。

 ふと山から突風が押し寄せた。雨を呼び起こす歌であった。娘の炊き上がった煙が吹かれてしまった。無性に淋しくなり、娘は月に話しかけた。


「——なぜ欠けているの」


 すべてを疎ましく思い、駆け出してしまった娘は月に救われていた。その時は咲き誇った花のように丸く輝いていた。


「——また、無視をするの」


 だが、月は答えなかった。

 娘は諦め、用意していた木の実をついばみ、草原へ目を凝らした。微風が足元の葉を揺らし、毛で覆われた足をくすぐった。夜空には梟が獲物を探しにおおきな羽を広げていた。大地には蜥蜴の尾が流れるように草をかき分けて進んでいた。時折、虫たちの羽音があちらへ、こちらへ、響いた。

 うつくしい夜であった。


「天は生成りの麻布のようであった。ゆるやかに織り込まれた糸と糸の隙間からは、きよらかな光が溢れていた。そなたが産声をあげると、やわらかな雨粒が降ってきた——」

 自らの大きな黒髭ごと、父は双翼をひろげ娘を抱きしめた。

「我がいとしの娘。そなたは女神から頂いたものでもっとも尊い贈り物だ」

 娘も父を抱きしめ、感謝した。おおきくうねる父の毛が、よく似た娘の髪と合わさり、おおきな影となった。そばでは焚き火の煙が天へ昇っていた。

 瞬きをすると、父の姿が消え、毛無族の者があらわれた。

 一目見て心奪われてしまった。黄金にかがやくまっすぐな髪。ながく、しろい手足は陽の光を浴び、木漏れ日にかがやく小川のようにきらめいていた。頭、眉、目の周りにしか毛が生えていなかった奇妙な——。

 たとえその者の姿を羨む気持ちが無くなっても、その者を想う感情は蜘蛛の巣のように残っていた。また会いたい——。娘はその言葉をこぼしてはひろい、つよく握りしめた。

 ちかりっ。

 森のそばで影が動いた。じっと見つめてると影がゆっくりと月明かりに照らされ、その姿をあらわした。馬を引く人であった。息を吸い込み、吐くたび、黒い影は娘に近づいた。


「——何者っ!」


 娘が腰に付けた短剣を外すと同時に、記憶の中のきらめく小川に鱗が反射した。娘は飛び跳ね、呼吸を忘れた。水を求める小魚のようにもがき、やっと出た言葉は「なぜ」であった。

 馬の荒い息遣いが聞こえた。近づくごとに気高い獣の引きずる足が見えた。

「危害を加えるつもりはない。我は助けを乞うために来た」

 星屑が散らされた瞳がそう言った。まっすぐ伸びた黄金の髪がそよ風に揺られていた。なぜ。娘は困惑した。なぜ。考えるよりも早く、心臓は行動した。会いたかった。そう出そうになる想いと高鳴る胸を押さえ込む。父は私を信頼している。威厳を忘れぬように。私は毛深族の長の娘。息を整え、刃物を握り締め、娘は言った。

「そなたは毛無族の者か」

「そうだ」

 かの者は短く答えた。

「なにがあった」

「狩りをしていた」

 かの者の背には弓矢があった。腰には短剣もさしていたが、引き出す様子はなかった。

「仲間はどこだ」

「雄鹿を仕留めようと躍起になっていたら、仲間と逸れてしまった。我が不注意で、馬も怪我させてしまった」

 祈りを込めて編み込まれたたてがみを撫でながら話していたかの者は、言葉を終わらせるなり崩れ落ち、座り込んだ。娘は自分の存在を忘れ、相棒に許しを乞う者に呆気をとられた。握り締めていた守りの短刀を腰にもどし、草花に雨を降らす者へ歩み寄り、しゃがんだ。

「そなたの相棒を見てもよいか」

 かの者は項垂れたこうべをあげると、ちいさく頷いた。赤い花びらが散っている目元から、つつぅ、涙の小川がなめらかな頬をつたい、地へ落ちた。

 娘は目の前のいきものを愛しく思い、背を撫でてやった。

「私の名はヴゥルトゥル。誇り高き毛深族の長の娘」

 そして、立ち上がった。

「名はウルス。我が友、ヴゥントゥを頼む」

 かの者の表情に、雨雲が消えていた。

 娘は微笑んでやり、蹄の持ち主へゆっくりと向かった。手を差し伸べると、やわらかな鼻が触れた。荒い呼吸が手のひらから腕をつたい、心にやってきた。野を駆け回ったときのような、力強い鼓動がそこにあった。命の音であった。

