花盗人

灰崎千尋

花盗人

「なぁ、俺の“クルトガ”知らね?」


 騒がしい教室の中、その声がやけにくっきりと僕の耳に届いた。


「知るかよ。どうせどっかに置き忘れたんだろ」

「さっきの理科室じゃね」

「おっかしいなぁ確かにペンケースに入れてたのに」

「シャーペン貸すか?」

「普通のはあるけどさ……やっぱ“クルトガ”が良いんだよ、あいつじゃなきゃダメなんだよ」

「お前ヤバイな」

「お前もいっぺん使ったらわかるって!」

「ヤク中かよ」


 他愛のない、いつもの馬鹿話だ。

 けれど最近、やけに聞こえるフレーズがあった。


「僕の○○無くなった」

「俺の○○どこ行った」

 

 だいたいは消しゴムだとかピンバッジだとか、いつでも無くしそうなものだった。それにしても無くなり過ぎな気がする。でも、金や貴重品が無くなったという話は聞かない。

 僕は自分のペンケースの中をのぞいてみた。シャーペンが二本、赤と黒のボールペンが一本ずつ、消しゴム一つ、替え芯一つ。これのどれかが無くなったとして、僕はそれに気づくだろうか。気づいたとして、それがどこのメーカーだとかちゃんと言えるだろうか。

 無理だ。

 僕は口元で溜め息をついた。

 僕にはもうずっと、なんて無いのだ。



 僕はいつも、受け入れるだけだった。

 たいていのことは僕が選ぶより前に大人が先回りしていた。用意されたものをその通りになぞれば、大人は満足した。その中に、それなりに気に入るものができたりもした。けれど服もお菓子もオモチャも、二つ下の弟に譲るのが当たり前で、それを上手に、表情豊かに受け取る弟の方を両親が可愛がるのも当然だった。弟の「ちょうだい」を、僕は受け入れた。いつからか、僕はあらゆるものの中継地点でしかなかった。僕はそれも受け入れた。



 その日、僕は先生に頼まれて、放課後に地学準備室の整理をしていた。授業終わりに声をかけられてこうした作業をすることは、よくある。僕は使い勝手の良い生徒なのだろう。

 それが終わって教室に戻ると、窓辺に立つ人影があった。学ランの黒をぬっと縦に伸ばしたような姿はやけに大きく見えて、黒く長い髪が俯いた顔を覆い隠すように垂れていた。よく見ると、その右手が何かを弄んでいる。人差し指に引っ掛けたボールチェーンに繋がるのは、可愛いんだかそうでないんだか微妙にわからない、とあるご当地キャラだった。


「それ、僕の」


 自分の口からこぼれ出たその言葉に、自分で驚いた。それは確かに、僕の鞄に付いていたものだった。学校指定の同じ鞄から見分けがつくようにと、それだけのために付けていたキーホルダーだ。親に連れて行かれた旅行先で、「何か買ったら」と言われて手に取った、大して思い入れのないゆるキャラのキーホルダー。それなのに、誰かの手の中にあるそれは、確かに「僕の」だと確信できた。今ここで、それだけが、はっきりと輪郭をもっているようにさえ見えた。そしてあまりにもするりと、言葉が出てきてしまった。


「あー、ごめん、そうだな」


 戸惑う僕に、やけに平坦な声が返ってきた。黒い影が近づいてくる。彼は僕の手をとって、その上にキーホルダーをちゃり、と乗せた。


「ん、返すわ」


 そう言って離れようとする冷たい手を、僕は咄嗟に掴んでいた。

 僕の手に戻ってきたキーホルダーは、またぼんやりと色褪せて、「僕の」ではなくなってしまった。だからやっぱり、これは彼の手にあるべきなのだ。

 その時ようやく、僕は彼の顔を見た。少し驚いたような、どこか諦めているような、その顔。ほとんど見覚えはないけれど、肩の下まで髪を伸ばしている同級生は、一人しかいないはずだった。


