〈9〉後宮の最下位妃、引っ越しを命じられる



 不思議な夢から目覚めてから、苺凛の熱は少しずつ下がり、二日ほどで体調は回復していった。



 この二日間、朝と晩にと春霞が霊水を部屋に運んだ。


 汲んできたのはやはり洙仙のようだ。


 本当に?と訝しむ苺凛に、春霞は言った。


「霊水の場所には洙仙様以外、立ち入ることは許されてませんから」



 夢で見た璃紫宮の庭を思い出す。


 きっとあの泉から汲んでくるのね。


 あの場所で洙仙が襲われた夢の残像は、まだはっきりと苺凛の記憶にある。



「霊水は苺凛様のお薬になったようですね。お花に艶が増してるように思いますよ」



 春霞の言う通り、頭に咲く霊仙花はふっくらとした蕾を付け、開花した花からは瑞々しく良い香りが辺りに漂った。



「苺凛様のお顔だけでも見ていったらどうですかと、洙仙様に言ったのですけど。宮殿に入ることなく、すぐに帰ってしまうんですよ」



 ───べつに。顔なんて見てもらわなくてもいいから。



「苺凛様がお元気になられた様子をお伝えすれば、きっと今夜にでも霊仙花の食事を再開されると思いますわ」



 ♢♢♢



 春霞の言った通り、洙仙は今夜からまた花を食べるために苺凛の宮殿を訪れることになった。


 まだ陽の沈まないうちから湯浴みをさせられ、着替えに髪の手入れにと、苺凛は忙しく身支度を整えた。


 宮殿の一室で待つ時間はとても苦痛だ。


 予定の時間より遅れそうだという知らせもあり、尚更気が重く溜め息ばかりがでる。


 あの冷たくて射るような琥珀色の眼差しに見下ろされるだけで息苦しさが増す。


 そのうえ顔を寄せ、かみつくようにまれる感覚は恐ろしさしかない。


 目を閉じて、下腹に力を入れてなければ身体が震えてしまう。



「洙仙様がお着きになりましたよ」



 春霞の言葉を受け、苺凛は長椅子から立ち上がった。


 こんな毎日がずっと続くなんて本当に嫌だ。


 体調も良くなったことだし、なんとかして私以外に霊仙花の咲く方法を見つけよう。


 今はそれだけが苺凛の希望だった。




 部屋に入ってきた洙仙はなぜか水差しを持っていた。


 そしてそれを卓の上に置くと、春霞に部屋を出るよう合図する。



 二人きりになった部屋で、洙仙はしばらく苺凛を見つめていた。



 ううっ。なにこの沈黙!


 早く食事を終わらせて、さっさと帰ればいいのにっ。



 恐ろしいので、なるべく目を合わせないようにしていると洙仙が口を開いた。



「体調は本当に良くなったのか?」


 こう言いながら洙仙は苺凛に近寄った。


「相変わらず咲き方が貧相だな。───まぁ、でも小さいがこの前より蕾があるじゃないか」



 顔を近付け、苺凛に視線を合わせようとするその目は細く笑んでいた。


 氷のように冷たい笑みだ。



「あの水、多少は効いたようだな……。久しぶりの花を味わせろ」



 洙仙の手が伸び、苺凛の髪に触れた。指先で髪を梳くように耳の後ろへ動く。


 同時に洙仙は右側に咲く霊仙花へと顔を寄せ、その香りを愉しむように息をする。


 触れてくる吐息の熱に苺凛の頬が火照る。


 洙仙の唇が触れ、舌と歯で霊仙花を口の中に取り込む瞬間、チクリと痛む。


 洙仙はゆっくりとかみ砕き飲み込んで、また次の花を喰らう。


 繰り返される痛みと咀嚼の音が不快で恐ろしく、苺凛は目を閉じたまま立っているのがやっとだった。



 そして片側───右耳上の花だけ食べ終った洙仙が少し距離をとり離れた瞬間、苺凛は緊張が解けたかのようによろけた。



「───おい」



 倒れそうになる直前、洙仙の腕が伸び支えられた。



「おまえ、まだ熱があるんじゃないのか?」



 苺凛は慌てて首を振り答えた。



「……熱は下がりました」



「ではなぜそんなに顔が赤い?」



 答えられずにいる苺凛に視線を向けながら洙仙は言った。



「緊張と恐ろしさで、というところだろ」



(わかってるなら聞かないでほしい)



