第4話 ずっと聴いていたい君の音 <夕>

 時間は過ぎ、日が暮れたころ。


 ドアをノックする音。

 ノックの音も、声もちょっと元気よく。


「おじゃましまぁす」


 と彼女が再び部屋に入ってくる。

 ちなみに鍵は玄関のポストの中という防犯意識の低い部屋。


 彼女は声のトーンを落として


「まだ寝てるかな」


 ベッドの方へまっすぐ近寄っていく。

 彼の反応はないが、それにも少しは慣れたよう。


 彼女は彼の顔色を見る。


「ぐっすり眠ってるわね。顔色もさっきよりは随分マシになったね。……よかった」


 彼が体を起こす。目を覚ましたようだ。


 彼が起きたことは嬉しいのだけど、さっきの汗拭きの件で少しだけ気まずい彼女は焦る。


「あ、起こしちゃった? か、体の調子はどう?」


 彼はだいぶよくなったと答えた。


 彼女はやはり嬉しいのだけどその様子を抑えて


「そう。じゃあ、先にこれ。着替えとタオル。全身汗まみれだから汗拭いて着替えちゃいな。シャツは、あたしのだからちょっと小さいかもしれないけど……。一番大きいやつ持ってきたからたぶんあんたでも着れると思う。あたしは台所借りてるから」


彼は遠慮したようだ。女子のシャツを着るのだから当然に。


 彼女は全く気にしていないように言う。

 なんとか自然に言うことができたが、実際はドキドキしていたし、断られたらどうしようと思っていたので若干早口で


「そんなの全然気にしなくていいよ。それともあたしのシャツじゃいや? あんたのクローゼット勝手に触るのはちょっと気が引けたし新しいやつ無かったら困るから一応持ってきたんだけど……自分のやつあるなら言ってくれたらだしてあげるよ?」


彼は素直に厚意を受け取ることにする。

せっかくの彼女の気持ちをわざわざ断るのは気が引けたようだ。


 彼女はとても安心したのだけど、その様子を隠しつつ


「……そ。じゃあそれ着て。着替えたら横になってるんだよ。台所、借りるね」


 水を注ぐ音や、電子レンジを扱う音。

 食器がお盆に乗せられ、そして運ばれてくる足音がする。

 『彼』が着替えられるだけの時間を見計らい、彼女はドアの向こうの老化に備え付けられたキッチンもどきで時間を過ごしてくれていた。


「はい。飲み物とスープ。作ってきたやつレンジで温めたよ。ってなんでまだ下しか着替えてないの」


 彼は言い訳する。

 彼女は若干呆れたように


「腕に力が入らなくてシャツが脱げない? ば、ばかじゃないの。赤ちゃんじゃないんだから」


 だけど、本当に彼が辛そうな様子を見ていたこともあるので彼の言うことを理解した彼女は優しく言う。


「あたしも手伝ってあげる」


 近づく足音。 

 彼の前に立つ彼女。

 まるで子どもに言うかのように


「はい、バンザイして、ばんざーい……」


 すぐに彼女の訝しげな声。


「な、なにさ?」


 彼が手を上げてくれず、彼に笑われてしまった。


 彼女はものすごく慌て、照れ声を上ずらせながら


「し、仕方ないでしょうが! 弟の世話してるときにはこういうんだから!」


 彼女のため息。ここで彼と言い合っても仕方ないし、すでにやらかした後であるので腹をくくる。


「もう……言うこと聞かないなら無理矢理脱がすよ! ほら、手、上げて!」


彼は謝罪の言葉を交えつつ、彼女にお願いしたようだ。実際は彼も無理をすれば着替えられただろうけど、彼女に少し甘えてみたくなったのかもしれない。断られると思っていたが、彼女は思いの外自分の要求をすぐに受け入れてくれ彼も彼女の優しさや面倒見の良さに感動していたようだ。


