眠れない夜

絃亜宮 波樗

眠れない夜

眠れない夜、というのがある。

いつものようにベッドに入り、大きく深呼吸をしてから目を閉じ、横になる。世の中の憂いから距離を置いて、余計なことは考えずに、疲れ切った心と身体をふかふかの布団に委ねて癒すのだ。しかし、たまには、そんなに上手くいかない時だってある。


眠れない夜が、ある。

それは、昼寝をし過ぎたからとか、怖い話を聞いたからとか、そんな単純なものが原因な訳ではなくて、いや勿論そういうことが引き金になることもあるんだけど。大抵の場合は、将来の不安や過去の後悔といった、私の意識の内外からやって来る負の感情が、どうしても頭から離れなくなってしまったから、ということが多いと思う。来週からのテストどうしようとか、さっき友達に変なこと言っちゃったなとか、客観的に見れば、ほんの些細なことかも知れない。でも、それは、その時の私自身にとっては大変重要かつ深刻な問題なのだ。正直、これは人によるだろうから一概には言えないのだけれど、少なくとも私は、その性格上、一度何かについて考え始めてしまうと、そればっかりが気になって、気持ちの切り替えもできないまま、ずっと考え続けてしまう。それが就寝時に起こってしまうと尚更厄介で、というのも、上手い具合に考えに区切りが付けられないものだから、私の脳に体力的な限界が来ない限り、延々と、そして悶々と考え続けることになるのだ。何度寝返りを打っても、気分転換のつもりで起き上がって、水を飲みに行ったりトイレに行ったりしても、その努力も虚しく、結局は気が休まることなどなく、眠れないのである。


そして、それがただの悩み事であればまだ良いんだけど、いや決して良いことはないんだけど、この場合の何が煩わしいかって、そのメランコリーが、大雑把に言うと「将来の不安」と「過去の後悔」に由来しているところが、非常に面倒臭いのだ。簡単に一言で表すと、これらの二つは「私がコントロールできる範囲外の問題」であるからだ。そもそも「不安」という言葉自体が、「恐怖」とは異なって、漠然としていてかつ確定していない未知の事象に対して向けられた心情であると定義されていることからも分かる通り、未来というのは常に未定であり不安定なのだ。この世界で生きている限り、決定している未来など存在するはずがない。人生というのはいつも、これから先がどうなるのか分からない、先行き不透明な側面を持っていて、それは、今の私の行動によって制御できるものではないのだ。今現在の私にできることは、虚しくも、不確定な未来に向けて、少しでもその将来が私の思い描いたものに近づくように努力することだけだ。その事実は、私が人間である以上変えられないことで、そんなどうしようもないことについて一生懸命考え続けたところで仕方がないのである。「後悔」も同じことである。過去に起こった出来事というのは、表面的に改竄することはできたとしても、それが存在した事実は、タイムスリップでもしない限り、いやタイムスリップしたとしても、記憶に残り続ける限り変えられない絶対的なものである。それは、今の私が干渉することのできる次元の問題ではなく、その点において私は甚だ無力なのだ。


そう。

本質的には、私がこのようなことで思い悩むこと自体が、余りにも非効率的なことなのだ。自分の力ではどうしようもできない巨大な問題に対して、なんとか自分の思い通りにしようとして、もしくは自分を安心させようとして、孤独に、必死に、意味のない思索に走る。その様は、まるで、神という存在に抗って世界を自らのものにしようと奮闘した戦国武将を想起させる。いや、そこまで言うのは飛躍し過ぎだろうか。いずれにせよ、そんな私が、ある種の高慢さを有している堕天使であることに変わりはないだろう。


ふと時計を見ると、既に午前三時を回っていた。ふぅ、と溜め息を吐く。こうなると、明日の授業もぐっすり眠ることができそうだ。本当は日中に寝るつもりなどさらさらないのだが、夜に眠れないというのであれば仕方がない。それにしても、こんなにも無謀で、無意味で、不健康なことであるというのに、私が眠れない夜を繰り返してしまうのは、若さ故の過ちなのであろうか、それとも、人間の性分なのであろうか。私のこの困った癖は、これまた私自身ではどうすることもできない面倒事であるらしい。こんな夜は、憂いを紛らわすために読書をしよう。読書をするには、何故だか深夜が最も集中できるものだ。本は、私の孤独と愁情を少しばかり癒してくれる鎮痛剤のようなものである。さて、今日もこのとっておきの薬を舐めて酔いに浸ろう。せっかくなら、悲しくも酔いが覚めてしまうまで、或いは、幸いそのまま眠りの深淵に落ちてしまうまで、とことん付き合ってもらおうではないか。そう思って、机の下に積み上げられた本の中から、一番上のものを手に取った。


『失われた時を求めて(一)-スワン家のほうへ』


本の表紙を見て、心なしか安心したような感じがした。今の私が、こんな夜を過ごすには打って付けの本だ。小さなデスクライトを静かに点け、大きく深呼吸をしてから、私はゆっくりと本を開いた。

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