 見上げて睨んでやりたいところだが、呼吸を落ち着かせたくて、苺凛は俯いたまま黙っていた。


 そんな苺凛を面白がるような口調で洙仙は言った。


「伝わるからな、おまえから。俺への恐怖心が。花の味は不味いし恐怖心が増えると花は散る。厄介な餌だな、おまえは」



〈餌〉と言われて。苺凛はおもわず洙仙を見上げた。



 睨んだ、とも言えるその表情に洙仙は冷笑で返しながら言った。



「なぁ……おまえ。どうしたら俺を恐れない? これでも優しく食べてやってるんだ。目を閉じてても恐ろしさは変わらないのか?……だとしたら、俺はおまえを悦ばせながらその花を喰わなければいけないということか?」



 何か嫌な予感がして、苺凛は身を引こうとしたが、素早い洙仙の動きに阻まれ、あっと思った瞬間にはもう洙仙に抱きかかえられている自分がいた。



(なッ───⁉)



 気付けばそのまま長椅子の上に寝かされ、両手首を掴まれ、自分を跨いで上から見下ろす洙仙の顔が近かった。



「怖がるな」



 苛立たし気に洙仙は言うが、この状況下で怖がらない者がいるわけない。



 泣き出したい気持ちを抑えるように苺凛はぎゅっと目を閉じる。


 抵抗したくても洙仙の力で掴まれた両手は動かせず痛むだけだ。



 ……このままでは花が散る。


 そしたらこのひとはもっと機嫌が悪くなって、私はもっと恐ろしいめにあうのだったらどうしよう。



 そんなふうに思ったときだった。



「立ったまま喰われるよりいいだろ。………なにもしない」



 優しみのあるその声音に驚き、苺凛は目を開けた。


 そして視界に飛び込んできた洙仙の表情に苺凛は見入った。


 それは一瞬だったけれど、なんだかとても切なげな顔をしていたように見えた。


 苦しそうに歪んだ表情だと思った。



「花を食べるだけだ」



 次はもう感情のない声になっていたが、苺凛が突然目を開け、じっとこちらを見つめたことに、洙仙はどこか居心地の悪い様子で視線を逸らしながら片側───まだ食べていない左耳上に咲く霊仙花へと顔を埋めた。



 食べ方はゆっくりなだけで何も変わらない。


 寝かされていても恐ろしさは変わらない。


 だけど………。



 目を閉じることなく苺凛がゆっくりと視線を巡らせたとき、卓の上に置かれた水差しが見えた。



 ほのかに漂うその甘い匂いで、中身が霊水だとわかる。


 洙仙があの水を汲んで運び、水差しに移し、ここまで持って来たのだ。


 そう考えたら、少しだけ恐怖心が減った。


 食べられているという不快感はあるけれど。


 花が散らなくてよかったとホッとしている自分に気付き、苺凛は驚いた。



 ♢♢♢


 食事を終え苺凛から離れると、洙仙は春霞を呼んで言った。



「こいつを別の宮殿に移す。新しい住まいは霊水の湧く『璃紫宮』だ」



「……なっ、なんですって⁉ 勝手に決めないで!」



 突然、それも瑤華国の皇后が居住していた宮殿に自分が入るなんて。


 長椅子から立ち上がって抗議したかったが、花を食べられた後しばらくは足腰に力が入らず、苺凛は悔しさから唇を噛み、腰かけたまま洙仙を睨んだ。



 そんな苺凛を不機嫌に見つめながら洙仙は言った。



「勝手にだと? 誰にものを言ってるのだ、おまえは。ここで勝手にしていいのは俺だけだ。しかもここは後宮。機能してないとはいえ最下位妃一人だけが存命。生き残りで俺の糧でしかないおまえに、なにか言える権利はない。───いいな、春霞。引っ越しは明日中に済ませろよ」