「じゃ脱がすよ。……え? べ、別に気にしないよ。あたし弟いるし! 小学生だけど……」


 小学生だけどという部分は小さな声だった。

 服を脱がせる音。


「よ、い、しょっと」


 彼女がとても小さな声で思わずつぶやく。


「わ……みちゃった……」


  慌てて


「なんでもない。うん、上半身の方はさっきほどびしょ濡れじゃないね」


 彼にさっきというのはどういうことか突っ込まれたようで

 さらに慌てて、声が上ずって早口になりつつ


「へ!? さっきっていうのは違うくって! みてないから! っていいから黙ってじっとしてて!」


 少し彼女も落ち着いた様子になって


「うーん。まだちょっと汗かいてるね」


 最後はとても照れながら、精一杯強がってそれを隠しつつ


「はい、タオル……自分で拭ける? ……あ、あたしが拭いて、あ、あげよっか?」


 彼はまさかそこまでしてもらえるとは思っていなかったようで、驚いたようだ。

 彼女は落ち着いた様子で応える。


「いいのかって、だってそのまま着たら気持ち悪いでしょ。それに腕、あがんないんでしょ?」


 彼はおどろきつつもお願いしたようだ。

 彼女は落ち着いたままの様子で


「よしよし。素直なのが一番だよ。ほい。じゃ、背中向けて。 そ。じゃ拭いていくよー」


 背中を拭いてもらう音が気持ちよく聞こえる。

 右、そして左。真剣そうな彼女の様子が、吐息と時折漏れる声でわかる。こそばゆい。

 彼女がぼそっと


「んしょ。ん。しょ。……背中って結構おおきいんだね……」


 彼はどういう意味と訪ねたようで、彼女は慌てて


「どういう意味って、別に意味なんかないよ! ただ男の子の背中って大きいんだなって、何言わせてるの! も、もういいから黙っててよ、もう……」


 丁寧に背中を拭いてもらい、彼女は満足そうに


「はい、終わり。すっきりした? そ。よかった」


 続いて、シャツを広げる音。


「じゃ新しいシャツ着せるからがんばって手、上げて。片手ずつでいいから」


 また彼女は余計な一言をつぶやいて、慌てる。


「意識があると全然やりやすいね。え!? いや、別になんでもないよ。次右手!」


 シャツを着せてもらう音。乾いたシャツの気持ちの良い衣擦れの音が心地よい。

 彼女は立ち上がると


「よし、じゃこれは洗濯しておくね。ん? 汗で汚れてて汚い? 今更何言ってるのさ。もうあたしの手はあんたの汗でびしょびしょだよ。病人はそんなこと気にせず治すことだけ考えてなよ」


 彼女は笑いながら言って立ち上がると

 ドアの向こう、小さなキッチンの隣りにある浴室の洗濯機に洗濯物を入れた。


 食器の音。

 スプーンがお皿に当たる音がする。


「どう、スープなんだけど。食べられそう?まだ温かいと思うけど温め直す?」


 食器の鳴る音。


「ふー、ふー、ふー、はい、あーん」


 彼は慌てて拒否したようだ。さすがに恥ずかしかったようだ。

 彼女はその様子に、理解できないと言った声


「な、なにさ?」


 彼は自分で食べるからいいと断ったようだ。

 彼女はようやく自分が恥ずかしいことをしていたことに気づいてまた慌てて


「自分で食べられる? は、早く言ってよ! こ、これは弟! そう、弟に食べさせるときにしてたからついね? はい。どうぞ! おたべ!!」


 陶器とスプーンが音を立てる。パンやカップ麺の食事が多い彼にとっては実家にいた頃を思い出すような心地が良い音。

 彼女は優しい様子で


「どう、食べれそ?」


 彼はその味にも感激したようだ。彼女は料理の腕は良いようだ。弟の世話で培ったのか、それとも彼女が料理が好きなのか。


 彼女も褒められてとても嬉しそうに、やさしく


「美味しい? そ。よかった」


 彼はこれは彼女が作ったものか聞いたようだ。


「そうだよ。あたしがつくったの。ネットに乗ってるレシピどおりにつくっただけだけどね。た、食べられる味ならよかったよ」


 しばらく、食器の音が続いた。彼女はその間無言で呼吸音だけ聞こえていた。彼はそれを心地よく感じながら、久方ぶりの他人との夕食、初めての自室での他人との食事に奇妙な幸福感を感じた。

