月は綺麗だけど君はそうでもないね②
西高は偏差値も低くなく家からも近かったため、僕はほぼ迷わずに進路を決めた。しかし当時の僕の学力と成績で西高に合格するのは結構シビアで、塾に通い始めたのはそれが理由だった。
「君も受験ノイローゼ?」
「あたしは高校行かないから」
「えっと、高専とか?就職とか?」
「どこにも行かない。中卒で終わり」
彼女のその言葉を聞いた時、僕は宇宙人に遭遇した気分だった。だって周りでは、部活に打ち込んでいる人たちでさえ、進路の事で頭を悩ませていたのに、彼女は一切の迷いも無く、中学校卒業後何もしないと言い切ったのだから。
「あ、え?それじゃあ生きていけないよ?」
「別に良くない?だってさあ、学校に行って、友達と遊んで、就活をして、働いて、死ぬ。人生なんて、それだけの事なんだよ。」
「……」
「義務教育が終わったらあとは親に養ってもらって、あたしが路頭に迷って死んでもそれはそれで別に構わないし。それに――」
「君は何が嫌なの?」
僕も当時は頑張って生きる意味なんてあるのかとかぼんやりと考えていたから、僕が怒る資格なんて無かったと思う。けれど、好きな物すべてを馬鹿にされたみたいに感じて、怒りを抑えたくなかった。
「は?何が?別に何も嫌な事なんて無いけど」
「だったらわざわざ、そんな地獄みたいな生き方しないでしょ」
「それはあんたの価値観でしょ?」
「君のその価値観はそんなに大事なの?」
「はっ。話になんないわ」
そう言って、彼女は僕の前から去ろうとしました。僕は頭が真っ白になって、あんなに人にムカついたのは、生まれて初めてだった。
憎たらしくて、そんな彼女を一瞬でも好きになりかけた自分にも腹が立って、僕は思わず自転車を降り捨てて、力一杯に叫んでしまった。
「この中二病女ァー!ご町内の恥さらしィー!」
何と言い表せば良いのか。きっと当時は、僕も彼女も中二病だったという事なのだろう。
「ちょちょちょ!馬鹿、お前こんな時間に何て大声出してんの!?」
「ごめんつい。でも、これから野垂れ死ぬくせに、ご近所気遣ってんじゃないよ」
「何を~。かぶる度胸も無いのにシルクハット持ち歩いてるくせに」
「今はそれかぶってんの君だからね」
「ああ!?こんなもの脱いでやるわ!」
上にまとめて束ねておいたカーテンを一気に落とした時のように、彼女が脱いだシルクハットから、長い髪の毛が落ちてきた。そしてその勢いで彼女は膝が曲がり腰をついてしまった。
「ひゃあっ!」
「くふっ……だ、だいじょうぶ?」
「笑ってんじゃん。てか、マジで何なのこのシルクハットさあ」
「アハハハハ」
「ハハハハ。もう~」
「会ったばっかで何やってんだろうな僕たち」
「本当だよ」
僕たちはなんだか可笑しくなって一緒に笑い合った。
それから僕が差し出した手を掴んで彼女が起き上がり、またあのシルクハットをかぶって、僕たちは各々の帰路に就いたのだった。
「深田さん家ってここから近いの?」
「いいやもっと遠く」
「でもおつかいって」
「父親の知り合いの家に届け物。あと深田さんは語感がもっさりしてるからやめて」
「じゃあ千夏で」
「ん!?よ、呼び捨てかい」
後でわかったのだが、千夏の家と僕の家は結構近い。だいたいコンビニ感覚で、歩いて行けるくらいの距離感だ。
「僕の事も孝太で良いよ」
「こ、こうた、くん。いやいや!お前はお前で良いよ」
「お前て!?熟年夫婦みたいな。しかも僕が婦の方だし」
「熟年とか言うな!」
「気にするとこそこなんですかあなた」
僕は自転車を降りて手で押しながら、夜になって雰囲気の変わった町の中を歩いていた。そして、すぐに話題が尽きて二人無言になってしまった。
でも僕はさっき彼女が言っていた言葉がずっと頭から離れなかった。ずっと否定したかったけど、中学生に限らず、人生の意味を考えて答えを出すというのは難しいことだ。
“人生なんて、それだけの事”。
考えて、考えて、考えて。僕は彼女が家の門扉を開いて入ろうとした時に、咄嗟に、彼女にあるゲームを持ち掛けた。
「高校の三年間。それまでに僕が君の人生に意味を与えてやる。できたら僕の勝ち。できなかったら」
「あたしの勝ち?勝ったらどうなるの?」
「君が勝ったら一生何もしなくて良いように、僕が金を出してやる。僕が勝ったら、そうだな……。二人が大人になったら、三年間の思い出を肴に一杯飲もうよ。君の奢りで」
「アハハ、ほんと痛い奴。良いよ、お情けで一回だけその勝負受けてあげる」
こうして僕と千夏は、二人の将来を賭けた高校三年間のゲームをすることになったのだ。
「じゃあまずは勉強頑張ってね」
「は、はあ!?それは僕の台詞だがぁ?」
「西高志望でしょ?あたしあんな所簡単に受かるし」
「へ?」
「ほら、あたし考えると髪伸びちゃうじゃん。テスト中とか困っちゃうから、考えなくても答えわかるように努力してたの。そしたらなんか勉強得意なってたんだよね~」
千夏が男だったら喧嘩が始まっていた。殴り合いのね。
「あたしはもうちょいレベル高い所行きてえなぁ」
「ん?あぁ。心配いらないよぉ」
「そう?なら良いけど」
後先考えずに発言するもんじゃないという教訓を、僕はその時痛感した。本当は西高にも受かるか危ういレベルだったのに、更に追い込むはめになるとは。
「いやぁ今日は月が綺麗だわぁ。良く眠れそー」
「月は綺麗だけど君はそうでもないね」
「はいはい。おやすみおやす……はっ!間違った。おやすんでる暇無いのか。お勉強、頑張ってね~」
「くっ!変人め!」
「誰が言ってんだよ!」
「絶対勝つから!“死んでもいい”、なんて言わせないからな。」
これが中学時代の僕が過ごしたあの奇妙な夜の顛末だ。
そして今、
「合格おめでとう」
「おかげさまで」
僕たちは春を迎え、一度きりのゲームが始まった。
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