「……三崎みさき?」

「ん? うん」


 三崎は、教室にはいたりいなかったり、いても机に突っ伏して寝ているのがほとんどだった。だから僕より結構背が高いことも、いま初めて知った。

 その三崎の手に、僕はキーホルダーを戻した。やっぱりそうだ。「」を、三崎が持っている。


「それ、返さなくていいから」


 僕が言うと、三崎は見るからに怪訝そうな顔をした。


「は、え、でも」

「いいんだ、あげる……いや違うな、ええと、三崎はさ、これ、たぶんだけど、盗んだよね?」


 僕の手の下で、三崎の手がひくりと震えた。


「だったら?」


 長い髪の陰で揺れる瞳を見つめながら、僕は言う。


「僕から盗んでいいよ。ぜんぶ、なんでも」


 三崎は眉間に皺を寄せながら、じろじろと僕の全身を眺め回した。彼の全身が、意味不明だと言っていた。けれど最後にはぷいと背を向けて、「じゃあちょっとついてこいよ」と、僕の返事も聞かずに教室を出て行った。

 慌てて後を追うと、使ったことのない電車に乗り、降りたことのない駅に着いて、知らない道を歩いていた。寂れた住宅街だった。傾いた廃屋が野ざらしになっていたり、倉庫だか家だかわからない建物のトタン屋根がカタカタ鳴ったりしていた。その間の家々に、人の気配はある。物音はするが、声はしない。奇妙な静けさだった。

 お互いに何も言わないまま、たどり着いたのは小さな公園だった。区画に無理やり押し込めたかのように狭い公園は、ほとんどが雑草に覆われ、唯一の遊具だったらしいブランコは錆びつき、禿げ山のように砂場だけが白い。

 三崎はその砂場のふちに座り込んだ。それから長い髪を両耳にかけ、素手で砂の山を掘りはじめる。僕はよくわからないまま、その隣にしゃがんで見ていた。さらさらと、さらさらと、微かな音を立てながら砂の山が崩れていく。小さな砂粒が寄り集まって、なめらかな波になる。それがなんだがとてもきれいで、ずっと見ていられる気がした。

 と、砂の中から異物が顔をのぞかせた。メタリックな青。ペンのようだ。


「もしかして、“クルトガ”?」

「そ。俺が盗った」


 続々と、砂に埋もれたものたちが出てくる。使いかけの消しゴム、ヘアバンド、マグネット、などなど。たぶん、全てが盗品だ。


「俺のものがさ、欲しかったんだよね」


 ポケットから「僕のキーホルダー」を取り出しながら三崎がさらりと言うので、僕は「同じだ」とこぼした。


「僕のものなんて、もう無いんだと思ってた。でも三崎に盗まれたものは、確かに僕のだって思えるんだ」

「……お前、どっかおかしいんじゃねぇの」

「うん、おかしいんだと思う」

「これ、この中に入れることになるけど、いいわけ?」

「うん。だってここ、三崎の“宝の山”なんでしょ。それならも、ここにあるのがいい」

「それじゃにならねぇんだけど」

「あ、そっか」


 僕が困っていると、三崎はプッと噴き出した。「お前、本当におかしいのな」などと言いながら、心底呆れたような顔をした。


「まぁ俺だっておかしいんだけどさ」


 ぽいっと「僕のキーホルダー」が、砂の中に放り込まれた。その上から砂をまたかけて、なんとも言えない顔で笑うゆるキャラが、すぐに見えなくなる。その上にまた、砂の山を積んでいく。何となく僕も、砂を集めてみる。日の光に当たっていたのだろう、白い砂は温かくて、柔らかかった。

 砂場はすっかり元通りになった。


「お前のものは俺のもの、そういうことで良いんだろ」

「ジャイアンだ」

「言ってろ」



 それ以来、三崎と僕の、盗み盗まれる関係が始まった。クラスでは、ほとんど僕のものばかりが無くなっていく。最初のうちは無くなったものに気づけなくて、砂場を掘り起こしてやっと「僕のもの」を確認した。それが嬉しくて、僕は貯まる一方だった小遣いを、ちまちまと散財し始めた。雑貨屋や百均でさっぱり役に立たなさそうなものを買ってみたり、適当なカプセルガチャを回してみたり、クレーンゲームをやってみたり。三崎はたぶんそれも知っていて、だけど決してそういう場所へ着いてきたりはしなかった。