 彼は食事を終えてごちそうさまをした。


 彼女は自然な口調で


「うん。おそまつさまでした。はい薬と水。それ飲んだらちゃんと寝ててね。あたし洗い物してくるから」


 彼がなにか言う前に彼女はテキパキと立ち上がって、ドアの向こうへ。

 キッチンもどきから水を流す音が聞こえる。


 生活音が彼を安心させた。

 そこで彼はあらためて、今日自分のせいで友達との予定をキャンセルさせたことを彼女に謝罪したようだ。


 彼女は洗い物をしながらちょっと大きな声で彼に返事を返す


「え、今日のこと? だから気にしなくていいって。あんたが気を使わなくて良いようにみんなには思いっきり楽しんできてって言っておいたから。さっき写真送られてきたけどみんな楽しそうにしてたよ」


 彼は彼女が大切な一日を無駄にしたことを申し訳なく思っていた。


「あたし? あたしは……まあ楽しみにしてたけど、あんたがいないんじゃ意味ないし……」


 最後の方は聞こえづらかったが彼にはしっかり聞こえていた。

 もちろん彼女はまた慌てふためいて早口になり、最後は照れ隠して


「うわあっ!! 今のはそういう意味じゃなくて、ほんとに違うの。違わないけど違うの。ああっもうあたしは何を言ってるんだ! とにかく早く薬飲んで寝ろ!」


 水道が止まる音。


「よし、終わりっと」


 部屋の中央へもどってきて、座った彼女が得意げに

「お。ちゃんと寝てるね。偉い偉い」


 彼はおなかがいっぱいになり、またうとうと眠りに落ちつつある。

 彼女はしばらく、部屋の真ん中に座ってスマートフォンをいじったり寝そべったりしていた。

 誰かがいてくれる安心感が彼の眠りを心地よいものにしていた。


 それから、しばらくして、四つん這いになって彼に近づいてきた彼女は彼の額を触りながら


「熱はどうかな……うーん。下がったのかなこれ。さっきよりは下がってると思うけどわかんない。体温計とかないの? あ、そう」


 数秒の間。

 声を裏返しながら


「お、おでこをくっつければいいんだっけ、こういうときは」


 彼女はかなり緊張した様子で彼の反応がないにも関わらず話しかける


「い、いくよ。いい? くっつけるからね。いきなり動いたりしちゃダメだからね?」


 彼女の顔が最接近する。


「ちょ、ちょっと! なに赤くなってんの。こっちまで照れるじゃんか」


 二人の額がくっつきあう。


 数秒。


 そして、彼女の声はもうしわけなさそうに


「う、全然わかんない……ごめん」

 

 さらに、緊張でなにがなんだかわからなくなった様子で


「むしろあたしのほうが熱あるんじゃないのこれ」


 と言ったところで、突然インターホンがなった。


「ひっ」


 っと彼女が悲鳴を上げ、ものすごい勢いで彼女は布団の中に飛び込んだ。


 もう一度インターホンがなる。また彼女は


「ひうっ」


 と小さな悲鳴を上げる。

 彼と彼女の距離はほぼゼロ距離になっていた。

 ヒソヒソ声で彼女は話す。


「みんなが来てくれたんだ。きっとアンタのこと心配して帰りに寄ったんだね……」


「アンタ心配されてるね、よかったねー……ってなんでアタシは布団の中に潜り込んじゃったの!? 今みんなに部屋の中に入ってこられたらなんて言い訳すればいいのこれ! バカなのあたし!」


