第9話 薬

キィ、と静かに扉が開く。

入口には少女が暗い顔で立っていて、エイベルは首を傾げた。


「……ルマ?」


エイベルは治療の最中だった。腕や脇腹など、身体中の包帯やガーゼをロシュが取り替えていく。傷跡に薬を塗られ、エイベルは少し顔を顰めた。


「ハイ、できました。傷はだいぶん塞がってますね」

「そっか」


エイベルはさっとシャツを羽織った。そして、入口に立ち尽くしたままのアルマに目を留めた。


「そうだ。ルマも診てもらいなよ。昨日の切り傷、跡になったら困るでしょ」

「ルマ様、怪我したんですか? それは大変だ。早く見せてください!」


ロシュが大慌てでやってくる。アルマの手のひらを確認し、ガーゼが貼られているのに気付くと「おや?」という顔をした。


「処置はされてますね。まさか……エイベル様が?」

「応急処置だけどね」

「ガーゼを取り替えておきましょうか」


アルマを椅子に座らせ、ロシュが手際よく処置を施す。

薬が塗られた瞬間痛みが走り、アルマの瞳は涙で潤んでいった。


「ルマ様、染みましたか?」

「へいき……」


そう答えながらも、涙はぽたぽたと零れていく。子供の身体になったから感情の制御も難しくなってしまったのだろうか。最近は泣いてばかりだ。


「手当てが下手くそなんじゃないの? ロシュはあっち行ってなよ」

「そんな……!」


エイベルがロシュをしっし、と追い払うと、ロシュは悲しそうに部屋を出ていった。

やがてアルマとエイベルの二人きりになる。

静かになると、雨音が一層大きくなったような気がした。雨は未だ止みそうにない。


「手、出して」

「えっ?」

「手当ての続きをしなきゃ」


いつの間にかエイベルがすぐ傍に立っている。エイベルは黙って薬を塗り直した。


「うっ」

「……痛い?」


アルマは睫毛を濡らしたままエイベルを見つめた。


(……痛いわ。とっても)


貴方を見ているだけで胸が痛い。

傍にいたいという願いを叶えるのが、どうしてこうも難しいのだろう。

今もエイベルの顔色は悪く、瞳には生気がない。彼を傷付けたのは私だ。そして、その傷を痛ませるのもまた私――……


「ホラ、出来たよ」


いつの間にか処置が完了していた。しかしアルマは椅子の上から動こうとせず、いつまでも黙ったままでいた。


「どうしたの。痛い?」


もう一度そう尋ねられ、アルマはこくりと頷いた。エイベルは薬箱を片付けながら小さく笑う。


「そりゃそうでしょ。良薬は口に苦しって言うみたいに、よく効くからこそ痛むんだ。一時は辛いけど結果としては早く治る。それは必要な痛みなんだよ」

「必要な痛み……」


アルマは手のひらをじっと見つめた。

そして片付けを終えて戻ってきたエイベルを見上げると、何かに気付いたように立ち上がった。


「エイベル様。私、行ってきます!」

「え?」

「必ず戻ります。だから……待っててくださいね」


そう告げてアルマは部屋を飛び出した。


はやる気持ちを抑えきれず駆け続け、侯爵夫人の部屋の前に立ったときには、すっかり息が上がっていた。

アルマは呼吸を整えてからノックをした。


「どうぞ」

「失礼します」

「……ルマ嬢?」


侯爵夫人は何か書類仕事をしているようだった。アルマの姿を認めると、そっと羽ペンを置いた。


「あの……。私……」


勢いよくやってきた割に、侯爵夫人を前にすると急に怖気付いてしまう。

アルマは手のひらを握り締めると、侯爵夫人を真っ直ぐに見据えた。


「侯爵夫人は、私がエイベル様の傷口を刺激している、と言いましたよね」

「ええ。確かに言ったわね」

「私……薬になります」

「え?」

「エイベル様の薬になります。薬って、塗った瞬間は染みるでしょう? 涙だって出ます。……だけど」


アルマはそっと手のひらを開いた。

当てられたガーゼはサイズが大きすぎるし、テープもガタガタしている。さも慣れているかのように手当していた癖に、なんだか不格好だ。

不器用で優しい彼の力になりたい。傍にいたい。いくら考えてもその思いは変わらない。

……たとえそれが自分のエゴだとしても。


「与える痛み以上の幸せを差し上げたいんです。どうかいつまでも笑顔でいて欲しい。だって、あんな暗い顔なんて似合わないから」


そう言い切って、アルマはにっこりと笑った。


「……そう。それが貴女の考えなのね」


やがて、ふう、と溜め息が落ちた。


「ルマ嬢」

「はい」


侯爵夫人は席を立ち、アルマの傍までやってくる。

しばらく真顔に近い顔でアルマを見ていたが、やがてふっ、と柔らかい表情になった。

そしてアルマの肩に手を置いた。


「……さっきは厳しいことを言ってごめんなさい。正直、そこまであの子のことを思ってくれているとは思わなかったの。私の方が、考えが浅かったようね」


侯爵夫人はその場にしゃがむと、そっとアルマと目線を合わせた。そして優しく微笑む。


「こちらからお願いするわ。どうか、エイベルの味方でいてくれる?」

「はい!」


アルマは破顔した。


「……それから、もう一つ」


侯爵夫人の視線が急に鋭いものに変わる。彼女の視線が上から下までアルマの全身をじっくりなぞっていく。


「ルマ嬢。そのドレスは貴女が選んだの?」

「いえ。ロシュさんが用意してくださいました」

「……今すぐロシュを呼びなさい」


傍に控えていた侍女は「かしこまりました」と返答し、すぐにロシュを連行してきた。

急に呼び出されたロシュは(何事だ……?)という顔で侯爵夫人とアルマを交互に見た。


「ロシュ。どうしてここに呼ばれたかわかる?」

「恐れながら、よく……」


侯爵夫人はくわっと目を見開き、ロシュを叱責した。


「あのドレスは去年の流行でしょう? それにデザインが無難すぎる。この子の可愛さを引き出しきれてないわ。こんなに可愛い子を着飾らないなんて、貴方は何をしているの?」

「えっと……? も、申し訳ございません」

「ウチの沽券に関わる問題よ。レリュード侯爵家はセンスが悪いなんて噂されたらどうするの。今すぐ国一番のデザイナーを呼びなさい。金に糸目は付けないわ」

「ハイッ!」


ロシュは話を半分も理解できぬまま、命令を遂行すべく部屋を飛び出していった。


そのときアルマは思い出す。

幼い頃、侯爵夫人は何かにつけてアルマに服を贈りたがった。当時は素直に喜んでいたが、よく考えるとその頻度が異常だった。

息子であるエイベルの服よりも、アルマに贈った服の着数の方が多いのではないかとすら思うほどだった。


(もしかして侯爵夫人って着せ替えが趣味なのかしら……?)


「うちにも娘が欲しかった」という話をしているのを聞いたことがあるし、その可能性は高い。

思わぬ真実を知ってしまったところで、侯爵夫人はようやく元の穏やかな顔に戻った。

そしてアルマに向き直る。


「何かあればいつでも私を尋ねていらっしゃい。ここで待っているから」

「ありがとうございます」

「それから、私のことは名前で呼んでくれるかしら。ジョアンナ、と」

「はいっ、ジョアンナ様!」


侯爵夫人はアルマの頭を優しく撫でた。

アルマも目を細める。

いつの間にか雨は止み、窓の外の青空には虹がかかっていた。

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