 僕と三崎が会話するのは、例の公園の砂場でだけだった。連絡先も交換していないので、砂場で会えるとは限らなかったけれど、僕は一人で砂場を眺めているだけでも満足だった。

 ときどき、互いの家族の話をした。僕も三崎も、家に帰るのが億劫だった。三崎の家にいるのは、「アル中のクソ親父と、メソメソ泣いてる母親だけ」なんだそうだ。しょっちゅう家のものが勝手に売られたりしているらしい。「こんな家でも高校生にはなんとかなれるんだから、無償化バンザイだね」とも言っていた。

 僕の家の話をすると、三崎には口の中の砂を吐き散らすような顔をされた。「でも、親の選んだ高校だから、三崎と会えたんだよね」と言うと、深々と溜め息をつかれてしまった。



 夏休み前の終業日。珍しく、公園へ向かうタイミングが同じになった。

 並ぶでもなく、追い越すでもなく、二人で歩いていると、鮮やかな赤い花が垣根を越えて道路へ伸びているのが見えた。


「あ、サルスベリ」


 僕がそう呟くと、次の瞬間には三崎がぶちりと枝を折っていた。もちろん、見ず知らず、赤の他人の家の木だった。

 節の目立つ三崎の指よりも、細くつるりとした枝の先に、どぎついピンク色の花が鞠のように寄せ集まって咲いている。


「サル……なんだって?」

「サルスベリ。太い幹でもこの枝みたいにつるつるしていて、とっかかりがないから猿も登りにくいって話」

「へぇ」


 尋ねておいて、全く興味がなさそうに三崎はサルスベリの小枝をくるくると回して弄んだ。

 そのまま砂場へ向かい、新しく僕の缶バッジを埋めて、砂の山をこんもりとつくった真ん中に、三崎がサルスベリの枝を突き刺した。夏の日に照らされた砂はますます白く、そこに立つ真っ赤な花は、海賊旗のようであり、火山の噴火のようであり、墓標のようでもあった。

「派手で良いじゃん」と、三崎は満足気だった。


「夏休み、だけどさ」

「おう」

「親に塾の夏期講習を申し込まれたんだ」

「へぇ」

「ときどき、ここに来ても良いかな」

「……好きにしろよ」


 それが、僕と三崎が交わした最後の言葉だった。




 夏休みの間、結構な頻度で僕は例の公園を訪れていたけれど、三崎と会うことは一度も無かった。砂山のサルスベリの花はとうに枯れ落ち、萎れて乾ききった小枝だけが残った。それでもこの下には、僕のものが、三崎のものが埋まっている。それだけわかっていれば良かった。

 二学期になっても、三崎には会えなかった。学校でも、公園でも、待っても待っても来なかった。そのうちにクラスで噂が立った。そして担任からも知らされた。三崎は行方知れずなのだと。おそらくは夜逃げのような形で、一家で姿を消したのだと。


 気付けば僕は、一人でまた公園へ向かっていた。三崎の折った垣根のサルスベリはまだ赤々とした花を咲かせて、枝を重そうに垂らしている。僕はそれを一本折った。折ろうとして、なかなか上手く折れなくて手間取ったが、なんとか折った。

 砂場にはもう、古い枝すら残っていなかった。砂の山をかき分ける。たった一人でかき分ける。そこには見覚えのあるはずのものたちが、いくつも埋まったままだった。けれど、もうどれも、僕のものではない。三崎はこれを置いていったのだ。だからもう、三崎のものでもない。三崎はもう、いない。

 僕は砂場を踏み荒らした。砂を蹴飛ばした。ペンを踏み潰した。ピンバッジが吹っ飛んでいった。キーホルダーのプラスチックが割れた。靴の中にたっぷり砂が入るまで暴れてから、サルスベリの枝を持って、家へ帰った。


 砂まみれの僕を見た母は、流石に少し驚いた様子だったけれど、玄関の外でちゃんと砂を払うように言われただけだった。僕がぼんやりサルスベリの花に目を落としていると、「あら、綺麗ね」と言って僕の手から枝をすっと抜き取ると、玄関の花瓶へ当然のように生けた。

 僕にはもう、何も無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花盗人 灰崎千尋 @chat_gris

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