「足を見せて」

 娘が耳に囁くと、馬は答えるように鳴いた。良い馬だ。娘は笑い、感謝した。

 傷は思っていたよりも浅かった。かの者に川のありかを教え、水を持って来させた。その間、娘は辺りを歩き薬草を探した。女神の赤子と呼ばれているかわいらしい花である。暗がりの中でも花びらはかすかな月明かりにしろくきらめき、居場所を教えてくれた。赤子たちを起こさぬよう、そっと葉だけをちぎり、戻った。

 首を振り「まだか」と尋ねる友を励まし、娘は葉を口に含んだ。苦味で顔を顰めながら、小さく噛み砕く。酷い味に比べると、友の痛みのほうが辛いだろう。娘と馬はお互い勇気づけながら、かの者を待った。

 いよいよやってくると真水で傷口を浄め、娘は薬草を吐き出した。いたわるように塗ると、馬がいななき、月が驚いたように覆い被さった雲を飛ばした。

「乾くまで痺れるかもしれない」

 馬を撫で続けていたかの者に、娘は教えた。頷き、髭で隠れていない唇がとんがった耳元へむかった。友はまた、答えるように鳴いた。

 月の光に助けられながら、大きな葉をまわりに巻きつけ、赤子の母親に祈った。女神の赤子と呼ばれる由来は、病を癒すことからきた。母なる大地からの大切な贈り物のひとつであった。花を咲かせていないと、病を悪化させる植物と間違えてしまうことがあり、見分けることが難しかった。雪の風が山から降りるようになると枯れてしまうことがあった。

 すぐに見つけられたことは僥倖であった。

「きっとこれで良くなるだろう」

 娘は良い兆しによろこび、鼻を擦る友を抱きしめた。そしてかの者のほうを振り向くと、大きく見開いた姿があった。


 毛無族の者もまた、娘を奇妙なだと思っていた。獣のような毛深い姿に、郷友はみな野蛮な民だと見下していた。足の遅い羊を育て、大地を移動する浮浪の民だと。だがどうだろうか。友に泣いて詫びるしか能のなかった自分と違い、この娘には知識があった。見知らぬ者に立ち向かう勇気もあった。娘のたくましい手足を覆う毛は、毛皮を奪うしかできぬ我々よりも自然を敬うようにできていた。

 晴天を瞳に宿した者は悟った。うつくしさはさまざまなものに溢れていると。

 天を見上げると夜空を覆う星屑たちがあつまり、ひとつの川へ変化していた。その中を光の小魚たちが泳ぎ、重なり合い、散っていた。銀色の月明かりに照らされ、鱗がきらめき火花となった。命の歌がきこえた。あかいもの、きいろいもの、しろいもの。あおいものに、むらさきいろのもの——。

 そして。

 目の前にがいた。

「大地の姫、ヴゥルトゥルよ」

 ささやくように娘の名を呼んだ。

「弓矢を背負いし狩人、ウルス」

 娘もまた、ささやいた。

 かの者が変わったことに、娘は気付いていた。硬く閉じていたつぼみの戸がひらかれ、草原いっぱいに軽やかな香りを放ったようであった。華麗に咲き誇った花は笑い、娘を抱きしめた。娘も花びらいっぱいに笑い、抱きしめ返した。

 二人は草原に座り込み、さまざまなことを話した。気付きのこと、兄弟のこと、ヴゥントゥのこと、羊のこと、父のこと、神話のこと、お互いのこと——。

 星たちがゆるやかに流れていくなか、ふたりのいきものは誰よりも自分をさらけだせる者をみつけた。

 豊潤な黒髪が肩を流れ、せせらぎとなった。夜露に濡れた唇が名を呼んだ。名の者は答えるように近づき、口付けをし、ふたりはとなった。 

 娘は自分の中で揺れ動くものを感じながら、土に空に水に共鳴した。体を流れる赤い川が大地に根付くさまが目に見えた。よろこびの涙が地に溢れ、光の花を咲かせた。それは希望であり、あらたな命の音を奏でる鼓動であった。ふたりは腕の中のぬくもりが離れぬように、願うように重なり合った。

