〈8〉後宮の最下位妃、不思議な夢を見る
夢の中で苺凛は蝶に姿を変え、空中をふわりふわりと飛んでいた。
真昼の空はよく晴れていて穏やかだった。
優しく吹く風の方向を追うように苺凛は飛び続ける。
追いかけているのは風の中に混ざる香りだ。
微かに匂う甘い香りを苺凛は求めていた。
もうすぐ───もうすぐだわ……。
身体は蝶になっているのに、聞こえる音や目に映る景色は人間のときと同じで鮮明だった。
光が溢れる広い庭園に水音が聴こえる。
耳に心地よいせせらぎ。
清流の匂い。───この水を私は知っている。
とても美味しい水だった。
体調が悪くて熱があるせいかもとあのときは思ったけれど。
でもあの水はほんのり甘かった。
特別な水だと言って、洙仙が汲んできたという。
そう……きっとこの場所なのだ。
今は亡き皇后が暮らしていた『璃紫宮』。
彫刻の美しい噴水に散策が楽しめる花壇と水路。木立の奥には泉が湧き、銀色の木漏れ日を反射して煌めく様のなんと美しいことか。
蝶の姿の苺凛は水辺に茂る草陰にとまり翅を休めた。
しばらくすると人の足音が近付いてくるのを感じて、苺凛は草陰でじっと息をひそめた。
やって来たのは洙仙で、苺凛は驚いて声をあげそうになった。
洙仙はしばらく泉を見つめていたが、ゆっくりと水際を歩き出した。
向かっている先に石造りの
洙仙はそこに腰を下ろすとまた泉を眺めた。
ただぼんやりと。その眼差しに感情は見えない。
何してるのだろう。
考え事?
ただの散歩の途中?
結うこともなく肩まで垂らした黒髪が、ゆるく吹く風に舞い上がり、端正な横顔をときどき隠す。
周りの景色と上手く溶け込む浅葱色の長袍衣姿。襟元には控えめだが透明な玉の装飾があり、日差しを受けて時折煌めく。
穏やかでゆったりとした時間の流れがそこにあった。
一枚の絵にしたら、とても美しい光景だと苺凛は思った。
蝶の姿で近寄ってみたいという気持ちになったが。次の瞬間、苺凛は辺りから不穏な空気を感じた。
いくつかの足音が響いたかと思うと突然、木立から現れた者たちに苺凛は息を吞む。
太刀を手にした三人の男たちが洙仙を取り囲んでいた。
屈強な兵士という風情の者たちからは殺気が感じられる。
(あの人たち、洙仙を殺す気だ!)
それなのに洙仙は床几台に座ったまま驚く様子もない。
どういうこと⁉
彼等は顔見知り?
洙仙は命を狙われているの?
苺凛には冷酷な印象しかないが、春霞の話では彼を信じ、付いてきた者も多く、臣下に慕われていると言っていたが。
(きっとそういう者たちばかりじゃないんだ)
偽りや裏切り。どこの国でも王宮内で謀があるのは当たり前だ。
苺凛は洙仙へ視線を向けた。その表情は変わらず平然で、見ようによっては薄笑いを浮かべているようにも見える。
(ちょっと!そんなに悠長に構えてる場合⁉)
こう一瞬思ったが。
───でもこれって夢だよね……私の。
夢の中の出来事に慌てたり心配なんてしても。
(でも……)
三人のうちの一人が太刀を振り上げながら洙仙に迫る。
その動作はなぜかひどくゆっくりで。
苺凛はハラハラとした気持ちで草陰から飛び上がることもできずにいた。
一人に続いて二人、そして三人めの男も洙仙に太刀を向けながら動いた。
───でもやっぱり嫌! たとえ夢でもこんなの……。
鋭い刃が動かない洙仙へと振り下ろされ、その身体を貫き───。
(───やめて!)
目に映るものすべてが緋色に染まり、苺凛は悲鳴をあげながら目覚めた。
まるで走った後のように息苦しく汗もかいている。
身体を起こすと同時にパタパタと足音が聞こえ、春霞が顔を出した。
「───苺凛様⁉ 今、悲鳴が。……どうなされました?」
心配そうに見つめる春霞に苺凛は聞いた。
「ねぇ、春霞。洙仙は今、どうしてる?」
「洙仙様でしたら、親しい者たちと昼食中ですが」
「そう……。ぁの、あのさ。洙仙は今日、どんな……ぇっと、何色の服を着ているかしら」
「服ですか? ええと、確か……」
春霞は首を傾げながら答えた。
「薄茶色の服装でしたよ。洙仙様はあまり着飾ったりしないので、いつもわりと動きやすくて地味な装いが多いですね。もっと王族男子らしい装いをした方がいいとか、うちの
薄茶色、と聞いて苺凛は自分が安堵していることに気付き、複雑な気分になった。
───あれは夢。それにあんな奴、どうなろうといいじゃないの。
「苺凛様、大丈夫ですか?」
「大丈夫……。怖い夢を見たの……」
「そうでしたか。夢に洙仙様も? 意地悪でもされましたか?」
「どうかしら……。もうあまりよく覚えてないわ。でも汗をたくさんかいたみたいで、今朝のような怠さはないわ。お腹も少し空いてる……」
「まあ、そうですか。熱が下がってきているんですね。ではお粥など食べられそうですか?」
苺凛が頷くと春霞は安心したという表情で「用意してきます」と言って部屋を出て行った。
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