 洙仙は苺凛を見ることなく言った。



「嫌です……。私、引っ越しませんから!」



「黙れ」



「ここは私の宮殿です。私はこの宮殿が気に入って───」



 洙仙が動いた。素早い動作で卓の上の水差しを取り苺凛へ向かう。



「黙れと言ったぞ。聞こえなかったか? 」



「洙仙様!」



 春霞の悲鳴が上がり、苺凛は頭に冷たいものを感じた。



 洙仙が霊水を苺凛の頭に浴びせたのだ。



 水差しにある霊水を残すことなく洙仙は苺凛に注いだ。



 頭から流れる冷たい水が、髪からぽたぽたと滴り衣服に染みていく。



「なぁ、おい。俺はいまとても気分が悪い。しばらく霊仙花の糧を得られなかったせいでな」



 ゾクリと寒気すら感じる洙仙の声は、まるで地底から響いてくるかのような恐ろしさがあった。


 苺凛に向ける眼差しには妖しいいろが浮かび、人にはない禍々しい雰囲気を洙仙は纏っていた。


 それは今まで感じたことのない、洙仙の中に在るもう一つの存在のような、力のようなものが現れた瞬間だった。



「俺の身体は飢え、糧不足だ。今夜は久しぶりに霊仙花を食すことができたがまったく足りない。いつまでも不細工な花を咲かせて俺に不味い花を喰わせるな。それにこの場所は遠い。忙しい用など重なれば今夜のように遅れて不便だ。食事は近い場所で済ませたい」


 この宮殿が後宮の中でも最奥で、いちばん隅っこに位置していることくらい苺凛でもわかっている。


 糧を得るためだけにわざわざ通うには遠すぎると言いたいのだろう。



 でもだからって。璃紫宮でなくても。



 洙仙は苺凛の思いなど気にもせず、視線を霊仙花へ移すとフッと口元を緩めた。



「花は正直だな。霊水を浴びたせいかもう蕾が開きかけてるぞ。璃紫宮で毎日水浴びでもするんだな。花の色艶が良くなるように」



 冷酷に笑んだまま、洙仙は部屋を出て行った。




「苺凛様、大丈夫ですか?……こんなに濡れてしまって。とにかく拭くものと着替えをすぐに持ってまいりますから」



 春霞が再び部屋に戻るまで、それほど時間はかからなかった。



「髪をよく拭いてください。風邪でもひいてまた体調が悪くなったら大変です。これからもう一度、湯浴みをなさってよく温まってから休んだ方がいいかもしれませんね」



 春霞の提案に苺凛は首を振った。



「湯浴みはいいわ。大丈夫。洙仙の言う通り霊仙花が潤うのを感じるの。悔しいけど、濡れてても不快ではないから不思議ね。だけど春霞、あんなに恐ろしくて我が儘なやつによく仕えているわね。もしかしてなにか弱みでも握られてるのではないの?」



「いいえ、とんでもない。そんなことはありませんよ」



 苺凛の着替えを手伝いながら春霞は答えたが、苺凛は自分の気持ちをそのまま続けて話した。


「あなたは宮殿に仕えるものたちだけじゃなく、采雅国の民までも洙仙の元へ集まっていると言ったけど。とても皆に慕われてる王子とは思えない。短気で横暴で……。さっきは今までよりとても恐ろしく見えたわ」



「洙仙様は身体の半分に人ではない性質があります。洙仙様が霊仙花を摂取できずに飢えてしまうと、半身である龍の性質が暴れるという話を聞いています」



「暴れるですって⁉ あれよりもっと酷い状態にもなる可能性があるということ?」



「お腹が空くと誰でも苛々しますから」



 苦笑いのような表情で答える春霞に苺凛は呆れた。



「春霞ったら、お人好しなのね。……わかってるわ。悪いのはきっと私ね。花が不味いからなのよ。お腹が空いてるのに、美味しくないものを食べさせられたら誰でも機嫌が悪くなるわよね」



「苺凛様だってお人好しじゃありませんか。そしてとてもお優しいですよ。こんな仕打ちを受けてもご自分の花が悪いせいだなんて仰るなんて」



「……だって、私に咲く霊仙花に本来の美しさがないことは本当だもの。───ねぇ、春霞。私ね……」



 苺凛は自分の考えを正直に打ち明けた。


「私ね、洙仙には内緒で霊仙花を庭に咲かせる方法を見つけたいの。栽培方法をね。ここから璃紫宮に移るのはなんだか複雑な気持ちだけど。でもよく考えたら霊水のある場所なら何か手掛かりになることも見つかるかもしれないし、いろいろ試せるかもしれないわ」



「苺凛様。私もお手伝いしますわ」



 最初は驚いた顔をしていた春霞も、話し終えた苺凛に向かい力強く頷いた。



 こうして、後宮の隅っこで暮らしていた苺凛は、翌日から今は亡き瑤華国の皇后が住まいにしていた宮殿璃紫宮へ引っ越すことになった。




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