 だが、永遠に慈しみあう望みは虚しく、天はいつものようにその表情を変化させた。

 月は山脈に沈み、まばゆい太陽が昇った。

 かの者の瞳に空が近付くごとに、娘は父を思い浮かべた。雷が轟くように声を荒げ、哀しむことを。胸の中に湧き立つ雲を吐き出すも、晴れることはなかった。離れたくない。

 娘の言葉が霧となって、彷徨った。

 傍らの太陽が問いかけた。


「また逢えるだろうか」


 だが淡くおぼろげな月は、答えることができなかった。娘は太陽を抱きしめ、乱れた髪を撫でてやるほかなかった。


「——また、いつの日か」


 ふたりはまた口付けを交わし、背を向けた。かの者は友の手綱を引き寄せ、森へ。娘は重い体を探り寄せ、父の元へ帰った。

 父は娘を見るなり、困惑した。

「どうした、我が娘よ」

 やさしく声をかけるも、返事は無かった。

 父ははじめての見張りに疲れたのだ、と納得することにし、娘を休ませた。


 何日か経つと、娘は床から出れるようになった。いつものように女性たちと梳かしたばかりの羊毛を糸にした。古くからのうたをうたうと、娘の心は蜜蜂のように軽やかになった。

 暇になると羊たちの元へ向かった。透き通るまなこを眺めていると、星が流るるかの者を思い出せたからであった。

 かじかんだ体が雪解けてもなお、夜になると悪夢を見た。かの者と離れる夢。父に失望される夢。かの者が父に殺される夢——。かの者と慈しみ合うこともあったが、苦しいものばかりであった。狼の唸りにも似た声が聞こえてくるたび父は飛び起き、娘のもとへ駆けた。

「どこか悪いのか」

 水をやり、背中をさすり、優しくだきしめ父が訊ねるも、娘は泣くばかりであった。

 そうして幾分か時が経つと、娘の腹は大きくなっていった。


 雪の気配がする日に、森へ出掛けた者がたった一人で駆け戻ってきた。暴れる馬を何人かで取り押さえ、落ち着かせた。族長は乗ってきた者のもとへ向かった。

 若者は力を失い、立つこともできずにいた。長の記憶にあった若者の聡いふたつのまなこは、恐怖で見開いていた。たくましい体は慄き、子鹿のように震えていた。その様は天敵に狙われ、必死に逃げおうせた野兎に似ていた。長の豊かな胸毛で覆われた心が警告を叫んでいた。

「何があったか話してみよ」

「冬の支度のため、何人かで森へ向かいました。そうしたらヴェルデが——」

 若者は嗚咽で言葉を続けることができなかった。長は震える背中をさすってやり、その後に来る言葉を待ち構えた。

 ふっと息を吸い込み、若者は見上げた。


「——殺されましたッ!」


 長の絶え間ない呼吸は一瞬止まり、また、流れた。

「誰にだ」

「毛無族の者です。我らを獣だと思い、射ったのです」

 目の前に若き青年、ヴェルデの姿があった。かの者の曇りなき笑い声が聞こえ、刹那。水鳥の羽が辺りに散った。

 若者はまた言葉を濁らせ、雨を降らせた。息を吸い込むも咽せていた。吸い込むのではなく、吐き出せ。そう伝えると、若者は長の屈強な腕を握り締め、青褪めた顔で唇をふるわせた。

「ヴェルデの父親も一緒でした。彼は狩人を捕え争いに——ッ」


 長は大至急で愛馬と息子たちを連れ、冬の支度場へ向かった。目的地に辿り着き、蹄の音が静まる頃には、辺りに啜り泣きが溢れていた。

 鷹の目に横たわる若者の姿が映った。傍にはその者の命を奪った矢があった。鏃からは血が滴り、鈍く輝いていた。それはまごうことなき、毛無族の矢であった。

「族長ッ」

 悲劇を目の当たりにした者たちが長を呼んだ。向かうと輪になって、横たわる者に声をかけていた。ヴェルデの父親であった。

「長ぁ……」

 かすかに瞼が開き、吐息混じれの声が森に響いた。虫の音も、鳥の羽音も、風の音も。かの者の最期の言葉を聞くため、静まっているように思えた。

「我はここにいる」

 族長は古き友の元へ駆け寄り、手を握った。斧を握り続けた者の手がそこにあった。

「あいつら、俺たちを獣だと言いやがった」

「俺ぁかっときて、かっときて……」

 声がちいさくなっても、手を握り続けた。

 天を舞う鷹よ、川を泳ぐ魚よ、地を這う蛇よ。この者を女神のもとへ連れていってくれ。人々を救うこともできぬ我をゆるしてくれ。族長の胸にさまざまな感情が生い茂った。この鬱蒼とした心の森を間引いてくれる親しき友はもういない。

