〈5〉後宮の最下位妃、花を喰われる
夜になり、湯浴みを済ませた苺凛は着替えて長椅子に座っていた。
寝所ではなく来客を迎える一室で洙仙が訪れるのを待っていた。
初めて洙仙に会ったときの緊張と恐怖を思い出し、苺凛は気持ちを落ち着かせようと上衣の袖に触れた。
湯浴みの後に着替えたとき、春霞に気付かれないよう袂に忍ばせた物を、苺凛は布上からそっと握りながら思った。
(これを使うことになっても後悔しないわ)
「───入るぞ」
外で声が響き、扉が開かれる。
洙仙は昼間とは違う飾り気のない白茶色の長袍姿で現れた。
苺凛が席を立ち拝礼をすると、洙仙は春霞に下がるよう目配せをした。
二人きりとなった部屋に沈黙が満ちる。
「顔を上げてこっちを見ろ」
俯く苺凛に洙仙は言った。
恐る恐る顔を上げると、近付いた洙仙が花に顔を寄せてきた。
「少しは艶が増したようだな」
耳元で囁くようなその声に、ゾクリと背筋が凍ったようになる。
「そんなに怯えるな」
硬直する苺凛に洙仙は言った。
「昼間のように花が散るのは俺も見たくない。あまり怖がらせるなと梠玖成に小言を言われた。今夜は食事をしに来ただけだ。用が済んだら帰る」
(食事?)
卓の上に食べる物など何もないのに。
それとも春霞がこれから運んでくるのだろうか。
考え込む苺凛の顔を洙仙が覗き込むように見つめた。
視線を合わせてくるその近さに苺凛はハッと息を呑む。
「怖ければ目を閉じてろ」
それは驚くほど優しい声だった。
そして次の瞬間、洙仙は苺凛の右耳上に咲いていた花をパクリと口に入れた。
咀嚼は少なく、すぐにゴクリと飲み込む音が耳の近くで聞こえた。
苺凛に眼差しを近付けたまま、霊仙花を喰らった洙仙は笑むように琥珀色の目を細めた。
苺凛は驚きのあまり血の気がひき足元がぐらついた。
そんな苺凛の腕を掴み、支えながら洙仙は言った。
「噛みつかれたわけでもないだろ。怖ければ目を閉じていろと言ったはずだ。もう片方を喰わせろ」
洙仙の声と吐息が耳にまとわりつく。なぜか頬が熱くなった。
「───い、嫌っ!」
肩に置かれた手をおもいきり振り払うと、カツンと音がして何かが床に落ちた。
(しまった!)
それは袂に隠し持っていた短剣だった。
洙仙は驚いたようにそれを見つめた。
苺凛はその隙に動いて短剣を拾い構えた。
「そんなに震えて。それで俺を殺せるとでも?」
洙仙の瞳は笑っていた。
「あなたを殺すんじゃない。私が死ぬの」
苺凛は刃先を自分に向けて構え直した。
「毒の次は割腹か。なぜそれほど死を選ぶ?」
「なぜって………い、生きていてもっ……わ、私にはもう何も……」
希望も夢も───。
「生きていく理由がないから……」
妃として後宮に入っても、私は何の役にも立てなかった。
無能な最下位妃だった。
「だから死を選ぶのか。死んで逃げるというわけか」
逃げる、という洙仙の言葉に苺凛は悔しさがこみあげるのを感じた。
洙仙は苺凛に冷たい眼差しを向けながら言い放つ。
「潔いなどと思ったら大間違いだぞ。生きていく理由がないと言ったな。じゃあ理由があれば生きようと思うのか?そういうものを求めたことがあるのか?
与えられるものをただ待っていただけで、必死に探すことも求めることも、自分で見つけ出すこともせず、自身の境遇や悲劇に酔っていただけだろ。
……おまえは大馬鹿だな、好きにしろ。ほら、ひとおもいに胸を突いてみろ」
苺凛は動けなかった。
一瞬で終わるはずなのに。
こんな男の言葉に動揺するなんて。
迷ってどうするの!生きていても幸せになれるはずないのだから。
覚悟してぎゅっと目を閉じたとき、短剣を握っていた両手首が掴まれた。
目を開けると洙仙が苺凛から短剣を奪おうとしていた。
必死の抵抗も空しく、洙仙の強い力であっさりと短剣は奪われてしまう。
「度胸はあるようだな。だがおまえはそう簡単に死ねない身体になっている。霊仙花のせいでな。試してやろう」
洙仙は掴んだままだった苺凛の右手の甲に短剣の刃先を軽く突き刺した。
ピリッとした痛みが起こり、真っ赤な血が白い肌に浮かんだ。
けれどそれはすぐに止まり、裂けた皮膚から真っ白な花びらが次々と溢れ出して重なり、やがて花の形を成した。
(傷口から霊仙花が⁉)
「春霞から聞いていると思うが、霊仙花は甘露から芽吹いた花だ。甘露には不老不死の伝説がある。だがあくまでも伝説。花も同類というわけでもないが、霊仙花には治癒と長寿の霊力がある。こうして傷を負ってもすぐに塞ぎ、おまけに花まで咲く。腹を裂いてもきっと同じだぞ」
放心状態の苺凛を横目に洙仙は言った。
「だが不死ではない。簡単には死ねないだけだ。霊仙花がおまえの身体に咲き続けるかぎり、おまえは死を選ぶことなどできない」
洙仙は意地悪く微笑むと苺凛の手に唇を寄せ、パクリと花を
そして治りかけた傷口に優しく唇を押し当て舌を這わせた。
それは心臓が飛び出すほどの衝撃で、苺凛は飛び上がるように後退る。
洙仙はそんな苺凛を愉しげに見つめながら言った。
「咲いたばかりの花は新鮮で美味だな。しかし甘さが足りないのが残念だ。だが今宵は充分な糧を得た。───見ろ」
洙仙は苺凛から取り上げた短剣の刃を片手で握った。
普通の人間であれば指を切り落としてしまう。けれど洙仙は違った。
まず柄が床に落ちた。そして洙仙が手を開くと握られた中から粉々になった刃の破片がパラパラと落ちた。
血の一滴も流れていないその様子に、苺凛は言葉も出なかった。
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