遭遇した恐怖に名前をつけるなら、それは夫

 結婚してから数か月が経った。この家での生活には慣れたけれど、悪妻になる計画はほんの少ししか進んでいない。


 勉強する、本を読む、数日に一度カルセドニーさんが来てくれて旅の話をしてくれる。その繰り返しだ。


 悪妻への進歩として、私は使用人1人ずつに順番に服や小物を贈る、という散財方法を覚えた。


 カルセドニーさんが来ると、その日の数人を使用人頭のデーナさんに選んでもらう。そして使用人が負担に思うほど高価でなく、もらうと嬉しいくらいの値段の物を、カルセドニーさんの助言を受けながら本人に選んでもらう。


 大きな買い物にはならないけれど、定期的に購入してもらえるのは嬉しいとカルセドニーさんが喜んでくれた。デーナさんによると、使用人たちも喜んでいるそうだ。これはとても良い散財方法だと思う。


 ジェイドも賛成してくれている。


 家の外にはあまり出ていない。何度か散歩に出てはみたものの、思った以上に人と出会うことが分かった。無遠慮な視線を向けられるだけならともかく、顔と名前が一致する程度の親戚に出くわした時には閉口した。


「オリヴィ! いったい何がどうなっているの? なぜカルロとあなたは一緒に住まないの? なぜ、ジェイドがあなたの家にいるの?」


 私はあいまいな微笑みを浮かべて、振り切って逃げる事しか出来なかった。


 人目を避けようと夜に散歩に出た時には、もっとひどい目に遭った。


 月明かりに誘われて、遅い時間だったけれど、そっと家を出た。少しだけ散歩して戻るつもりだったのが、久しぶりの外の空気に気が大きくなり思った以上に遠くまで出てしまっていたようだ。


 湖のような池のほとりまで出て思い切り深呼吸をした。とても気持ちいい、そう思った時ふと視線を感じた。少し離れた所に立ち、驚いたようにこちらを見つめているのは――カルロだった。


「きゃああああーーーー!!」


 自分を止めることが出来なかった。大声で叫ぶと私は全力で家に向かって駆けだした。物音が聞こえて振り返るとカルロが追いかけてきている。


 私は死に物狂いで駆けた。心臓が破けそうほど強く打ち、息が苦しくなったけれど懸命に駆けた。子供の頃から走るのは得意だった。全力で駆ければ追いつかれないはず、そう信じてとにかく駆けた。


 何とか追いつかれる事なく家に飛び込んだけれど、そこが限界だった。驚いた使用人が駆け寄って来たけれど、私は激しく呼吸をする事で精一杯で口を利ける状態ではない。あんなに駆けたのに、寒くて仕方がない。身体の震えが止まらない。苦しくて涙も止まらない。


 あまりに異常だったのだろう、使用人が部屋で仕事をしていたジェイドを呼んできてしまった。


「オリヴィ! 何があった!」


 息が整ってきても震えて泣き続ける私を見て、ある程度のことを察したのだろう。ジェイドは使用人を下がらせて、私が落ち着くまでそばにいてくれた。


「散歩に出ただけなのに、カルロがいたの。怖かったの」


 それ以上は聞かずに、そっと背中を撫で続けてくれた。


 ちなみにこの出来事について、ジェイドはカルロに尋ねられたそうだ。私がすごい悲鳴を上げて走って行ったけれど何があったのか、と。


「お前が怖くて逃げたんだ、と伝えたら絶句していたよ。あいつの頭には枯れ草でも詰まってるに違いない。オリヴィが怖がる価値すらないな。


 オリヴィ、あいつを見たら、頭の中に枯れ草詰まっているくせに、って思え。そんな奴、悪妻の道を突き進んでいる君が怖がる理由はないだろう?」


 偶然出くわしてしまった時の心得を教えてくれた。それでも私は二度と夜に散歩には出ないことにした。


 だから、カルセドニーさんの提案はとても嬉しかった。


 客間で使用人の服を選んだ後、カルセドニーさんを図書室の小部屋にお通しするのが常だった。夏が終わり、秋の香りがする。カルセドニーさんは、大きな窓からの眺めに気を取られる私を気遣うように尋ねた。


「ご婦人が日焼けを嫌うのは当然ですが、それにしてもあなたは顔色が悪い。外で日差しを浴びていますか?」


 全然外に出ていない、そう伝えると少し困ったような顔をした。


「あなたは私が提案する中からしか本を選べない。もしよろしければ一緒に街の本屋に行ってみませんか?」

「街に?」


 行ってみたい。でも、ジェイドに許可をもらわなければ。


「義兄が帰ってきたら、聞いてみます」


 カルセドナーさんは少し険しい顔をした。


「夫ではなく、兄、ですか」


 普通は夫に確認するだろう。失言をしてしまった。うろたえる私を見てカルセドナーさんはそれ以上は何も言わなかった。


 私はジェイドに、街に行きたいとは言い出せなかった。

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