「……か、鍵はかけたよね。かけた、はず」


 布団が動く音。さすがに『彼』が目を覚ましたようだ。もちろん目を覚ました『彼』も何がなんだかわからない。

 彼女のパニックはピークに達する。もう懇願するように


「お、起きたの!? ちょっとだけ、静かにしてて! お願い。今は何も聞かずにじっとしててぇっ」


 彼女は彼の頭を抱えるような体勢になっていた。

 ドクンドクンドクンと早打つ彼女の心音が『彼』に聞こえていた。

 彼女の吐息は耳の真横で聞こえてくる。荒い呼吸。

 一分かそこらの間だったが二人にとっては時が止まったかのように長く感じられた時間だった。


「行ったみたいね……」


 布団から出た彼女は一言


「ふー……汗だくになっちゃった」


 と言って無言になった。

 しばらくの間が空いて、彼女はどこかよそよそしいような声


「えっとですね。その。みんながね、たぶん帰りに寄ってくれたみたいでして」


 言い訳を途切れ途切れに『彼』と目を合わせられずに話す彼女


「なぜ布団に潜り込んだのかと言いますとですね。いきなりインターホンがなったのでちょっとびっくりしてしまいまして気が動転したと言うか、血迷ったと言うか何と言うか……」


「こんな時間までここにいるということはみんなにはいっていなかったもので……」


「とっさに隠れなきゃ! って思っちゃってですね、それで何故かお布団の中へ入ってしまったわけです……はい」


 数秒の間。


 急に大声で泣きそうな声で


「ほんとうなの! 信じて!」


 『彼』はここまでしてもらっておいて、彼女を攻めるわけもなく、笑って信じた。

 そもそもなにも迷惑になど感じていないのだから。

 彼女は安心した。


「そ、そう。信じてくれたなら良いけど。な、なににやけてんの」


 彼女は気づいたように、軽く驚いた声で


「あれ。随分顔色良くなったね。熱下がったんじゃない?」


 彼女は嬉しそうに言う。


「うん、だいぶ下がってると思う。あ、でもまだ無理しちゃだめだよ。もう少し寝てないと」


 再び布団をかけて上げた。

 電気を消す音。


「え? まだいてほしいって、気持ちはわかるけどあんまり遅くなると……。ま、いいか。あともう少しだけね。あんたがもう一度眠るくらいまではいてあげるから」


 彼女の声はすべての不安を消し去る優しい音色だった。

 近づいてきた彼女の吐息混じりの優しい声が聞こえる。


「ほら。目、閉じて。眠くなくても、ね」


 彼女もどこか楽しそうな嬉しそうな声で


「こーら。言う事聞きなさい」


 彼女は『彼』の肩あたりをトントンと心地よいリズムで叩きはじめた。

 弟を寝かしつけるときのものだろうが『彼』も今更それに突っ込むような野暮な真似はしない。


 暫くの間、ずっと彼女はやさしく叩いてくれていた。


 とん とん とん とん 


 『彼』は眠りに落ちる寸前に彼女に心からのお礼を言ったようだ。


 側から聞こえる彼女の声はやはりやさしく、穏やかで、ゆっくりと


「えっ……いいよお礼なんて……今度アイスでも奢ってくれたらそれでいいから……今はそんな事考えなくていいから……」


 数分かもっとか。

 彼女はずっと『彼』をやさしく叩き続けた。

 どこかで聞いたことがあるようなメロディの鼻歌が聞こえた。子守唄のつもりだったのだろうか。

 そして、『彼』は深く眠った。


「ふふ。寝ちゃったね。……ふあぁ……あたしも眠くなってきちゃった」


 彼女のあくび。

 今日一日で彼女も疲れていた。

 看病したからではなく、内心、『彼』の容態が悪くなれば救急車を呼ばないといけない。『彼』の様子を注意深く観察していないといけないと気を張っていたからだ。

 ようやく『彼』が気持ちよさそうに寝息を立て始めたのを見て安心したのだった。


「じゃあ、そろそろ帰るね」


 衣擦れの音、ゆっくりと気遣って立ち上がる音。

 できるだけ音を抑えてドアが開かれる。

 

 そして。


「あんたはつらそうにしてたのにこんな事言うとあれだけどさ、今日はあたしは楽しかったよ。あんたの看病して、二人ですごせて、さ」


「けっこう居心地良かったよこの部屋。次はあんたが元気なときに来てみたいな」


「早く元気になってね」


「おやすみ」


 優しく扉が閉められた音が聞こえた。





             

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ずっと聴いていたい君の音 ひみこ @YMTIKK

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