「すまない」

 族長は親しき友の瞼を閉じ、屈強な背中に背負った。愛馬に乗り込み、鷹はうねる黒髪を靡かせ一声鳴いた。


「帰るぞ」


 森へ向かった者が帰る頃には、すべての耳に悲劇が語られていた。誰よりも森を熟知していた聡明な者と、未来ある若者が毛無族に殺された。大地の姫と呼ばれる娘の耳にも当然、届いた。娘は大きな腹を守るように抱き締め、祈った。我が愛しの狩人、ウルス。どうかあなたでないように。どうか腹の子が私に似るように。

 弔いの儀式を終えるころには、悲しみが怒りへと変わっていた。


 次の晩、娘の陣痛がはじまった。

 息を吸い込み。

  息を吐き出す。

 息を吸い込み。

  息を吐き出す。

 その繰り返しであった。

 時折、娘の苦しむ声が響いた。

 耳を傾けながら、族長もまた祈った。娘が無事であるように。あらたな命もまた、健やかでありますように。

 だが心の片隅にはその命を吹き込んだ男性の存在が疑問にあった。なぜ娘は自分にその者を紹介してくれないのか。なぜ娘は隠すのか。なぜ娘はうなされるのか。なぜ娘は笑わなくなったのか。なぜ——。

 疑問が疑念へ変貌するころ、娘のもとには星のように愛らしい赤子が産まれた。しわまみれの顔を歪ませ、母を呼ぶ姿は子羊のようだった。娘は汗で湿った顔を拭い、そばにいた者に父を呼ぶよう言った。

 大男がやってくると、部屋はよりいっそう命で溢れた。

「愛しい娘に子が産まれた」

 娘の父は赤子を見た途端、胸の曇り空が晴れわたった。ふたりを抱きしめ、笑い合った。久方ぶりにお互い顔を見合わせたように思えた。父娘はひとこと、ふたこと言葉を交わし、また笑い合った。

「名は決めたのか」

 父は訊ねた。

 娘は頷き、答えた。

「この子は太陽の娘、スワァレ」

 父は頷き、良い名だと笑った。それから娘の額に口付けをし、幼い頃のように頭に手を置いた。

「疲れただろう。ゆっくりお休み」

 うねる黒髪に指を通すと、走る楽しさを知った仔馬のような娘を思い出していた。閉じる瞼を見つめると、いるべきはずの娘の夫を想像した。胸の雨雲がまた大きくなっていくように感じた。

 ふと、眠る孫の瞼が開いた。淡い蝋燭の光に反射して、空が広がった。

 ——毛無族のような青い瞳。

 偉丈夫の脳裏に様々な風景が流れた。悪夢を彷徨う娘の唸り声、語られぬ存在、射られた若者、古き友の死、毛無族、そして孫——。

 てん、と、てん、であった物事が繋がっていった。身体を流れる赤い川が氾濫するのを感じた。それは一つの物語になり、確信となった。

 父は部屋を出ると、息子たちを呼んだ。 

 息子たちは皆、長の表情を見て驚いた。狼の長も、大熊をも恐れさせる雷雨を背負っているようであった。髭で覆われた顔面の落ち窪んだ両目は妙な光を宿していた。


「女子供は外へ出てはならぬ」


 皆を束ねる者が命じた。

 長の思い描いた物語では、見張りの夜に娘が襲われたことになっていた。月が少しかけた草原で娘は毛無族に嬲られたのだと。奴らは体だけではなく、娘の清らかな心をも犯した。悪夢の訳をそう想像した。

 普段は暖かい陽射しのような男であったが、怒るとその熱は灼熱となった。儀式に灯す炎のような姿に、息子たちは弔ったばかりの友を思い出した。

 それは怒りであった。

 憎しみの火花が辺りに散り広がり、火柱となった。火種は武器を高く天に翳し、吼えた。

「——毛無族を撃つッ」

 戦いが始まった。

 若者はもちろん、老いた男たちも武器を持った。女性たちは居場所を守ることを決意した。

 目覚めた娘は何も出来ずに立ちすくんでいた。父はどうなってしまったのだろうか。私は間違ったことをしてしまったのか。不安を抱いたまま我が子を親しい者に預け、草原へ向かうことにした。

 月明かりは眉をひそめているように少し欠けていた。あの時と同じ月のはずがどこかよそよそしく感じた。不穏な風が吹き、髪を靡かせた。虫が飛び去り、慌ただしい足音と混ざり合った。

 父は愛馬に寄り添い、息子たちと向かう先を決めていた。娘は父の名を呼び、悲願した。


「——なぜ争うのですか」


 だが娘は父の目を見て身じろいだ。父はどこへいったのだろうか。川のせせらぎのような穏やかな瞳はなく、黒いまなこには荒々しく怒る熊がいた。

「なぜ知らせなかった」

 低く、唸るような声であった。

「そなたの産んだ子は青い目であった」

 稲妻が走った。

「なぜ言わなかったッ——」

 父の胸の中に湧き上がっていた雷雲が口から飛び出し、黒く禍々しい感情を轟かせた。娘は困惑した。友を殺された悲しみから狂ったのだと思っていたが、父から放たれた言葉は「我が子」のことであった。

 娘の脳裏にもまた、父と同じ物語が想像された。我々を獣だと思い、射った毛無族は卑劣な人々だと。

 だが娘は知っていた。

 姿が違えど、分かり合える者がいることを。

 自らの毛を憎しみ呪ったときに、月に言われた言葉を。かの者と語り合った夜を。

 娘は知っていた。


「かの者を愛しています」


 父にそのことを伝えるのが、これほど心痛いことだと娘は知らなかった。娘の鼓動は熱かった。熱風が喉を駆け上がり、両目をも沸騰させ、涙を込み上がらせた。


「たべ、のみ、ねむり、うたう。月は私に教えてくれた。我々の姿は違えど、同じいきものなのだと——」


 精一杯を込め、娘は伝えた。涙が溢れぬように天を見上げると、星が輝いていた。梟が風を切るように、夜空を滑空していた。天の煌めきが徐々に輪郭をぼやかせ、一筋の雫となった。辺りは静寂に包まれていた。

 夜の静寂さは心を安定されることもあったが、決意を揺るがす力もあった。天を流るるきらめきはかの者を風物とさせ、かの者の語ってくれた郷友たちの言葉を思い出させた。


「うつくしき光、ヴゥルトゥルよ。そなたに謝らなければならないことがある」

 かの者は言葉を止め、娘の瞳を見つめた。

 娘はちいさく頷き、言葉を待った。

「郷友たちはそなたたちのことを獣だと貶していた。野蛮だと、不埒だと、人ならざるものだと。我は否定せず、深く考えず、止めもせず、ただ笑って聞いていた」

 ——我も彼らと同類だ。

「私に許しを乞うているのか」

 娘は問いかけたが、かの者は首を横に振るばかりであった。

「ただ、知ってほしかっただけだ」


「我々は獣とは違う。姿は違えど、言葉は同じ。皆とは言わずとも、心の底から言葉を交わせる者はいる——」

 娘は望みを抱き、父のほうを向いた。

 微笑む父を想像していたにもかかわらず、その姿は変わらぬままであった。大男は娘の言葉を信じることができなかった。自身の描いた物語を真実だと疑えなかった。

 涙を流す我が子を一瞥すると、髭を震わせ言い放った。

「——ではなぜ、苦しがっているのだ」

 そして愛馬にまたがり、飛び去った。


 ⁂


 娘は母が戻っていった丘に背を向け、天を見上げた。高くに、光り輝く月があった。その色は会ったことのない祖父の髪色を想像させた。毛深族と毛無族。同じ形をしているにも関わらず、私たちの姿は違っていた。だが娘にとっては大差ないことであった。まるで鳥と魚がなぜ違うのか問いかけているように思えた。


「たべ、のみ、ねむり、うたう——」


 母娘の体には、その「違う」血が流れていた。そのことを思い浮かべるたび、娘は祖母ヴゥルトゥルが語ってくれた物語を思い出した。


「私の名は、アーツァ」


 寒さから身を守ってくれる毛深い手足に、決意がみなぎるように感じた。娘の名前は祖母が名付けてくれた。意味は「糸」であった。それは受け継がれていく命の連なりであり、二つの部族を繋ぐ命綱であった。


「この不毛な争いを止める」

 

 娘は大地を見守る女神に聞かせるよう、言葉にした。月がまばゆく輝き、草がざわめくような風が吹いた。用意はできていた。必要な物は昼に森の茂みに隠していた。友に頼み、馬も借りた。夜の見張りも彼に頼み代わってくれた。

 娘は丘に体を預け、瞼を閉じた。閉じてなお、瞼の裏側には星の雨が流れていた。矢ではなく、恵の雨が降り注ぐ未来であるように。対立ではなく、共存できるように。

 日が昇ったら、旅立とう。

 太陽の娘は光を胸に抱き、眠りについた。

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